2023/01/13  

グンゼ八鹿工場事務所棟【ぐんぜようかこうじょうじむしょとう】

 

グンゼ八鹿工場事務所棟
【ぐんぜようかこうじょうじむしょとう】


グンゼ八鹿工場事務所棟
・養父市八鹿町八鹿
・兵庫県景観条例景観形成重要建造物等

●昭和初期のモダンデザイン
1928年(昭和3)建設された、旧グンゼ八鹿工場の事務所棟。薄橙色の外壁でモダンなデザインが特徴的です。事務所の入口が建物の角部分に面し、さらに中央部に柱を設けた左右対称の出入り口が2カ所あります。さらに事務所内に入ると、円形の垂れ壁(天井から垂れ下がった形状の壁)と、中央にそびえるギリシア神殿のエンタシス柱をモチーフにした柱を見ることができます。

外部に面した窓は上げ下げ窓で、昭和初期の流行を取り入れたモダンな様式です。スレート瓦だった屋根は、改築工事により日本瓦に葺きかえられています。

2015/01/13  

但馬の古代遺跡【たじまのこだいいせき】

 

但馬の古代遺跡【たじまのこだいいせき】
4世紀はじめから6世紀末頃までを考古学上、古墳時代といいます。大型の特色ある墳墓形式の時代で、大和政権による国内統一も進み、また朝鮮や中国大陸からの文化の流入も一層活発となってきます。但馬地方でも国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)など豪族たちの大型の墳墓がつくられました。

城ノ山古墳
・朝来市和田山町東谷

・出土品は国指定重要文化財
・4世紀後半


・唐草文帯重圏文鏡


●城ノ山古墳(しろのやまこふん)

三角縁神獣文帯三神三獣鏡が出土した大型円墳

北東に派生する狭い尾根の突端にある、南北径30m、東西径36m、高さ5mの円墳。墳丘は地山を加工・修飾して円形に整え、墳頂部に薄く盛土を行っています。さらに部分的に河原石と角ばった岩石をまじえた葺き石状の遺構が墳丘裾部に見られます。
昭和46年、和田山バイパスの建設工事に伴い全面発掘調査が行われました。埋葬部分(主体部)は8.9m×2.9mで地山を彫り込んで作られていました。中には6.43m×0.6mの木棺が安置され、遺骸は頭部を東に向けて埋葬されていました。人骨(頭骨)が残存しており、その頭部東側から銅鏡3面、石釧(いしくしろ)4個、石製合子(ごうす)1個(身のみ)、琴柱形(ことじがた)石製品1個が出土、頸部付近に点々と勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)が80個以上検出され、やや離れて棺東部に刀剣・工具類が13点余り出土しました。
また、棺西部の遺骸足部から銅鏡3面が出土しました。国の重要文化財の一つ、三角縁獣文帯三神三獣鏡は畿内の大和政権が配付したものといわれています。
これら築造形態および主体部・木棺規模・出土品などからみて4世紀末の古墳と推定され、この地方における首長層の墳墓であると考えられています。 城の山古墳では墳丘下にトンネルをつくって道路を通して保存対策がとられています。


船宮古墳
・朝来市桑市

・県指定史跡

・5世紀代

●船宮古墳(ふなのみやこふん)

5世紀代の同一水面の周濠をそなえた前方後円墳
日本最古の牛形埴輪が出土
古墳時代中期のもので全長約80m、但馬第2の大型前方後円墳で、ほぼ平坦な地形につくられ、 同一水面の周濠をそなえた前方後円墳としては、但馬唯一のものとされています。周濠は後円部側と西側にその痕跡をとどめ、東側は国道敷設による損壊をうけ、墳丘斜前方部の山頂に八幡社が造営され、また墳丘裾部も道路などにより円形状を呈しています。墳丘斜面部には、葺石として利用されたと考えられる河原石が散見しています。埴輪については円筒埴輪、壺形埴輪片や、日本最古の牛形埴輪が採集されています。後円部と前方部の比高差がなく、後円部と前方部を逆にみたり、双円墳とする説もあります。

どのような人が葬られていたかは不明ですが、氏神参道に船宮之碑には、但馬国営の「船穂足尼」の墳墓であると記されていますが、明らかなことはわかっていません。



八幡山古墳群
・香美町村岡区福岡

・県指定史跡

・5~6世紀

●八幡山古墳群(やはたやまこふんぐん)
5~6世紀、三角持送り式天井の竪穴系横口式石室

八幡山の丘陵屋根の南東に寄ったところにかたまり、かつては他に数基の古墳があったようです。この丘陵上には現在4基の古墳があり、3・5・6号墳が開口しています。構造から竪穴系横口式石室の名でよばれる石室で、特に5号墳は「三角持送り式天井」という特殊な構築方法として注目されています。石室の隅を三角にもちおくって天井部を架構していく方法は、日本全国をみても例が多くなく、源流は朝鮮半島に認められているといわれています。

また、6号墳からは多くの土師器や須恵器が出土されており、本古墳群の時期の一端をうかがわせます。5世紀末ころから6世紀前半にかけての遺物を含み、一度限りの埋葬だったとは考えにくい遺物の状況にあります。



文堂古墳
・香美町村岡区寺河内

・県指定史跡

・7世紀前半

●文堂古墳(ぶんどうこふん)
6~7世紀に継続的に形成された首長墓のひとつ

標高270mの丘陵斜面にあり、高井集落を見下ろす位置にある古墳時代後期の古墳。全長約10.2mの両袖式横穴式石室となっており、玄室の長さ4.7m、幅2m、高さ1.8mの埋葬施設を有する古墳ですが、墳丘に墓地や畑地が作られているため墳丘は不明となっています。
1948年・1970年の調査で出土した副葬品から7世紀前半に築造されたものと言われています。出土した副葬品は、金銅装頭椎大刀、馬具、刀子、鉄釘、鉄鏃、珠文鏡、勾玉、金環、ガラス玉、須恵器、土師器など多岐にわたっています。
6~7世紀の矢田川上流域では、文堂古墳以外にも高井古墳、長者ヶ平1号古墳、長者ヶ平2号古墳が作られており、継続的な首長墓が形成されてました。


三の谷壁画古墳
・香美町村岡区高井

・県指定史跡

●三の谷壁画古墳(さんのたにへきがこふん)
同じ向きに配され、描かれた2羽の鳥の壁画

三の谷壁画古墳の1号墳は、直径約10mの小円墳で山腹斜面に築造されています。羨道部には数十条の細線を刻んで、林の中に鳥が2羽静止した壁画が丁寧に磨き上げられた160cm×60cmの石に描かれています。この2羽の鳥はともにくちばしを向かって左に描かれているので、右利きの作者が描いたのではないかと推測されています。


大藪古墳群
・養父市大藪

・県指定史跡

・6世紀後半~7世紀代

●関連情報
養父市役所

●大藪古墳群(おおやぶこふんぐん)
但馬最大級の後期古墳群
但馬最大級の後期古墳群で、東西約2km、南北約1kmの範囲で、山麓の斜面に、西の岡、禁裡塚(きんりづか)、野塚3号、塚山、コウモリ塚古墳といった大型の横穴式石室を持つ古墳が先端部に位置をしめています。さらに、これらの大古墳をまもるように背後に多数の小規模な古墳が存在しています。
代表的な禁裡塚古墳の墳丘は、32mあまりのやや長円形で石室は全長12.5m、玄室5.9mの大規模なもので、残存状況はきわめて良好で、玄室には奥壁に近い側壁と奥壁の中段付近にやや赤みをおびた部分があり、赤色顔料を塗布したものではと推測されています。また、その地域の首長墓とされる古墳に副葬される装飾付須恵器の破片が出土しています。

禁裡塚古墳から真西に700mのところへある西の岡古墳はきわめて整った美しさをそなえた横穴式石室で、その全長は13.6mと大きなものです。
6世紀後半から7世紀代にかけての大型古墳で、100年あまりに4基つくられていることから、一世代に1基ずつ造営され続けたと考えられています。この地に但馬最大級の政治権力者の存在が考えられ、畿内政権の動向と似た動きがあり、おびただしい古墳群は、有力な四単位の集団が中心となって形成されたこと、この集団から盟主を選び、その連合体が後の但馬全域に及ぶ支配体制を形づくったのではと想定されます。



箕谷群集墳
・養父市八鹿町小山

・国指定史跡

・7世紀前半(630年ごろ)

・戊辰年銘大刀

国指定考古

●関連情報
養父市役所

●箕谷群集墳(みいだにぐんしゅうふん)
銘文入りの大刀や100点以上の遺物が出土
7世紀前半(630年ごろ) 築造、2号墳から3号墳まで4基の古墳が築かれている箕谷群集墳(7000平方メートル)は国の史跡に指定されています。また昭和58年の発掘調査によって発見された銘文入りの戊辰年銘大刀をはじめ箕谷2号墳から出土した100点以上の遺物は国の重要文化財に、3・4号墳から出土した遺物と1号墳は養父市八鹿町の文化財に、それぞれ指定されています。
箕谷古墳群から出土した土器から年代を推定すると、西暦630年代から650年代(TK217型式後半)に作られた古墳群で、推古天皇や聖徳太子の時代に活躍した人を埋葬したお墓です。この当時、但馬を支配した国造の古墳と考えられるのは、約4km東南にある養父市の大薮古墳群で、箕谷古墳群の埋葬者も彼ら但馬支配に貢献した一族と考えられています。

現在、築墳当時の姿が復元され、公園として整備されています。中でも、2号墳は天井石を一枚取って強化ガラス製の天窓を設け、そこからの光で石室の内部がよく見えるようになっています。天窓を使った古墳の整備は、全国でも初めての試みで、石室内の壁は、もともと使われていた古い石材の上に新しい石材を積んで復元されています。古い石材はもろくなっているため、撥水(はっすい)強化処理が施されています。石室の床には礫を敷き、その中央に人を型取った板を設置。人型の周りには、2号墳から出土した戊辰年銘大刀や鉄刀、矢、土器など約35点の復元品が置かれ、埋葬当時の様子が再現されています。



二見谷古墳群
・豊岡市城崎町上山

・県指定史跡

●二見谷古墳群(ふたみだにこふんぐん)
組合せ式の家形石棺をおさめる横穴式石室
組合せ式の家形石棺をおさめる横穴式石室(4号墳)で、北但馬を代表する古墳の一つです。集落をはさんだ北側にも大型の横穴式石棺(1号墳)があり、刳抜(くりぬき)式の石棺がおさめられています。
有力な古墳ですが、当時その周辺に生産力の大きな田畑がひらかれていたとは考えにくく、円山川の舟運や漁業にかかわりのある一族の墓と考えられています。

現在、古墳保護のため保存会を結成し、一帯を史跡公園として整備しています。



茶すり山古墳
・朝来市和田山町筒江
・国指定史跡
●茶すり山古墳(ちゃすりやまこふん)
直径約90mで近畿地方最大級の円墳
墳頂には東西約35m、南北約30mの楕円形の平坦面があり、その内側には円筒埴輪や朝顔形埴輪が巡り、北側 段築平坦面にも埴輪が列状に並べられていました。
特徴は棺の中に大量の鉄製品を副葬するという点で、それらの中には、襟付短甲や鉄柄付手斧・蛇行剣といった畿内限定や畿内周辺に出土が集中する、全国的にも珍しい遺物もありました。中央政権(ヤマト政権)と強く結びついた首長の墓であることが確認されています。


池田古墳
・朝来市和田山町平野
・県指定史跡

●池田古墳(いけだこふん)
但馬で最大の大型前方後円墳
大型の円墳である城ノ山古墳の北西わずか100mの眼下に築造された、但馬では最大の大型前方後円墳です。5世紀前半のもので、墳丘全長約141m、前方部幅約約71m、後円部径約76m、周濠を含めると全長は約170mに及びます。兵庫県下最大、全長194mの五色塚古墳(神戸市)などに次ぐ県下4番目の規模を誇り、かなりの強大な権力を持った首長の墳墓といえます。
埴輪列や葺石が確認されており、周濠からは多量の木製品が出土しています。水鳥型埴輪23体を出土していて、1つの古墳からの出土数としては全国最多です。埴輪、葺石、楯型周溝をすべて備えた前方後円墳は、北近畿では池田古墳と船宮古墳(ともに朝来市)だけと大変貴重な古墳です。

2013/05/29  

青谿書院【せいけいしょいん】

 

青谿書院【せいけいしょいん】

青谿書院

・養父市八鹿町宿南
・県指定文化財

●池田草庵が開いた漢学塾
幕末から明治の初めにかけて但馬聖人・池田草庵が開いた漢学塾で、明治の近代化を支えた多くの門弟が勉学に励みました。草庵はここで門人たちと寝起きをともにし、自ら模範をみせることで、知識と実行を兼ね備えた人間の育成に心を砕いたといいます。
建物は質実剛健という言葉にふさわしく、周囲にはのどかな田園風景が広がります。
便所の扉の内側には、門人たちが寝る間を惜しんで、夜の10時の消灯後にもロウソクを灯して勉強したススの跡が無数に残っています。
また、「青谿書院資料館」には、草庵の遺品、著書をはじめ、関係資料を数百点展示しています。教えを慕って入門した門人の数は、明治11年に亡くなるまで、全国30ヵ所から673人にのぼり、日本の近代化を担った多くの人材を教育しました。
出身者には、日本金融界の基礎を築いた原六郎や日本近代眼科の父・河本金次郎、東大総長を2度つとめた浜尾新、琵琶湖疏水を開いた北垣国道などがいます。

2013/05/28  

甘棠亭【かんとうてい】

 

甘棠亭【かんとうてい】

甘棠亭
・養父市八鹿町伊佐
・県指定重要文化財

伊佐の黒松(九思の松)
・県指定重要文化財

●出石藩主を迎えた休憩所
江戸時代の最新技術が使われた伊佐の新田開発は、出石藩に願い出て行われた町人による水田開発です。延宝4年(1676)3月3日、時の出石藩主・小出英安公が自ら視察に赴くことになりました。この時、藩主を迎える休憩所として建てられたのが甘棠亭です。旧小出医院と小出家本宅の間にあります。一重入母屋造で茅葺、内部には上段の間と下段に分けられ、藩主を迎える格式を持ちます。
地誌「但馬考」を編集した出石藩の儒官・桜井舟山は当家に生まれ、その師である伊藤蘭嵎が「甘棠亭」と名付けました。
文化15年(1818)にも藩主・仙石政美公を始めとする147人を迎え、さらに文政7年(1827)にも政美公は甘棠亭に訪れました。藩主御座所の姿を今に伝える貴重な遺構として、兵庫県の重要文化財に指定されています。
甘棠亭が建てられた際、庭の一角に「九思の松」という黒松が植えられ、長らくシンボルとして県の文化財にも指定されていましたが、昭和52年に滅失。現在は石碑が建立されています。

2013/01/31  

米里薬師堂【めいりやくしどう】

 

米里薬師堂【めいりやくしどう】

米里薬師堂

・養父市八鹿町米里
・県登録有形文化財

●彫刻付きの蟇股で飾られた薬師堂
17世紀後半の建築とされており、市内最古の薬師堂で、薬師如来坐像等を祀っています。明治初期の廃仏棄釈で、地域住民が現在地に移築し、保護してきました。薬師堂は一辺が5.9mの正方形で木造平屋建ての瓦葺。土間に床板を張り、畳敷にする改修が行われていますが、壁面の一部には当初の窓や腰板が残っています。禅宗様建築で、建物の柱は先端を丸く削った粽(ちまき)という方法が採用されています。
薬師堂外面にある蟇股(かえるまた)の彫刻には天女、竹に虎、蓮、梅に鶯、象、松、菊水の彫刻があり、江戸時代前期の彫刻として貴重なものとされています。
平成23年8月16日に兵庫県登録有形文化財に登録されました。

2013/01/14  

二ノ宮神社【にのみやじんじゃ】

 

二ノ宮神社【にのみやじんじゃ】

二ノ宮神社

・養父市大屋町大杉
・本殿
県登録有形文化財

●ざんざこ踊り、豪華な彫刻が施された神社
毎年8月16日に奉納される「ざんざこ踊り」で有名な二ノ宮神社。本殿は文政11年(1828)に建てられました。屋根の正面に千鳥破風(ちどりはふ)と唐破風(からはふ)を付けており、屋根は入母屋造りとなっています。向拝にはガラスの玉眼が入った龍や白波の上を跳ねる兎、獅子の顔を彫った獅噛神など、豪華な彫刻が施されています。また縁側には、擬宝珠高欄(ぎほうじゅこうらん)といって青銅製の宝珠をのせた欄干が作られています。
脇障子の後ろ側には「丹州柏原町住人、彫物師、中井権次橘正貞」のほか「中井清次郎正用、久須真助正笑」と朱書きで彫られています。中井氏は江戸時代後期に北近畿で多くの社寺に彫刻を残した彫刻家で、二ノ宮神社は第六代と第九代の二人の中井権次が彫刻を残した貴重なものとされています。

2013/01/14  

斎神社【いつきじんじゃ】

 

斎神社【いつきじんじゃ】

楯縫神社本殿

斎神社

・養父市長野
・摂社楯縫神社本殿
県登録有形文化財

●お走り祭りの伝説で知られる神社
斎神社は長野区の101戸がお護りする神社で、養父神社の神輿が斎神社までの往復40キロを練り歩く「お走り祭り」で有名です。本殿は屋根が前方に長く伸びる一間社流造でしたが、平成21年8月の台風9号による豪雨災害で倒壊しました。このため本殿は解体修理されています。昭和10年に村社から郷社に昇格したことを記念して、昭和12年に彫刻の立派な本殿に新築されたものです。
拝殿には、市指定文化財「斎神社のお走り絵馬」がありました。明治32年に地元の絵師村上墨渓が、斎神社に到着した江戸時代のお走り祭りの祭礼行列を描いた奉納絵馬です。
摂社の楯縫神社は元々、斎神社の本殿であったものです。宝暦10年(1760)建立で、奇跡的に台風9号の土砂災害からまぬがれました。一間社流造で、地元長野村の大工など4名で建築しています。兵庫県の有形文化財に登録されています。

2012/12/26  

関神社【せきじんじゃ】

 

関神社【せきじんじゃ】
八柱神社

八柱神社

八柱神社

関神社

・養父市関宮
・本殿、拝殿
県登録有形文化財

●柏原藩お抱え彫刻師「中井正貞」の彫刻が残る
本殿は弘化4年(1847)、拝殿は天保14年(1843)に建立されました。江戸時代頃は祇園牛頭天王(ごずてんのう)関宮社と呼ばれており、疫病や災厄を鎮める「祇園信仰」と、米の豊作を祈る「農業信仰」の二つの性格がありました。関神社の神様が疫病を防いだという伝説は祇園信仰によるもので、現在でも関神社の夏祭りは「祇園祭」と呼ばれています。
また、丹波や但馬で活躍した中井正貞の彫刻が良好な状態で残っており、本殿の裏側には「彫物師 丹州柏原町住人 中井権次橘正貞」の署名を見ることができます。
平成23年8月16日に兵庫県登録有形文化財に登録されました。

2011/11/20  

山路寺【さんろじ】

 

山路寺【さんろじ】

山路寺
・養父市大屋町山路

・障壁画(絵画)

県指定文化財

●片山楊谷の唯一の大作として知られる「障壁画」
山路寺「障壁画」の作者、片山楊谷は円山応挙にも師事した鳥取藩のお抱え絵師で、人物、花鳥、走獣の描画に卓越した作品を残しています。享和元年(1801)に世を去った楊谷が、その1年前に描いたとされる山路寺の障壁画は、現在知られる唯一の大作として県の文化財に指定されています。
「老松図」「猛虎図」「牡丹孔雀図」など、力強く緻密な描写から、但馬を代表する障壁画といえます。
山路寺は、永承2年(1047)に開創された寺院で、本尊は十一面観世音菩薩を祀っています。寛延3年(1750)の火災により、宝暦3年(1753)に現在の場所に再建されました。かつて9ヶ寺を末寺としていましたが、現在はそのほとんどが廃寺となっています。

2011/11/20  

蓮華寺【れんげじ】

 

蓮華寺【れんげじ】

蓮華寺
・養父市大屋町夏梅

・木造聖観世音菩薩立像
(彫刻)

県指定文化財

●別名「夏梅の庭寺」とも呼ばれる古刹
蓮華寺の「聖観世音菩薩立像」は、平安時代後期の作と推定されています。桧の一木造りで、内抉りはなく、両眼は彫出しています。境内の三重塔を改修したとされる、楼閣2階建ての赤堂の六角宮殿に安置されています。
蓮華寺は弘仁年間(810~824年)、弘法大師によって、帰命山安養寺として開創したと伝わります。江戸期に現在の蓮華寺と改名し、本尊の弥勒菩薩は江戸中期に奈良から勧請したものです。
蓮華寺には亀島を持つ阿字池と渓谷風の滝を持つ心字池の2庭園があり、市の文化財に指定されています。また、有数の紅梅の古木もあり、別名「夏梅の庭寺」とも呼ばれています。