2011/11/21  

但馬牛【たじまうし】

 

但馬牛【たじまうし】
放牧
庭先

但馬牛を飼う但馬の人々は、牛を家族の一員として一つ屋根の下で共に寝起きして、雪深いきびしい風土に生き、温和で姿美しい但馬牛を大切に育ててきました。

■但馬牛博物館
・新温泉町丹土1033
・TEL.0796-92-1005
・午前9時~午後5時
・木曜定休
(休日と重なった
場合は次の平日)
・入館料/無料

●関連情報
新温泉町役場
但馬牛博物館

●但馬牛とは
農耕用の機械が導入されるまで、農家は農業の働き手のひとつとして、各家庭に1頭は牛を飼育していました。家族の住む母家に同居させ、我が子同様に愛情を注ぎ、大事に育てたと言います。起伏に富んだガタガタ道は、牛の足腰を丈夫にし、但馬特有の夏の湿気と冬の寒気がよい毛並みをつくりました。子牛は競り市で売られ、農家の大事な収入源でした。優良牛の育成を目指して、よい特性を備えている牛を選び、何世代もの近親繁殖を繰り返す間に、その優れた特質が固定され、血統(蔓牛)をつくってきました。現在も兵庫県外の優良牛との繁殖はせず、純血を守っています。

●但馬牛を創った男「前田周助」
現在の但馬牛の歴史を語る上で、なくてはならない人がいます。香美町小代区に生まれた前田周助(1797~1872)です。牛の取引と小代牛の宣伝のために、わざわざ大阪の市場まで牛を連れて出かけたという逸話が残る人物。彼の人生はまさに但馬牛とともに生きたと言えます。周助は「蔓(つる)牛」の開発に一生をかけました。「蔓」とは、他地域との交流を避けた「閉鎖育種」の方法で生み出された、発育・資質・繁殖性の優秀な牛の血統のことを言い、その系統牛を「蔓牛」と呼びます。但馬牛の優れた特質は、長年に渡り、他との交配をさけ、改良に改良を重ねて受け継がれた優良な血統から生み出されました。

「蔓牛」を創り出すことで、安定的に優秀な子牛が生産することができます。周助は系統牛になりそうな牛がいると聞けば、東へ西へと駆け回りました。そのためには私財を投げ打って、牛を買い求める毎日。そしてついに100年に一度の雌牛を手に入れました。飼料の選定から一切の手入れ、特に繁殖には多年の研究と経験の全てを注ぎました。こうして周助の生み出した牛は「周助蔓」と言われ、現在の但馬牛の代表的な蔓のひとつ「あつた蔓」の素となりました。

●伝説の但馬牛「田尻号」
昭和14年に香美町小代区に生まれた伝説の雄牛「田尻号」。全国和牛登録協会の資料によると、全国の黒毛和種繁殖雌牛の99.9%が、「田尻号」の血統に繋がることが分かりました。名だたる高級黒毛和牛の母牛の大部分が、この「田尻号」をルーツに持っています。明治に入り西洋文化の影響で肉食が盛んになると、日本の小型の牛を改良するため、体格のよい外国の牛と交配させることが進められました。但馬でも例外ではなく、外国牛との交配が行われましたが、肉質の低下を招き、優良な血統牛を失いかねない危機におちいります。

第二次世界大戦後、但馬牛の純牛種を守ろうと、新しい血統作りが始まりました。ここで注目されたのが「周助蔓」。険しい山々と深い谷あいにあり、隣村との行き来が困難な小代には、外国牛との交配を免れた但馬牛が奇跡的に生き残っていました。中でも田尻松蔵が丹精込めて育て上げた「田尻号」は、生まれて半年で美方郡の種オス牛候補として認められた名牛。特に遺伝力の強さは他の雄牛の中でも群を抜いていたと言います。

但馬の山間部では家の玄関の横に牛小屋があり、昔から家族同様に牛が育てられてきました。松蔵も「田尻号」を我が子のように可愛がり、毎日運動と手入れを欠かさなかったそうです。そのおかげでほとんど病気をすることもなく、昭和29年まで種牛として活躍しました。昭和30年には長年の功績を讃えられ、黄綬褒賞を受賞しています。


●但馬牛の特徴

1.資質が抜群によい
毛味、色味、骨味が良く皮は薄く、弾力ゆとりがあり、
品位に富み体のしまりが良い。
2.遺伝力が強い
全国の和牛改良に広く活用されている。
3.肉質、肉の歩留りがよい
肉の味がよく、骨が細く皮下脂肪が少ない。
4.長命連産で粗飼料の利用性が良い
長命連産。山野草を好み、古来より
「但馬牛は、山でつくり、草で飼う」といわれています。

2011/11/21  

イヌワシ

 

イヌワシ

イヌワシ・国指定天然記念物
(場所は不特定)

大空を飛翔する姿はまさに風の王者
 

●関連情報
日本イヌワシ研究会

●風にのり、大空を悠々と飛翔する風の王者
両翼を広げると、畳よりひとまわりも大きいイヌワシは、山岳地帯の険しい断崖や高木の上に小枝を積んで、大きな巣をつくります。
スズメやトビのように里で見かける鳥ではなく、但馬では、氷ノ山山系に棲んでいます。主食はノウサギ、ヤマドリなど。空高く飛び、獲物を見つけると翼をすぼめて猛烈な勢いで下降し、すばやく捕らえます。
風格のあるその姿と大きさ、鳥の中でも最強の部類に属し、食物連鎖の頂点に位置しており、豊かな自然条件のもとでしか生きていけません。●絶滅の危機にひんする孤独な王者
イヌワシは、但馬以外にも全国に生息していますが、絶滅の危機にひんしています。兵庫県下のイヌワシも例外ではなく、スギ、ヒノキなど針葉樹の拡大で、主食のノウサギなどが減り、慢性的なエサ不足で体力が弱ったせいか、毎年連続でヒナを育てることができなくなってしまいました。
また、イヌワシは決まった狩り場をもっていますが、人間や車を極端に嫌います。最近、林道が増えて、そこに人間や車が入ってきて、エサの捕獲に影響が生じています。第二のコウノトリにしないためにも、保護活動や環境の保全に地道に取り組み続け、大空に悠々とイヌワシが舞う但馬を誇りにしたいと思います。

2011/11/21  

志村喬【しむらたかし】

 

志村喬【しむらたかし】
志村喬
(1905-1982)
明治38年に朝来市生野町に生まれる。400本近くの映画作品に出演する。日本映画史に残る名優。

●関連情報
志村喬記念館公式HP

●大学在学中に演劇と出会う
黒澤明作品で有名な映画俳優・志村喬(本名島崎捷爾)は、明治38年(1905)に朝来市生野町で生まれました。銀山で有名な生野には、当時、鉱山開発会社の社宅が建ち並び、志村もそこで暮らしていたといいます。
生野小学校卒業後、大正6年(1917)、神戸第一中学校に入学しますが、病気のため宮崎県立延岡中学校へ転校。その後、関西大学予科に入学します。
2年生の時には家計を助けるため、働きながら学校へ通いました。俳優になるきっかけとなったのは、在学中にアマチュア劇団を立ち上げたことから。次第に熱中していき、大学を中退して、25歳の時に舞台俳優として本格的に活動を開始します。

●黒澤作品での名演技
劇団を転々としているうちに、トーキー映画に魅せられ、30歳で映画俳優へ転身。伊丹万作監督の作品で映画デビューします。
昭和18年(1943)には運命の人、黒澤明監督と出会い、東宝へ移籍。このことが彼の俳優人生の大きな転機となりました。
特に主人公を演じた『生きる』でのいぶし銀の演技は、国内外から高い評価を得ています。ラストで主人公の志村がブランコに乗りながら公園で歌う姿は、涙を誘う感動の名シーンとして有名です。その他にも『七人の侍』『隠し砦の三悪人』など、黒澤作品には欠かせない名バイプレイヤーとして活躍しました。
生涯を通じて出演した作品は400本近く。昭和24年(1949)、『野良犬』で男優演技賞を受け、まさに日本映画史上に残る名優といえます。昭和57年(1982)2月11日に、76歳の生涯を閉じました。

2011/11/20  

日輪寺【にちりんじ】

 

日輪寺【にちりんじ】

日輪寺
・朝来市桑市

・鰐口(工芸品)

県指定文化財

●応永年間に作られた貴重な文化財「鰐口」
天平年間(729~749年)、奈良時代の四聖の一人とされている「行基」により創建されたと伝わっています。本尊は如意輪観音。行基の作といわれる像高80cmの立像は、秘仏となっています。
堂前にある応永年間(1394~1428年)に作られたとされる「鰐口」は、仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種であり、貴重な文化財です。
境内の近くには、元禄年間(1688~1704年)僧清雅の創建という末寺無心庵の跡があります。一堂が建ち、その中に立像で豪華な木彫の地蔵菩薩立像が安置されています。

2011/11/20  

法宝寺【ほっぽうじ】

 

法宝寺【ほっぽうじ】

法宝寺
・朝来市和田山町岡田

・木造薬師如来坐像(彫刻)
・石造宝篋印塔(建造物)

県指定文化財

●珍しい手法で作られた「薬師如来坐像」
天平21年(749)、行基によって創建されたといわれる法宝寺は、真言宗高野山派に属する古刹です。平安時代に制作された本尊の「薬師如来坐像」は、33年ごとに開帳される秘仏。寄木造で膝は通常1材で作られますが2材からなり、大変珍しい手法のものとされています。
南北朝時代に造立された「石造宝篋印塔」は花崗岩で作られています。笠石の下部を請花とし、基礎の反花と対応させています。
法宝寺には羽柴秀吉による但馬攻めの際、戦乱から免れるための制札が残っています。

2011/11/20  

楽音寺【がくおんじ】

 

楽音寺【がくおんじ】

楽音寺
・朝来市山東町楽音寺

・経瓦(考古資料)
・絹本著色涅槃図(絵画)
・絹本著色両界曼荼羅図
(絵画)

県指定文化財

●阿弥陀如来像が彫り込まれた珍しい「経瓦」
大同年間(806~810)に創建と伝わる古刹。兵庫県指定の重要文化財である「経瓦」「仏涅槃図」「両界曼陀羅」は広く有名です。
中でも平安時代後半によく行われた経瓦は、粘土板に仏教の経典を線刻して焼きあげたものが一般とされていますが、この瓦経は仏像の胸部に1字ずつ経典が書きこんであります。12世紀頃の楽音寺経塚から出土したもので、縦が17.8cm、横が17.5cmあります。
また、楽音寺は薬師如来、子安地蔵、福寿弁財天は多くの信仰をあつめ、寺山一帯の 「四国八十八カ所霊場」と共に、今なお参詣者の絶えることがありません。境内には享保一揆の義民松岡新右衛門や、生野義挙の志士小山六郎の供養碑、その歴史を伝えてくれます。
境内にはウツギヒメハナバチの巨大集団営巣地があり、県の天然記念物に指定されています。

2011/11/20  

鷲原寺【わしはらじ】

 

鷲原寺【わしはらじ】

鷲原寺
・朝来市岩津

・石仏群
石像阿弥陀如来坐像
(彫刻)
・絹本著色仏画十二天像
(絵画)

県指定文化財

●16体の石仏が佇む「岩屋観音」
創立年代は不明ですが、法道仙人が開基したと伝わります。鷲原寺から1kmほど参道を登った先にある奥の院「岩屋観音」には、石仏群が安置されていて、県の文化財に指定されています。岩屋観音は崖にはり付くような形で建てられており、中は岩肌がむき出しになっています。
観音山の崖の中腹にあり、鎌倉時代に石工心阿が刻んだ十一面観音菩薩など16体の石仏が佇んでいます。花崗岩から丸彫りされ、天井には大日如来像が浮き彫りになっています。この石仏は節分と4月の春の大祭、及び毎月18日の午前中だけ開帳されます。
同じく県の文化財に指定されている「絹本著色仏画十二天像」は、密教で信仰される守護神で、細部まで丁寧に描かれ力感があります。 図には応仁の乱で知られる山名持豊(宗全)の書と花押が記されています。
また、2月の節分には幸福を祈願して、1周30mもある数珠を回す「数珠繰り」が行われています。

2011/11/20  

綾部家住宅【あやべけじゅうたく】

 

綾部家住宅【あやべけじゅうたく】

綾部家住宅
・朝来市生野町口銀谷

国登録有形文化財(建造物)

 


●黒い漆喰で覆われた趣のある木造平屋建て住宅

綾部家住宅は、加藤静太郎の育った加藤家の住宅として知られています。加藤静太郎は、ドゥー・セヴォズという鉱山技師ときよという娘の間に生まれ、ルイ・セヴォズと名付けられました。このことからドゥー・セヴォズは鉱山技師として解雇処分になり帰国させられ、ルイ・セヴォズは鉱山幹部の加藤正矩に、長男・静太郎として引き取られました。
綾部家住宅は、「銀の馬車道」と呼ばれる当時の高速道路と言える馬車専用道路の整備前後に建築されたと言われています。綾部家住宅の外観は、切妻造りの平入のツシ二階建ての建造物で、下屋根をつけ桟瓦葺造りになっています。綾部家住宅の内部は北に土間が、南に部屋が四室あります。二階部分が低く壁の上塗りに黒い漆喰が使われており、それらの外観は非常に趣のあるものになっています。

2011/06/28  

コウノトリ

 

コウノトリ
ダウンロードして動画をお楽しみください。

 

高速回線用 低速回線用
13.2MB 8.1MB
PLAY TIME:3分
動画を楽しむためにはMicrosoft社のWindows Media Playerが必要です。

←お持ちでない方はこちらから無償でダウンロードできます。

2011/06/28  

松本家住宅母屋【まつもとけじゅうたくおもや】

 

松本家住宅母屋【まつもとけじゅうたくおもや】

松本家住宅母屋
・朝来市生野町口銀谷
国登録有形文化財(建造物)


旧松本醤油店の軒蛇腹

●町屋の変遷を物語る店舗兼用住宅
2階の塗籠めた壁から重厚な印象を受ける松本家住宅母屋は、明治初期に建てられ店舗兼用住宅として利用されていました。大正期には増築したので、時代に伴う生野の町屋変遷も楽しめます。元々醤油の製造販売を営んできたこの商家は、平成16年(2004)国の有形文化財に登録されました。