久々比神社【くくひじんじゃ】
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久々比神社 ・豊岡市下宮 ・本殿 国指定建造物 |
●室町時代の雄々しい本殿
三間社流造の建物である本殿は国の重要文化財に指定されています。中嶋神社・酒垂神社の優しさと比較すると、やや雄々しさが目につきます。 |
久々比神社【くくひじんじゃ】
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久々比神社 ・豊岡市下宮 ・本殿 国指定建造物 |
●室町時代の雄々しい本殿
三間社流造の建物である本殿は国の重要文化財に指定されています。中嶋神社・酒垂神社の優しさと比較すると、やや雄々しさが目につきます。 |
黒野神社【くろのじんじゃ】
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黒野神社 ・香美町村岡区村岡 ・絹本著名釈迦十六善神像 |
●南北朝時代の釈迦十六善神像を所蔵
延喜5年(902)12月、藤原忠平等が撰上した「延喜式」神名帳に黒野神社の名が掲載されています。黒野神社が所蔵している「絹本著名釈迦十六善神像」(縦130.3cm 幅58.5cm)は南北朝時代のものといわれ、国指定重要文化財に指定されています。また、「貴徳面」(縦20cm 横15.5cm)は鎌倉時代のもので、町指定文化財に指定されています。 |
日出神社【ひのでじんじゃ】
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日出神社 ・豊岡市但東町畑山 ・本殿 |
●たばさみ・蟇股の施しがある室町時代の本殿 創立年月日は不詳ですが、延喜式の制小社に列し、享保11年拝殿を建立し、寶永元年社殿を修復、明治3年社殿を現在地に移したと記録が残っています。本殿は室町時代の建築といわれており、国の重要文化財に指定されています。本殿は三間社流れ造りで、たばさみ・蟇股(かえるまた)などに特色があります。 また境内には、後醍醐天皇の第六皇子恒良親王が幽閉されたという旧跡もあります。 |
桑原神社【くわばらじんじゃ】
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桑原神社 ・豊岡市竹野町桑野本 ・行道面 |
●鎌倉時代の祭礼舞楽に用いられた行道面を収蔵 豊岡市竹野町桑野本、桑原神社には古い9つの行道面があります。 建久2年(1191)8月15日に鷹野神社の祭礼舞楽に用いられた面と伝えられています。もと菩薩面10面、僧形面2面がありましたが、菩薩面3面は桑原神社に納められ、洪水のために流出してしまったと伝えられています。現在の菩薩面は、3つの様式に類型に分けることができます。第1の様式(1号面)は、繊細優美な純然たる藤原様式の面で、制作の年代も藤原末期と考えられています。第2の様式のもの(2号・3号面)は、頭髪に飾り金具をつけ、彫法は繊細。写実的で生気ある典型的な鎌倉初期の作品と考えられます。第3の様式のもの(4~7号面)は、頭髪に飾り金具をつけないで、顔の輪郭、眉、鼻、唇など表現は大まかですが、鎌倉時代の特色を示しています。 また、僧形面2面も喜びをユーモラスに生き生きと表現した鎌倉期の作品です。 |
三柱神社【みはしらじんじゃ】
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三柱神社 ・養父市八鹿町八鹿 |
●棟札から建立年代と彫刻師が判明 養父市八鹿町八鹿地区景観形成地区の重点文化財活用地区にある神社で、2007年(平成19)に県の文化財に登録されました。 神社建築を代表する一間社流造で、屋根は柿葺。大工や寄進者などを記した棟札により、建立年代は1782年(天明2)とわかりました。さらに、彫刻師・中井権次をはじめ木挽きなどの名も判明し、貴重な資料となっています。 丹波地方で著名な中井氏は、第4代中井忠貞が大工から彫刻師に家業を転換して栄え、江戸時代後期に北近畿で多くの社寺に豪華な彫刻を残しました。第6代中井正貞からは中井権次を襲名しています。 |
三川権現社【みかわごんげんしゃ】
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三川権現社 ・香美町香住区三川 |
●山岳修験道の行場として栄えた日本三大権現のひとつ ブナやシャクナゲが群生する香美町香住区の三川山は、古来より山岳修験道の行場として栄えた古霊場です。 修験道の開祖といわれる役行者(えんのぎょうじゃ)が674年に蔵王権現を勧請して開いたと伝えられています。 三川権現は、 大和の大峯山、伯奢の三徳山と並び、日本三大権現に数えられ、かつては歴代の国主、諸公をはじめ一般の人々の信仰も篤く、隆盛を極めていました。 しかしふもとにある三川権現社は、天文7年(1538)、雷火によって奥の院を焼き伽藍を焼失します。その後一時再建されますが、天保3年(1832)に但馬有史以来といわれる山津波(土石流)によって全ての建造物を流失、埋没してしまいました。 また、三川権現には「ぽっくり尊」という、老いてから大往生できるという仏様も祀られています。苦しみを身替わりに背負ってくれるという代苦仏です。さらに全国観音霊場(四国、西国、板東、秩父の合計188ケ所)のお砂文があり、ここに来れば一度に巡ることができるようになっています。 |
名草神社【なぐさじんじゃ】
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名草神社 ・養父市八鹿町石原
●関連情報 |
●標高760mと日本一高いところにある三重塔 標高1,139mの高さを誇る妙見山の8合目に但馬妙見名草神社はあります。妙見さんは澄みきった聖なる空間に鎮座し、稲の豊作を但馬の内外から多くの農民が列をなして参拝した但馬を代表する神社です。 境内の標高760mのところには三重塔があります。三重塔は出雲大社の境内に出雲国の守護大名である尼子経久が願主となって大永七年(1527年)に建立したものです。妙見社が出雲大社本殿の用材として妙見杉を提供した縁によって、出雲大社から三重塔を譲り受けました。寛文五年(1665年)1月に解体が始められて、船で日本海を渡り、名草神社の境内には5月に上がりました。雪に備えた突貫工事によって9月に竣工しました。 明治37年に国宝に指定されましたが、昭和25年の現在の文化財保護法によって国指定重要文化財となりました。また、昭和62年には解体修理工事が完成し、丹塗りの鮮やかな姿を見せています。 屋根は薄い杉板を何枚も重ね合わせたこけら葺きの屋根です。高さは23.9mもあり、三層目の軒下には四隅に四匹の猿の彫刻が置かれています。「見ざる、聞かざる、言わざる」という三猿は有名ですが、あと一匹は「思わざる」だと言われています。 宝暦四年(1754年)建築の本殿は県指定文化財で標高800mの場所に鎮座しています。正面は9間で、側面が5間あります。屋根は入母屋造という形で、こけら葺きです。正面には千鳥破風があり、その前には唐破風をつけた豪華な造りで、こうした正面から見た姿は日光東照宮の姿に例えられています。 拝殿も県指定文化財で、元禄二年(1690年)の建築です。本殿の前に庭を隔てて相対しており、正面は石垣からせり出すように建てられています。正面が5間で側面が2間あり、中央1間を通路とした形で、割拝殿と言います。名草神社で最も古い建物です。 |
中嶋神社【なかしまじんじゃ】
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中嶋神社 ・豊岡市三宅 ・本殿 国指定建造物 |
●お菓子の神様、田道間守命をまつる 菓祖、田道間守命(たじまもりのみこと)がまつられている中嶋神社。田道間守は天日槍の子孫、三宅連(みやけのむらじ)らの祖先で、垂仁天皇の命を受けて、はるかな地に、命を長らえることのできる実、その時節でなくてもいつでもある香り高い果物(橘)を探し求める旅に出ました。荒海を渡りようやく命がけで橘の実を手に入れることができ、日本へ帰ってきましたが、天皇は崩御の後で、悲しみ嘆いた田道間守は、天皇の陵(墓)に、橘を捧げたまま息絶えてしまいました。 忠節を尽くした田道間守の墓は、垂仁天皇陵の堀の中に浮かぶ小さな島にひっそりと祀られています。また、田道間守が持ち帰った時じくの香の木の実は、わが国のお菓子のはじまりとされ、田道間守の故郷、中嶋神社に祀られています。 本殿は国指定重要文化財で、建造年代は1428年、屋根を側面から見ると後方は短く、前方の軒先が流れ下っている二間流造(ながれづくり)で、室町時代の典型的な神社建築を伝えています。 |
小代神社【おじろじんじゃ】
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小代神社 ・香美町小代区秋岡 ・小代スギ |
●燈明杉の伝説を残す、歴史ある神社 もとは「神明宮」と称していましたが、明治3年(1870)の神仏引分の際「小代神社」と改められました。延喜5年(905)からつくられた「延喜式」神名帳に小代神社二座と記載されており、その歴史は古く由緒正しい神社です。 伝説によると、元和元年(1615)、大坂浪士の上田上野介政広の息子、上田新右衛門政英が、夢に現れた老翁のお告げ通り、輝く杉の木から顕われたご神体を神社に祀ったといわれています。 後にこの杉の木は燈明杉と呼ばれ、樹齢1000年といわれる今も社殿の裏で高々とそびえています。 山腹に建てられた小代神社には他にも様々な木々が生育し、トチノキ、夫婦スギ、ハリモミなど、巨樹としても有数のものがあります。本殿脇にある夫婦スギは長い年月の間に2本の木が合体した珍しいもので、名前の由来にもなっています。樹高は40m以上あり、雄大な姿で繁茂しています。 社叢を構成するスギは雪に強く、材質も優れていることから植林用スギ品種「小代スギ」として国指定特別母樹林に指定されています。 かつて神社で行われていた例祭には数多くの参拝者があったといいます。「但馬秘鍵抄」という古書に、小代神社祭神に蒼稲魂命、牛知魂命を祀るとされているため、畜産守護の神として、崇敬されていたようです。 また、縁結びの神、安産の神ともいわれ、多数の青年男女が参詣していました。様々な伝説を残す小代神社、今は信仰の上からだけでなく、森林が繁茂する幽玄な地に惹かれて、足を運ぶ人もいます。 |
大生部兵主神社【おおいくべひょうずじんじゃ】
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大生部兵主神社 ・豊岡市但東町薬王寺 |
●県社として栄えた牛馬の神を祀る神社 薬王寺の大生部兵主神社は「天王さん」と呼ばれ、牛馬の神様を祀る神社として古くから人々に親しまれてきました。いつ頃できたものかはっきりしていませんが、かつては県社として栄えた由緒ある神社です。 用命天皇の時代(585~587)、勅命を受けて三上山(京都・大江山)に棲む鬼の討伐にやって来た皇子・麻呂子親王が、牛頭天王に祈願したという伝説が残っています。このことから、それ以前に創立されたものと推測されます。また国司文書には、天武13年(684)に社を別の地に移して祀ったとあり、その前後に現在の地に移されたのだと考えられています。 境内には樹齢400年と推定されるご神木の杉の木があります。この木には、地上1~3mの間に23カ所の呪いの釘跡があります。この辺りの山は、昔、大江山とを結ぶ修験の道があったといわれ、山に入り帰らぬ男への恨みを女が釘に込めて、この杉に打ち込んだのだといいます。後に宮司がこの凄惨なありさまを見るのが恐ろしく、ノミで釘を抜き、周囲を修復したそうです。木には今でもその跡が残っています。 現在は 交通安全、家内安全、縁結びの神様として崇められており、毎年5月3日に豊作を祈願する春の大祭が行われています。大祭では地元の中学生が巫女の衣装をまとって、神楽「浦安の舞」を奉納します。続いて「練り込み太鼓」が披露され、笛や太鼓の音が辺りに響き渡ります。この日は餅まきなども行われ、神社は地元の人たちで賑わいをみせます。 |