青倉神社「目の神様」 |
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孝行息子に神様が与えた水朝来市にある青倉山。
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青倉神社「目の神様」 |
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孝行息子に神様が与えた水朝来市にある青倉山。
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小山弥兵衛と心諒尼 |
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祖父を弔う孝行物語昔、東河庄野村(朝来市和田山町東河地区)に「小山弥兵衛」という若いながらも人望が厚い男がいました。1738年、長く続く凶作のため、庄屋たちが訴状を持って生野代官までお願いに行きましたが、農民が鍬や鎌を持って集まってしまい、これを一揆としてみなされ、その中心にいた弥兵衛は長崎県の壱岐島へ流されてしまいました。見性寺に預けられた弥兵衛は、島民の農作業を手伝ったり、子どもたちに読み書きを教えたりするなど、島民から慕われる存在となっていきました。 一方、弥兵衛の孫娘は祖父に会いたいという一心で、僧になれば修行で全国を歩き回り、祖父の所にも行けると考え、尼僧になるため梁瀬の桐葉庵(現在は桐葉寺)に入り修行を開始、法名を「全鏡」と名乗りました。壱岐島までの困難な道のりを進み、ようやく弥兵衛と対面を果たした全鏡。月に数日間だけ博多から壱岐へ渡り、祖父の世話をしました。 弥兵衛が亡くなった後は遺骨を携えて帰郷し、円明寺(朝来市和田山町宮)から「心諒尼」という戒名をもらい、水月庵(現在は水月院)を再興したと言います。この史実の縁がきっかけとなり、現在、朝来市と壱岐市は友好都市提携を結んでいます。
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粟鹿神社・勅使門の鳳凰 |
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彫刻の鳳凰が鳴く七不思議朝来市山東町にある粟鹿神社の創建は、2000年前に遡ります。但馬国一の宮で、延喜式に定める明神大社でもある粟鹿神社。昔から神徳の高い神社として朝廷の尊崇が厚く、国家の大難に際して四度の勅使が派遣されたと伝えられています。その折にご加護を得られたことを記念して、約600年前に勅使門が建てられました。 この由緒正しい神社には、古くから伝わる7つの不思議な話が残っています。その1つが江戸期に活躍した彫師、左甚五郎が勅使門の左右に彫った2羽の鳳凰の話です。 この彫刻の鳳凰、名作ゆえに夜な夜な門を飛び出し、人を驚かせていたと言います。鳴き声もうるさく、苦情が来たので、甚五郎が1羽の首を切り落とすと、以後鳴かなくなったと伝えられています。それを裏付けるように、現在は左右の門扉の右の扉の鳳凰が首から下だけになっています。首が切り落とされたため現在は鳴くことはありませんが、神社を訪れれば、今も伝わる鳳凰の躍動を感じることができます。
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赤淵神社の鮑伝承【あかぶちじんじゃのあわびでんしょう】
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鮑にまつわる不思議な伝承が残る「赤淵神社」竹田城跡のあるまち朝来市和田山町。市街地から少し離れた枚田地区に、但馬国造一族の日下部氏を奉祭する赤淵神社が鎮座しています。山ぎわに立つ鳥居をくぐり石段を上がっていくと、楼門、神門、勅使門と格式のある三つの門が続き、上がった先には広い境内が見え、開放的な雰囲気を醸し出しています。小高い丘にある神社で、秋には橙色の暖かみある紅葉が境内を彩ります。 祭神は赤渕足尼神、表米宿禰神、大海龍王神の三柱を祀っている。大海龍王とは海の神で、この神社にはその昔、アワビが難を救ったという伝説が残っています。大化元年(645)頃。日下部氏の祖・表米宿禰命が、日本に来襲した新羅の軍船を丹後・白糸浜で迎え撃った際の話。 逃げる敵を海上で追撃していると、嵐に襲われ船が沈没しそうになりました。するとその時、海底から無数のアワビが浮き上がり、それによって船は助けられたといいます。帰路途中にも逆風が吹きますが、再び無数のアワビが船を持ち上げ、事なきを得ました。さらに美しい船が現れ、その船の先導で丹後の浦嶋港(京都府伊根町)に入りました。表米が大船に行くと誰もおらず、竜宮に住むといわれる大きなアワビだけが光っていました。 表米は危機を逃れ勝利したことを海神のご加護と悟り、そのアワビを衣服に包んで持ち帰り、赤淵神社を建てて祀りました。それ以来赤淵神社の祭礼にはアワビの神事が行われ、近隣ではアワビを大事にし、食べてはならないという風習が伝えられています。
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地蔵祭り【じぞうまつり】
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●地蔵祭り 但馬三大祭りの一つ和田山地蔵祭は、かつて和田山付近を流れる円山川が増水する度に亡くなった水死者の霊を慰めるために、近隣の人々が円竜寺に子安地蔵尊を建立したことが起源とされています。 |
地がため地蔵【ぢがためじぞう】
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但馬の開拓時に祈願「地がため地蔵」 六十六地蔵を巡る、但馬の遍路道 但馬地方と丹波地方の境となる遠阪峠。朝来市山東町側の登り口付近に、「地がため地蔵」と呼ばれるお地蔵さんを祀った小さな祠があります。 |
ざんざか・ざんざこ【ざんざか・ざんざこ】
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●大杉ざんざこ踊 ・養父市大屋町/大杉二宮神社/8月16日/国指定無形民俗文化財 大杉ざんざこ踊は鬼踊りとも呼ばれ、かけ声の中、大シデを背負った4人の中踊りを大勢の踊り子が取り囲み、古式にのっとり踊られます。発祥は明らかではありませんが、一説によると、昔、カガミという流行病が村を襲い、これを嘆いた庄屋が慶安2年(1649)に伊勢に参拝した帰途、奈良にてこの踊りを習い覚え、旧暦7月16日、氏神に奉納したところ、村が次第に平穏になったと伝えられています。 ●若杉ざんざか踊 大杉ざんざこに対して若杉ざんざか踊は姫踊りという別名が表すように、優雅でかつ古式ゆかしい踊りです。村に残る文書の中に、その昔、大和の修業者が一人やって来て、村で流行していた大難の病気を平癒するため、氏神様に踊りを奉納したことから始まったとされています。 |
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●九鹿ざんざか踊り ・養父市八鹿町/九鹿日枝神社/10月第3日曜日/県指定無形民俗文化財 神功皇后の三韓征伐の凱旋を祝って踊ったのが始まりと伝えられていますが、由来を明らかにするものがありません。踊りの動作、歌詞、服装などに室町時代の色が濃く、当時の修験者らが疫病退散、五穀豊穣を祈願して、奉納したのが起源と推測されています。 |
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●寺内ざんざか踊り ・朝来市和田山町/寺内山王神社/7月第3日曜日/県指定無形民俗文化財 五穀豊穣や子孫繁栄を願って、慶安(1648~1652)のころに始まったといわれ、以来、地元衆の皆さんによって引き継がれています。山王の遣いである猿にふんした12人の踊り手が円陣を組み、腰の太鼓を「ザンザカザットウ」の囃子(はやし)に合わせて打ち鳴らします。また、その中心では2人の踊り手が飾り付けをした高さ3メートルの「しない」と呼ばれる竹を背負い、それをからませたり地面に打ちつけたりしながら踊りを奉納します。 |
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●久谷ざんざか踊り ・新温泉町(旧浜坂町)/久谷八幡神社/9月15日/県指定無形民俗文化財 全国各地に分布している風流太鼓のひとつで、八幡神社の祭りに、神前や家々の庭先で五穀豊穣や氏子の安全を願って踊られます。踊り手は若い中高生で、華やかな一文字笠をかぶり、腰につけた締太鼓を叩きながら踊ります。 |
青倉神社大祭【あおくらじんじゃたいさい】
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●青倉神社大祭 「目の神様」として霊験あらたかな神社として知られる青倉神社。その由来は、この地を訪れた役の行者の目にウドの葉の小さなトゲが刺さり、岩のすきまから流れ出る水で洗い、眼の痛みをとったとされています。行者は山を下り、村人達にその岩間の水のことを「神水」と名付け、神水のそばにそそりたつ大岩を「ご神体」と定めたことから、近隣の村人が道を着けたり祠を建てるなどして、青倉神社が出来ました。事実、この水はホウ酸を良く含み、科学的にも目に良く効くことが分かっています。 |
但馬の養蚕【たじまのようざん】
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●養蚕の歴史 但馬は古くから養蚕が盛んでした。元禄10年(1697)に桑の名産地としての但馬をつづった「農業全書」も発行され、特に江戸中期には、新しい理論や技術が導入され、養蚕業は飛躍的に発展しました。 ●養蚕の技術を高め、ひろめた人々 ●その後の養蚕 但馬地方はこうした先人たちの努力によって優良な繭の生産地となり、機械製糸が地場産業として栄えました。養蚕製糸業は大正・昭和の経済恐慌の時には、但馬の農家を助けた大切な副業であり、重要な輸出産業でした。しかし、昭和20年代半ばになると、ナイロンなどの新素材・技術が開発され昔の面影は失われていきました。 |