酒垂神社【さかだるじんじゃ】
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酒垂神社 ・豊岡市法花寺 ・本殿 国指定建造物 |
●お酒の神様、酒弥豆男命・酒弥豆女命を祀る
酒弥豆男命と酒弥豆女命という酒の神をまつる酒垂神社。本殿は2本の柱で一間をつくる一間社流造の構造で、国の重要文化財に指定されています。現在は保護のために上屋で覆われています。永享10年(1438)に斧始め、嘉吉元年(1441)に立柱、文安元年(1444)に遷宮、体裁を完備したのが、宝徳元年(1449)で、前後11年をかけて建てられた建物です。 |
酒垂神社【さかだるじんじゃ】
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酒垂神社 ・豊岡市法花寺 ・本殿 国指定建造物 |
●お酒の神様、酒弥豆男命・酒弥豆女命を祀る
酒弥豆男命と酒弥豆女命という酒の神をまつる酒垂神社。本殿は2本の柱で一間をつくる一間社流造の構造で、国の重要文化財に指定されています。現在は保護のために上屋で覆われています。永享10年(1438)に斧始め、嘉吉元年(1441)に立柱、文安元年(1444)に遷宮、体裁を完備したのが、宝徳元年(1449)で、前後11年をかけて建てられた建物です。 |
四所神社【ししょじんじゃ】
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四所神社 ・豊岡市城崎町湯島 ・本殿・拝殿 県登録有形文化財
●関連情報 |
●城崎温泉の中心に位置する守護神 祭神は湯山主大神(ゆやまぬしのおおかみ)などを祀っています。城崎温泉街の中央に位置し、708年(和銅元)、日生下権守(ひうけごんのかみ)が神託を受け、4柱(四所)の明神を奉祀したことから始まったと伝えられています。 古来より城崎温泉の氏神、温泉の守護神として信仰されてきました。かつて城崎の町はこの四所神社を境に、西が上部、東が下部とわかれていました。 毎年、四所神社の秋の祭礼「だんじり祭り」が外湯のひとつ「一の湯」の前で、盛大に行われます。だんじり(屋台)が激しくぶつかり合う三つ巴の争いは迫力があり、多くの見物人が訪れます。 |
気比の銅鐸【けいのどうたく】
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●貝殻などの上に置かれていた縦横四区画をもつ銅鐸
大正元年(1912年)9月、当時、小学校を改築するために必要な石材をもとめて、気比村字溝谷(鷲崎)の石切場で銅鐸4個が発見されました。 |
中谷貝塚【なかのたにかいづか】
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中谷貝塚 ・豊岡市中谷 ・県指定遺跡 |
●縄文時代の人々の重要なタンパク源・貝類の殻の層 人類の歴史が始まったころに干陸化し、平地になったといわれる豊岡盆地。大正2年(1913)に発見された中谷貝塚からは、縄文時代の人々の重要なタンパク源であった貝類の殻を中心に、生活用具である土器、石器が出土しています。昭和61年(1986)に行われた調査によって、東西12.5mにわたる貝層が確認されました。この貝層は、縄文時代中期から後期までの間に、断続的に形成されたもので、ヤマトシジミを主体として、ハマグリ、マガイなどが見られます。自然死した貝類が堆積した層も確認されており、その多くが付近で採取されたものであることもわかっています。 中谷貝塚は、採取地と貝塚がセットで見つかった希少なケースとして注目されています。 |
竹田城跡【たけだじょうせき】
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●関連情報 |
●別名「虎臥城」勇壮な石積み全国屈指の山城 竹田城は、嘉吉年間(1441~43年)、但馬の守護大名、山名宗全が出石城の出城として播磨・丹波から但馬への侵略路へ位置するこの地に13ヵ年を費やして築いたと伝えられています。当時は、土塁をもとに作られた城と考えられ、山名氏の武将、太田垣氏が5代にわたって城主となり治めました。しかし、天正5年(1577)、秀吉の2度の但馬征伐で竹田城は落城、山名氏とともに太田垣氏は没落します。 その後、秀吉の弟秀長の属将的な地位にあった桑山修理太夫重晴、続いて播磨龍野城主赤松政秀の子、赤松広秀が城主となります。広秀は朝来郡2万2000石を領有し、文禄年間から慶長の初期(1600年頃)に、現在のような豪壮な石垣積みの城郭を築きます。竹田城の最後の城主、赤松広秀は、関ヶ原の役で西軍に属し敗北。その後、徳川方として鳥取城攻めに加わり戦功をあげますが、城下に大火を放ったとの罪を押しつけられ自刃。竹田城は廃城となりました。 |
妙楽寺出土仏具一括【みょうらくじしゅつどぶつぐいっかつ】
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▲錫杖 ・豊岡市妙楽寺 ●関連情報 |
●中世仏教寺院としての「妙楽寺」を解き明かす 昭和37年(1962)、豊岡盆地側から県立但馬文教府へ至る道路の造成工事中に、鎌倉時代から室町時代のものと思われる密教関係の仏具が多数発見されました。出土品は散逸することなく一括で県立但馬文教府で保管、平成12年(2000年)に豊岡市出土文化財管理センターへ移管されました。特に、総高48.2cm、重量2,756kgの大型の錫杖頭は、全国屈指の大きさを誇り、錫杖頭に尊仏を配する例は全国的にも珍しいとされています。仏教考古学、美術工芸史及び地域史上もきわめて価値が高い資料です。 近年の整理作業で確認された「大門坊」「施入本堂」と線刻された資料からは、これまで不明であった、中世仏教寺院としての「妙楽寺」をうかがい知ることができるのでは?と、今後の調査研究に期待が高まっています。 |
戊辰年銘大刀【ぼしんねんめいたち】
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戊辰年銘大刀 ・養父市八鹿町国木 ・国指定考古 ・兵庫県立歴史博物館所蔵 ●関連情報 |
●箕谷古墳群から608年にあたる鉄刀が出土
昭和58年8月、つるぎが丘公園の建設に先立つ埋蔵文化財調査で、箕谷2号墳から100点以上の遺物とともに一本の鉄刀が出土しました。X線検査の結果、銅で象嵌(ぞうがん)された「戊辰年五月(中)」の大文字が判読され、また、この鉄刀は、奈良・飛鳥時代の天皇が儀式用に使った「圭頭大刀(けいとうたち)」と呼ばれる形式であることもわかりました。 |
八木城跡【やぎじょうせき】
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八木城跡 ・養父市八鹿町八木 ・国指定史跡 ●関連情報 |
●殿屋敷、土城、八木城、3つの時代が語る城跡 八木城跡は標高330mの位置にあり、日本屈指の規模を誇る竹田城(和田山町)や山名氏の此隅山城(出石町)と並ぶ、但馬の代表的な山城です。八木氏が戦国時代に使った土城、豊臣秀吉によって任命された別所重棟・吉治という二代の大名によって改修され、八木城・土城・殿屋敷の3か所を八木城跡として国指定文化財になっています。 八木氏の初代・八木安高は、幕府から任命された地頭として八木の地を治め、その館跡が畑ヶ中の屋敷跡にありました。高い山の上に築くようになったのは、南北朝時代で、細い山の上に階段のように連続して曲輪を築いています。その特徴を伝えているのが八木の土城です。 やがて室町時代の後半になると、今滝寺、畑ヶ中、琴弾峠のような方向にも曲輪を拡張するようになります。曲輪は城の中心から放射状に三方向へ広がり、山城は大型化します。本丸の石垣は、長さ40m、高さ9.3mあり、豊臣時代に築かれた類例の少ない貴重な遺跡といわれています。 八木城跡は、3つの時代の城館跡が一か所に残っていることは極めて珍しく、地方の武士が幕府の家臣となって鎌倉時代から室町時代へ、さらに安土桃山時代へと生きる様子を示す遺構でもあります。 最後の城主の別所氏は、養父郡内で1万5千石を治めていましたが、慶長5年(1600)関が原の合戦に石田三成に与して、廃城になりました。 |
赤淵神社【あかぶちじんじゃ】
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赤淵神社 ・朝来市和田山町枚田 ・本殿 国指定建造物 |
●室町初期の蟇股、懸魚、妻窓など建築様式を残す
枚田内高山の麓、507年に創建されたと伝えられる式内社。現在の本殿は、室町時代初期に建てられ、国の重要文化財に指定されています。三間社流造、こけら葺、桁行4.8m、梁間3.1m、正面と両側面に高欄付縁をめぐらせています。身舎部は内陣と外陣に分かれ、正面には格子をはめ、中央には階段を設けています。再三改修のあとはありますが、蟇股(かえるまた)、懸魚(げぎょ)、妻窓などに当時の建築様式を残しています。 本殿に付随して指定された棟札には次のように記されています。 さらに、平成3年度には文化庁の補助により、「平成の大修理」といわれる本殿と履屋を改修しています。 |
但馬五社【たじまごしゃ】
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但馬を南北にわたる絹巻神社・出石神社・小田井神社・養父神社・粟鹿神社、この5つの神社を総称して「但馬五社」といいます。各神社間は約12km、お正月にはこの五社をめぐると大変御利益があるとされ、露店も並び、多くの参拝者で賑わいます。 |