2015/02/02  

ほたるの里【ほたるのさと】

 

ほたるの里【ほたるのさと】

ほたるの館
希望王国バンガロー
●幽玄の世界に誘うゲンジボタルの乱舞
兵庫県のゲンジボタル保護区に指定され、6月中旬~7月上旬にゲンジボタルが乱舞し、幽玄の世界に誘います。旧町役場を移築したモダンな建物「ほたるの館」は、クラフト体験や宿泊ができ、但馬牛や山菜料理など地元料理でもてなしてくれます。また、四季を通じてほたるに親しんでもらおうと、自然体験施設「めいじキララ」では、標本やグラフィックスでほたるを紹介するコーナーや光ダイオードでほたるの光を再現するコーナーなど、ほたるに関するさまざまな学習や体験ができます。
近くには、カエルとトンボの池と広場、昆虫の森などの「いきものふれあい公園」や「希望王国バンガロー」も整備されています。
ほたるが乱舞するシーズンには、「ほたるまつり」が開催され、各種イベントも行われます。ほたるの館
・079-665-0588
・兵庫県養父市奥米地773

2015/01/31  

但馬の農業【たじまののうぎょう】

 

但馬の農業【たじまののうぎょう】
棚田

棚田
稲刈り
稲刈り

●良質米の安定生産を目ざす稲作

稲は古代から作られ、中・近世には新田開発が進み、明治以降の品稲改良など稲作技術の進歩によって、わが国全土に米作りがひろがりました。
但馬においては、沖積平地や段丘地、山腹に棚田がひろがり、700~800mの高地にいたるまで、わずかな水があれば、水田が開かれています。しかし、但馬は山岳急峻な地形にあり、水田面積は総面積のわずか6%弱で、兵庫県の12%の2分の1しかありません。近年では水田の効率利用を進めるほ場整備や農道の整備が行われ、機械化農法に変容をとげてきました。台風などの自然災害の被害を少なくする稲作の工夫、病虫害防除対策など技術の進歩により、収穫量が増加、安定してきました。
但馬の穀倉と称される六方田んぼを有する豊岡市をはじめ、円山川沿いに平坦地の多い、豊岡市、朝来市、広長な谷筋や無数の棚田を有する多事全域は多収穫地域に挙げられます。

しかし、反面、人々の食生活の変化に伴う米離れ現象により、米の需要は落ち込んできました。昭和46年の稲作転換対策にはじまり、水田利用総合対策、水田利用再編対策などにより、山間の棚田は相次いで植林され、大豆やさといもなど転作物が、米にとって代わる傾向にあります。さらに、アメリカやタイ、中国などでは、安い価格で米が生産されているため、日本で稲作自立経営では規模拡大によるコストダウンが必要となってきています。おいしくて、安全性の高い米作りが重要とされています。

 

大根畑
養父市杉ケ沢高原の

轟大根畑

●立地を活かした特色ある野菜づくり

但馬の畑地はすこぶる広く、農家の周辺に自給生産を目的とした総合野菜園のイメージがありますが、近年では、高原山野を、国・県の助成を得て造成した野菜団地が脚光を浴びています。また、但馬には開発有望地が多くあり、今後が注目されています。
野菜生産の概要は、豊岡市日高町の広大な神鍋高原、養父市関宮・大屋の南但馬高原などの高冷地野菜、豊岡市、朝来市の平地における多品目野菜が目立っています。中でも神鍋高原のスイカやキャベツ、養父市杉ケ沢高原やおおや高原の大根は表日本市場には欠かせない作物として取引されています。

 

なし園
香美町香住区のナシ園
●ブランド生産をすすめる果樹栽培
但馬を代表する果樹栽培は「ナシ」です。生産の多くを香美町香住区、続いて新温泉町など各地で産地ブランド化をはかりながら、但馬各地でひろく栽培されています。香住のナシ作りはナシの先進地鳥取に似ている適地であることから昭和4年に、兵庫県農事試験場がナシ栽培地委託試験地として、香美町香住区下浜村に58本を植えたことからはじまりました。兵庫県にとってもこの地が「兵庫二十世紀ナシ発祥の地」であるといわれています。その後、急斜面の山を開墾し、次々に苗木を植え育て、糖度が高く肉質の良い甘み豊かで、見て美しいナシづくりをめざし、今日のブランド香住ナシをつくりあげました。

その他の果樹では、ブドウが豊岡市を中心に香住、日高、養父、和田山などで栽培されている他、山野に富んだ但馬の地域性を活かして、柿、栗、梅が各地で生産されています。また、生産だけにとどまらず、体験活動やレジャー、レクリェーションとしての観光果樹園も行っています。

2015/01/31  

男坂神社のシラカシ林【おさかじんじゃのしらかしりん】

 

男坂神社のシラカシ林【おさかじんじゃのしらかしりん】
男坂神社のシラカシ林

・県指定天然記念物

・養父市大屋町宮垣

●急な石段の先に広がるシラカシ林
養父市大屋町宮垣の大屋川左岸、小高い天満山という丘陵に男坂神社が祀られています。男坂神社の歴史は古く、社伝によれば、北側の琴引山の緑によって少彦名命の神霊を留めて社頭を創立したといわれています。
神社を取り囲むようにして天満山全体を被う、シラカシを中心とした林が県指定の天然記念物。神社の長い参道を通って、100段以上の石段を登ると、緑豊かな社叢が広がります。
神社入り口の竹林を除くと、全山ブナ科コナラ属のシラカシの林といってもよく、ほとんど人の手が加えられていないので、自然性が高いのが特徴。

また、ここは蛇紋岩を基盤とする場所にあり、植生を代表する自然林としても非常に価値が高いものとされています。村の人々からは鎮守の森として親しまれ、静かなたたずまいが心地よい癒しの森です。

2015/01/31  

ハチ・ハチ北高原【はち・はちきたこうげん】

 

ハチ・ハチ北高原【はち・はちきたこうげん】

ハチ高原
ハチ北高原

●関連情報
やぶ市観光協会氷ノ山鉢伏支部
香美町村岡観光協会

●鉢伏山に広がるアウトドアスポーツのメッカ
美しい草原の山として知られる標高1221mの鉢伏山、その北側に広がる「ハチ北高原」、南側に広がる「ハチ高原」は、ともにスキー、パラグライダー、キャンプ、登山・ハイキングなどが楽しめる、アウトドアスポーツのパラダイス。

ハチ高原【養父市関宮】

南に関西随一の高峰・氷ノ山を望み、鉢伏山の南側中腹に広がるハチ高原。標高850~1,200mに位置する「ハチ高原スキー場」は、良好な雪質と広大スケールで人気のゲレンデ。春~秋はキャンプやパラグライダー、川遊び、テニスなどが雄大な自然の中で思いきり満喫できます。春の山菜狩り、秋の紅葉狩りをはじめ、さわやかな高原は氷ノ山、鉢伏山への登山や高原ハイキングにも最適です。毎年開催される新緑登山大会、紅葉登山大会は多数の参加者でにぎわいます。
また、「ミツガシワ群生地」や「ヤマドリゼンマイ群落」(ともに県指定天然記念物)など、高地の湿原に群生する珍しい植物が自生しています。
・氷ノ山鉢伏観光協会 079-667-3113

ハチ北高原【香美町村岡区】

鉢伏山の北側に広がる「ハチ北高原」。山頂から続く3kmにもおよぶ超ロングコースで知られる「ハチ北高原スキー場」は、関西屈指のバラエティー豊かなゲレンデ。
春~秋へ彩りを変える高原では、恵まれた自然の中、バードウォッチング、森林浴、パラグライダー、テニス、キャンプ、オートキャンプ、ハイキングなどアウトドアスポーツが満喫できます。スポーツや音楽などの合宿にもよく利用され、林間学校施設も整備、田植えやイモ掘りなどの農業体験も楽しめます。高原にはさまざまな高山植物が咲き乱れ、天然記念物の「ザゼンソウ群生地」など貴重な植物が自生しています。
・香美町村岡観光協会 0796-94-0123

2015/01/31  

八鹿豚【ようかぶた】

 

八鹿豚【ようかぶた】
八鹿豚のとんかつ
八鹿豚のとんかつ
●上品な脂の甘みが特徴のブランド豚
養父市八鹿町三谷の自然豊かな山あいの場所で飼育されている八鹿豚は、肉質は柔らかく、脂身は上品な甘さが特徴のブランド豚です。冷涼な気候と静かな豚舎で飼育され、さらに1カ所あたりの飼育頭数を減らすことでストレスを軽減し、のびのびと育てられています。
また、豚舎内も清潔に保たれ、夏場には換気やシャワーミストで豚の体温上昇を管理するなどして、品質の高い八鹿豚を飼育しています。
道の駅ようか但馬蔵では八鹿豚料理を提供しており、
八鹿豚のとんかつ定食や八鹿豚まんが名物料理となっています。

・道の駅ようか但馬蔵 079-662-3200

2015/01/13  

但馬の古代遺跡【たじまのこだいいせき】

 

但馬の古代遺跡【たじまのこだいいせき】
4世紀はじめから6世紀末頃までを考古学上、古墳時代といいます。大型の特色ある墳墓形式の時代で、大和政権による国内統一も進み、また朝鮮や中国大陸からの文化の流入も一層活発となってきます。但馬地方でも国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)など豪族たちの大型の墳墓がつくられました。

城ノ山古墳
・朝来市和田山町東谷

・出土品は国指定重要文化財
・4世紀後半


・唐草文帯重圏文鏡


●城ノ山古墳(しろのやまこふん)

三角縁神獣文帯三神三獣鏡が出土した大型円墳

北東に派生する狭い尾根の突端にある、南北径30m、東西径36m、高さ5mの円墳。墳丘は地山を加工・修飾して円形に整え、墳頂部に薄く盛土を行っています。さらに部分的に河原石と角ばった岩石をまじえた葺き石状の遺構が墳丘裾部に見られます。
昭和46年、和田山バイパスの建設工事に伴い全面発掘調査が行われました。埋葬部分(主体部)は8.9m×2.9mで地山を彫り込んで作られていました。中には6.43m×0.6mの木棺が安置され、遺骸は頭部を東に向けて埋葬されていました。人骨(頭骨)が残存しており、その頭部東側から銅鏡3面、石釧(いしくしろ)4個、石製合子(ごうす)1個(身のみ)、琴柱形(ことじがた)石製品1個が出土、頸部付近に点々と勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)が80個以上検出され、やや離れて棺東部に刀剣・工具類が13点余り出土しました。
また、棺西部の遺骸足部から銅鏡3面が出土しました。国の重要文化財の一つ、三角縁獣文帯三神三獣鏡は畿内の大和政権が配付したものといわれています。
これら築造形態および主体部・木棺規模・出土品などからみて4世紀末の古墳と推定され、この地方における首長層の墳墓であると考えられています。 城の山古墳では墳丘下にトンネルをつくって道路を通して保存対策がとられています。


船宮古墳
・朝来市桑市

・県指定史跡

・5世紀代

●船宮古墳(ふなのみやこふん)

5世紀代の同一水面の周濠をそなえた前方後円墳
日本最古の牛形埴輪が出土
古墳時代中期のもので全長約80m、但馬第2の大型前方後円墳で、ほぼ平坦な地形につくられ、 同一水面の周濠をそなえた前方後円墳としては、但馬唯一のものとされています。周濠は後円部側と西側にその痕跡をとどめ、東側は国道敷設による損壊をうけ、墳丘斜前方部の山頂に八幡社が造営され、また墳丘裾部も道路などにより円形状を呈しています。墳丘斜面部には、葺石として利用されたと考えられる河原石が散見しています。埴輪については円筒埴輪、壺形埴輪片や、日本最古の牛形埴輪が採集されています。後円部と前方部の比高差がなく、後円部と前方部を逆にみたり、双円墳とする説もあります。

どのような人が葬られていたかは不明ですが、氏神参道に船宮之碑には、但馬国営の「船穂足尼」の墳墓であると記されていますが、明らかなことはわかっていません。



八幡山古墳群
・香美町村岡区福岡

・県指定史跡

・5~6世紀

●八幡山古墳群(やはたやまこふんぐん)
5~6世紀、三角持送り式天井の竪穴系横口式石室

八幡山の丘陵屋根の南東に寄ったところにかたまり、かつては他に数基の古墳があったようです。この丘陵上には現在4基の古墳があり、3・5・6号墳が開口しています。構造から竪穴系横口式石室の名でよばれる石室で、特に5号墳は「三角持送り式天井」という特殊な構築方法として注目されています。石室の隅を三角にもちおくって天井部を架構していく方法は、日本全国をみても例が多くなく、源流は朝鮮半島に認められているといわれています。

また、6号墳からは多くの土師器や須恵器が出土されており、本古墳群の時期の一端をうかがわせます。5世紀末ころから6世紀前半にかけての遺物を含み、一度限りの埋葬だったとは考えにくい遺物の状況にあります。



文堂古墳
・香美町村岡区寺河内

・県指定史跡

・7世紀前半

●文堂古墳(ぶんどうこふん)
6~7世紀に継続的に形成された首長墓のひとつ

標高270mの丘陵斜面にあり、高井集落を見下ろす位置にある古墳時代後期の古墳。全長約10.2mの両袖式横穴式石室となっており、玄室の長さ4.7m、幅2m、高さ1.8mの埋葬施設を有する古墳ですが、墳丘に墓地や畑地が作られているため墳丘は不明となっています。
1948年・1970年の調査で出土した副葬品から7世紀前半に築造されたものと言われています。出土した副葬品は、金銅装頭椎大刀、馬具、刀子、鉄釘、鉄鏃、珠文鏡、勾玉、金環、ガラス玉、須恵器、土師器など多岐にわたっています。
6~7世紀の矢田川上流域では、文堂古墳以外にも高井古墳、長者ヶ平1号古墳、長者ヶ平2号古墳が作られており、継続的な首長墓が形成されてました。


三の谷壁画古墳
・香美町村岡区高井

・県指定史跡

●三の谷壁画古墳(さんのたにへきがこふん)
同じ向きに配され、描かれた2羽の鳥の壁画

三の谷壁画古墳の1号墳は、直径約10mの小円墳で山腹斜面に築造されています。羨道部には数十条の細線を刻んで、林の中に鳥が2羽静止した壁画が丁寧に磨き上げられた160cm×60cmの石に描かれています。この2羽の鳥はともにくちばしを向かって左に描かれているので、右利きの作者が描いたのではないかと推測されています。


大藪古墳群
・養父市大藪

・県指定史跡

・6世紀後半~7世紀代

●関連情報
養父市役所

●大藪古墳群(おおやぶこふんぐん)
但馬最大級の後期古墳群
但馬最大級の後期古墳群で、東西約2km、南北約1kmの範囲で、山麓の斜面に、西の岡、禁裡塚(きんりづか)、野塚3号、塚山、コウモリ塚古墳といった大型の横穴式石室を持つ古墳が先端部に位置をしめています。さらに、これらの大古墳をまもるように背後に多数の小規模な古墳が存在しています。
代表的な禁裡塚古墳の墳丘は、32mあまりのやや長円形で石室は全長12.5m、玄室5.9mの大規模なもので、残存状況はきわめて良好で、玄室には奥壁に近い側壁と奥壁の中段付近にやや赤みをおびた部分があり、赤色顔料を塗布したものではと推測されています。また、その地域の首長墓とされる古墳に副葬される装飾付須恵器の破片が出土しています。

禁裡塚古墳から真西に700mのところへある西の岡古墳はきわめて整った美しさをそなえた横穴式石室で、その全長は13.6mと大きなものです。
6世紀後半から7世紀代にかけての大型古墳で、100年あまりに4基つくられていることから、一世代に1基ずつ造営され続けたと考えられています。この地に但馬最大級の政治権力者の存在が考えられ、畿内政権の動向と似た動きがあり、おびただしい古墳群は、有力な四単位の集団が中心となって形成されたこと、この集団から盟主を選び、その連合体が後の但馬全域に及ぶ支配体制を形づくったのではと想定されます。



箕谷群集墳
・養父市八鹿町小山

・国指定史跡

・7世紀前半(630年ごろ)

・戊辰年銘大刀

国指定考古

●関連情報
養父市役所

●箕谷群集墳(みいだにぐんしゅうふん)
銘文入りの大刀や100点以上の遺物が出土
7世紀前半(630年ごろ) 築造、2号墳から3号墳まで4基の古墳が築かれている箕谷群集墳(7000平方メートル)は国の史跡に指定されています。また昭和58年の発掘調査によって発見された銘文入りの戊辰年銘大刀をはじめ箕谷2号墳から出土した100点以上の遺物は国の重要文化財に、3・4号墳から出土した遺物と1号墳は養父市八鹿町の文化財に、それぞれ指定されています。
箕谷古墳群から出土した土器から年代を推定すると、西暦630年代から650年代(TK217型式後半)に作られた古墳群で、推古天皇や聖徳太子の時代に活躍した人を埋葬したお墓です。この当時、但馬を支配した国造の古墳と考えられるのは、約4km東南にある養父市の大薮古墳群で、箕谷古墳群の埋葬者も彼ら但馬支配に貢献した一族と考えられています。

現在、築墳当時の姿が復元され、公園として整備されています。中でも、2号墳は天井石を一枚取って強化ガラス製の天窓を設け、そこからの光で石室の内部がよく見えるようになっています。天窓を使った古墳の整備は、全国でも初めての試みで、石室内の壁は、もともと使われていた古い石材の上に新しい石材を積んで復元されています。古い石材はもろくなっているため、撥水(はっすい)強化処理が施されています。石室の床には礫を敷き、その中央に人を型取った板を設置。人型の周りには、2号墳から出土した戊辰年銘大刀や鉄刀、矢、土器など約35点の復元品が置かれ、埋葬当時の様子が再現されています。



二見谷古墳群
・豊岡市城崎町上山

・県指定史跡

●二見谷古墳群(ふたみだにこふんぐん)
組合せ式の家形石棺をおさめる横穴式石室
組合せ式の家形石棺をおさめる横穴式石室(4号墳)で、北但馬を代表する古墳の一つです。集落をはさんだ北側にも大型の横穴式石棺(1号墳)があり、刳抜(くりぬき)式の石棺がおさめられています。
有力な古墳ですが、当時その周辺に生産力の大きな田畑がひらかれていたとは考えにくく、円山川の舟運や漁業にかかわりのある一族の墓と考えられています。

現在、古墳保護のため保存会を結成し、一帯を史跡公園として整備しています。



茶すり山古墳
・朝来市和田山町筒江
・国指定史跡
●茶すり山古墳(ちゃすりやまこふん)
直径約90mで近畿地方最大級の円墳
墳頂には東西約35m、南北約30mの楕円形の平坦面があり、その内側には円筒埴輪や朝顔形埴輪が巡り、北側 段築平坦面にも埴輪が列状に並べられていました。
特徴は棺の中に大量の鉄製品を副葬するという点で、それらの中には、襟付短甲や鉄柄付手斧・蛇行剣といった畿内限定や畿内周辺に出土が集中する、全国的にも珍しい遺物もありました。中央政権(ヤマト政権)と強く結びついた首長の墓であることが確認されています。


池田古墳
・朝来市和田山町平野
・県指定史跡

●池田古墳(いけだこふん)
但馬で最大の大型前方後円墳
大型の円墳である城ノ山古墳の北西わずか100mの眼下に築造された、但馬では最大の大型前方後円墳です。5世紀前半のもので、墳丘全長約141m、前方部幅約約71m、後円部径約76m、周濠を含めると全長は約170mに及びます。兵庫県下最大、全長194mの五色塚古墳(神戸市)などに次ぐ県下4番目の規模を誇り、かなりの強大な権力を持った首長の墳墓といえます。
埴輪列や葺石が確認されており、周濠からは多量の木製品が出土しています。水鳥型埴輪23体を出土していて、1つの古墳からの出土数としては全国最多です。埴輪、葺石、楯型周溝をすべて備えた前方後円墳は、北近畿では池田古墳と船宮古墳(ともに朝来市)だけと大変貴重な古墳です。

2015/01/10  

夢但馬【ゆめたじま】

 

夢但馬【ゆめたじま】

夢但馬ロゴマーク

 

●関連情報
夢但馬公式ホームページ

●地域の資源を見つめ直し、新しい但馬に生まれ変わる
「夢但馬」とは1994年に開催された「但馬・理想の都の祭典」から20年目となる2014年をきっかけに、地域の資源を見つめ直し、但馬全域で新しい地域づくりの機運をつくろうとしています。

「但馬・理想の都の祭典」では、”ハコモノ”がたくさん建設され、事業費をかけた大型イベントも行われました。それと同じことはもうできません。今の私たちだからこそ、できることがあるはずです。
但馬人が但馬のことをもっと知り、新しい視点や連携により、楽しみながら地域での取組みに参加していく。但馬以外の方にも魅力をお伝えし、より多くの方に来ていただく。すると、但馬がおもしろくなる。但馬の美味しいものや誇るべき観光地、海や山が、ますます多くの方に愛され、但馬での暮らしが生き生きと輝く。そんな展開を目指しています。

夢但馬の事業や関連イベントについては、公式ホームページで情報発信されています。
※夢但馬公式ホームページへ

夢但馬 2014 推進協議会事務局
(但馬県民局地域政策室夢但馬推進課内)
・0796-26-3675
・豊岡市幸町7-11

2015/01/10  

朝倉さんしょ【あさくらさんしょ】

 

朝倉さんしょ【あさくらさんしょ】
朝倉さんしょ
朝倉さんしょ
●徳川家康に献上された天下の名産品
「朝倉さんしょ」とは、山椒の一種である「朝倉山椒」の実のブランド名です。木にはトゲがなく、大粒の実にまろやかな味と香りが特徴です。「朝倉山椒」は、兵庫県養父郡朝倉村(現在の養父市八鹿町朝倉)に自生していたものを栽培用として系統選抜したものが始まりと言われており、江戸時代から400年間、地元農家が大切に守り続けてきました。
慶長16年(1611)、生野奉行の間宮直元は、に「朝倉山椒」を徳川家康に献上したという記録が残っており、これが江戸幕府に「朝倉山椒」を献上した最も古い事例です。江戸時代、朝倉山椒は天下の名産品となりました。
平成21年度からはブランド名「朝倉さんしょ」として、但馬全域3市2町の240戸の農家が特産化を目指して栽培しています。

・JAたじま朝倉さんしょ部会 079- 662-4145

2014/12/17  

どぶろく

 

どぶろく
どぶろく
どぶろく
●日に日に発酵しながら味を変えるどぶろく
どぶろくは、米麹や野生酵母などの酵母を利用して作られる素朴な酒で、見た目は白く濁っています。酒税法の関係でその製造は厳しく取り締まられていますが、昔は農家の冬の楽しみとして、よく作られていたといいます。現在どぶろくを作るには、税務署に届けを出し、酒造免許を取得する必要があります。
但馬では4軒でどぶろくが製造されています。(昼食や宿泊利用時などに提供される他、販売も行っています)いずれも国の構造改革特区のひとつ「グリーンツーリズム特区」(都市部の人たちが農村体験をできる地区)に認定されています。

自家生産の原料を使い、ここでしか味わえないどぶろくをつくっています。甘酸っぱく、すっきりとさわやかな口当たりのこの酒が、人の和を広げ、地域を賑やかにしています。

八平達磨(農村体験館「八平」) 0796-56-1116
豊岡市但東町赤花572-1

和の泉(民宿愛宕荘) 0796-92-1626

美方郡新温泉町丹土144

小代道武禄
(オーベルジュ花郷里) 0796-97-3020
美方郡香美町小代区大谷300

鉢伏の泉(ロッジ翠山荘) 079-667-8420
養父市別宮290

2014/12/10  

おりゅう柳【おりゅうやなぎ】

 

おりゅう柳【おりゅうやなぎ】
おりゅう柳
おりゅう柳
おりゅう柳
(養父市)
・養父市八鹿町国木
植えられた柳の木の後ろには直径約30m、深さ約2mほどの窪地があります。おりゅう柳は高さ120m以上もあったと伝えられています。

 

切れない動かない、不思議な伝説が残る
地名「高柳」の由来となった大柳

養父市八鹿町・県立但馬全天候運動場の東側に、1本の柳の木が植えられています。その後ろにある大きな窪地。ここには窪地いっぱいに根をはった柳の大木があったと伝えられており、「おりゅう柳」伝説の場所となっています。その大柳は「高柳」の地名の元になったとされています。
昔、高柳におりゅうという美しい女性が住んでおり、夫・子どもと共に幸せに暮らしていました。八鹿の栂山のふもとには大柳があり、おりゅうが長い髪をすくと、その柳の枝が風のない日でも音をたてて揺れていたそうです。
さて、この頃京の都では御門の病気回復祈願すのため、三十三間堂という大きな寺が建てられることになりました。そして材木に大柳が選ばれます。
村人は守り神の大柳を切りたくありませんでしたが、仕方なく切り倒し始めました。しかし次の日、驚いたことに切り口が見当たりません。再度切り始めますが、やはり次の日には切り口がなくなっていました。
そこで村人たちは寝ずの番をすることにしましたが、途中で眠ってしまいます。すると夢に老人が現れてこういいました。
「私は柳に巻き付いているかずら。柳を切りたいのなら、木くずを燃やしなさい。夜になると木の精たちが集まり、傷口をふさいでいるのだ。私も助けようとしたが邪魔者扱いされたので、悔しくて秘密を教えることにした」。
それから木くずを焼くと切り口はふさがらなくなってしまったそうです。
やっと切り倒した柳を京へ運ぼうとしますが、今度はびくとも動きません。みんなが困り果てていた時、突然男の子が大柳の上によじ登りました。すると柳はするすると動き始めます。「あれはおりゅうの子のみどり丸ではないか」と声があがりました。おりゅうは柳が切り倒されたその時刻に息を引き取っていました。結局、京へ7日かけて運ばれましたが、みどり丸が上に乗らないと柳は動かなかったそうです。おりゅうはやっぱり柳の精だったのでしょうか。
似た話に、文楽の人形芝居として有名な「三十三間堂棟木由来」があります。これは男女の恋物語の話で、全国的に広く知られています。