2021/01/24  

コウノトリ伝説【こうのとりでんせつ】

 

コウノトリ伝説
【こうのとりでんせつ】

コウノトリ伝説
コウノトリ伝説
久々比神社
・豊岡市下宮
日本で唯一、コウノトリにゆかりがある神社。室町末期の建造と推定され、三間社流造の建物である本殿は国の重要文化財に指定されています。

 

 

皇子の心を動かしたコウノトリ

大空を優雅に舞うコウノトリの里、豊岡市の「久々比神社」には、「日本書紀」に記述が残るコウノトリ伝説が古くから伝わっています。

「久々比」とは鵠のことで、コウノトリのことを意味します。垂仁天皇が誉津別皇子を連れ、宮殿の前に立った時、コウノトリが大空を飛んでいました。その時、皇子が「これは何という名の鳥だ」と言葉を発します。皇子は30歳でしたが、まだ言葉を話すことができず、赤ん坊の泣き声のような声しか出ませんでした。この時初めて人並みの言葉を話したのです。天皇は大変喜び、「誰かあの鳥を捕まえて献上せよ」と言い、天湯河板挙が「私が必ず捕らえて献上します」と申し出て、大鳥が飛び行く国々を追いかけました。そして、出雲国か但馬国で捕らえ、献上したといわれています。

このことからコウノトリは霊鳥として大切にされ、その鳥が棲んでいる土地を久々比と呼び、木の神「久々遅命」をお祀りしました。これが久々比神社となったそうです。コウノトリは子宝を運んでくるという言い伝えから、全国から多くの人々が参拝に訪れ、境内にはたくさんのコウノトリ絵馬がかけられています。

 

 

2019/03/02  

淀の大王【よどのだいおう】

 

淀の大王【よどのだいおう】
淀の大王
淀の大王
淀の洞門
・豊岡市竹野町切浜
切浜海岸の北東に位置する幅約25m・高さ15m・奥行き40mの洞門。日本海の荒波に侵食されてできたものです。山陰海岸ジオパークのスポットとして親しまれています。

 

大鬼が住み着いた「淀の大王伝説」

山陰海岸ジオパークの名所が点在する豊岡市竹野町。海岸線にある「はさかり岩」の展望所から東を眺めると、崖にぽっかりとあいた大きな洞門「淀の洞門」を見ることができます。幅約25メートル、高さ15メートル、奥行き40メートル。火山活動でできた地層や、洞門の天井に断層を観察することができ、山陰海岸ジオパークの貴重なスポットとしても知られている大きな洞門です。

ここには「淀の大王」と呼ばれる鬼が住んでいたという伝説が残っています。大昔、この洞門を住処にしていた「淀の大王」を首領とする鬼の集団が、日々悪さをし良民を苦しめていました。そんな噂を聞きつけ、出雲に帰る途中に村へ立ち寄ったスサノオノミコト。鬼たちを征伐し、村には再び平和が戻ったそうです。スサノオノミコトは洞門の向かいに船を止め、鬼を退治。陸路を奥須井地区まで向かい、村では牛頭大王として奉られました。乗り捨てられた船はそのまま岩になったといわれています。村では、切浜海水浴場西端の細長い島を「御舟」、沖合の二つの岩礁を「沖の錨」と「灘の錨」、砂浜にある島を「艫綱」、奥須井に向かう陸路を「祇園」と呼び親しんでいます。

淀の洞門に近づいてみると、スケールの大きさに圧倒されます。洞門内部には波が押し寄せては返し、穴の向こう側には水平線が見えます。薄暗い洞門内から見える海と空の青が美しく、ダイナミックな自然を体感することができます。大昔に鬼がいたのでは…と、感じてしまうほどの神秘的なパワーがそこにはあります。

 

 

2018/01/16  

あいたっつあん【あいたっつあん】

 

あいたっつあん【あいたっつあん】
あいたっつあん
あいたっつあん
葦田神社の切岩
・豊岡市中郷1141
国道312号線を南下して482号線を東へ進み、249号線と分岐するあたりで、農道へ入り奥へ進むと、山すそに見えてくる神社。天日槍が傷つけたといわれる「切岩」が残っています。

 

 

天日槍の随神「あいたっつあん」人々から崇められる足痛の神む

のどかな田園に囲まれた豊岡市中郷地区。ここに鎮座する「葦田神社」は、地元で「あいたっつあん」と呼ばれ、足痛を治す神様として崇められています。昔、湖の底であった但馬を天日槍が津居山を切り開き、だんだんと美しい田んぼに代わっていた頃の話。天日槍は、その美しい光景が見渡せる所に屋敷をかまえようと、家来に適当な場所を探させていました。

家来はあちこち探しまわり中郷に見晴らしのいい土地を見つけたものの、あまりの美しさに自分が気に入ってしまい天日槍に隠していました。それを知った天日槍が怒り、剣を抜いて家来に切りかかって、家来の足を傷つけました。負傷した家来はその場から逃げ去り、山の中で傷を治しました。しばらくして天日槍は怒り過ぎたことを反省して、見つけた土地を家来に与えました。家来はとても喜び、それ以来、足を痛めて苦しんでいる人々の傷を癒やすことを誓ったといいます。

その家来は、切りつけられた時に「あいた!」といったことから、地元では「あいたっつあん」と呼ばれるようになり、人々から崇められるようになりました。その名にちなんで神社周辺の小字名は「アイタチ」と呼ばれています。拝殿には、靴や松葉づえ、ギプスなど、足のけがが治った人たちが神様へのお礼に供えたものがいくつか残っています。また、鳥居を抜けて静かな境内に入ると左手には、天日槍があいたっつぁんの足を切りつけた際、一緒に切ったとされる刀傷のついた「切岩」が今も残っています。

 

 

2015/01/13  

おりゅう灯籠【おりゅうとうろう】

 

おりゅう灯籠【おりゅうとうろう】
おりゅう灯籠
地がため地蔵
おりゅう灯籠(豊岡市)
・豊岡市出石町柳
谷山川(旧出石川)の大橋東詰にあった船着場の灯籠で、現在は但馬信用金庫出石支店の前に佇んでいます。灯籠のすぐそばには柳の木があり、おりゅうと恋人が寄り添う様子に見立てています。

 

城下町出石に伝わる悲恋の物語
今も出石川の橋のたもとに灯籠が佇む

今から七百年ほど前、出石川は町のまん中を流れ、大きな船が往来して、毎日賑わっていました。そのころ、出石のある豪族の屋敷には若い侍が暮らしていました。彼は書を学び、武術を練習し、たくましい青年に育っていきました。
この屋敷には、おりゅうという心も顔かたちも美しい娘が奉公していました。お互いに惹かれ合う二人は、恋に落ちました。しかし、身分の違いはその恋を実らすことを阻みました。
おりゅうは里に帰されました。そんな時、日本に蒙古軍が攻め込んできました。武術に優れた若い侍は九州の防衛のために、あわただしく旅立っていきました。愛する彼の出征を聞いたおりゅうは船着き場に走りました。しかし、彼をのせた船は見る見る遠ざかってしまいました。
それから数ヶ月後、彼の戦死の報が屋敷にもたらされました。おりゅうの体が出石川に浮いたのは、その数日後でした。
以後、大雨のたびに出石川は氾濫します。人々は、これはおりゅうの悲しみの現れだと語り合いました。そして、これを鎮めるために、船着き場にほこらを建てて供養し、そのそばには灯籠も建てました。その灯は、上り下りする船の船頭たちの道しるべになり、「おりゅう灯籠」とよばれるようになりました。今も、出石川の橋のたもとに、おりゅう灯籠が建っています。

 

 

2014/12/10  

アメノヒボコ伝説【あめのひぼこでんせつ】

 

アメノヒボコ伝説【あめのひぼこでんせつ】

地がため地蔵
出石神社
出石神社(豊岡市)
・豊岡市出石町宮内
但馬開発の祖・アメノヒボコを祀る神社。但馬国一宮であり、「いっきゅうさん」の愛称で親しまれています。

 

但馬一宮・出石神社に祀られるアメノヒボコ
但馬を開拓したと伝わる土木の神様

昔、新羅の国の王子、アメノヒボコをのせた船が但馬の国、気比の村に流れ着きました。アメノヒボコは来日山へ登り、山すそに広がる沼地の奥に緑美しい村をみつけます。そこは出石という村でした。
出石の大村長ふとみみはアメノヒボコ一行を温かく迎え入れ、田や畑を分け与え、一緒に楽しく暮らし始めました。
ある日、雨の季節がやってきて、あたり一面泥の海となり、人も家も流されてしまいました。雨があがっても、なかなか水が引かず、村人たちは大変苦労していました。
その様子をみたアメノヒボコは、どうにかならないものかと考えます。「瀬戸の大岩を切り開いて、沼地の水を海へ流せばよいのだ」とひらめきました。
アメノヒボコはふとみみに相談し、村人たちの協力のもと、みんなが力を合わせ、谷をつくり、水をせき止め、木を切り、根を掘り起こし、土を運び、出てきた岩を割っていきました。そして、最後の大岩にとりかかりましたが、なかなか割れず嵐がやってきました。やっと岩が割れましたが、嵐のため沼は泡立ち、水がふくれ上がっています。「せきを切るぞ!」アメノヒボコの声に合わせて、せきが切られると、音を立てて沼の泥水が海へと流れ出しました。すると、大地が顔を出し人々は手をとりあって喜んだそうです。
アメノヒボコは国つくりの神様・土木の神様として出石神社に祀られています。