2011/06/22  

酒垂神社【さかだるじんじゃ】

 

酒垂神社【さかだるじんじゃ】

酒垂神社
・豊岡市法花寺
・本殿
国指定建造物
●お酒の神様、酒弥豆男命・酒弥豆女命を祀る

酒弥豆男命と酒弥豆女命という酒の神をまつる酒垂神社。本殿は2本の柱で一間をつくる一間社流造の構造で、国の重要文化財に指定されています。現在は保護のために上屋で覆われています。永享10年(1438)に斧始め、嘉吉元年(1441)に立柱、文安元年(1444)に遷宮、体裁を完備したのが、宝徳元年(1449)で、前後11年をかけて建てられた建物です。
おもしろいのは、中嶋神社と同じ大工の手によってつくられています。記録によると大伴久清という宮大工によって建てられており、細部にわたってすぐれた意匠がこらされています。
大伴久清という大工の苗字・大伴は、今も三江地区に分布している大伴姓と関係があるかも知れません。江戸時代に入って修理を担当した藤原勘右衛門は、明らかに下宮の人でした。その修理技術は優秀で、原型を損なうことなく修復しています。

2011/06/22  

四所神社【ししょじんじゃ】

 

四所神社【ししょじんじゃ
四所神社
四所神社
・豊岡市城崎町湯島
・本殿・拝殿
県登録有形文化財

だんじりまつり
だんじりまつり

●関連情報
城崎温泉ホームページ

●城崎温泉の中心に位置する守護神
祭神は湯山主大神(ゆやまぬしのおおかみ)などを祀っています。城崎温泉街の中央に位置し、708年(和銅元)、日生下権守(ひうけごんのかみ)が神託を受け、4柱(四所)の明神を奉祀したことから始まったと伝えられています。
古来より城崎温泉の氏神、温泉の守護神として信仰されてきました。かつて城崎の町はこの四所神社を境に、西が上部、東が下部とわかれていました。
毎年、四所神社の秋の祭礼「だんじり祭り」が外湯のひとつ「一の湯」の前で、盛大に行われます。だんじり(屋台)が激しくぶつかり合う三つ巴の争いは迫力があり、多くの見物人が訪れます。

2011/06/22  

気比の銅鐸【けいのどうたく】

 

気比の銅鐸【けいのどうたく】
気比銅鐸4個
・豊岡市気比
・国指定考古遺物

・東京国立博物館所蔵

●関連情報
とよおか発掘情報

●貝殻などの上に置かれていた縦横四区画をもつ銅鐸

大正元年(1912年)9月、当時、小学校を改築するために必要な石材をもとめて、気比村字溝谷(鷲崎)の石切場で銅鐸4個が発見されました。
路傍にたっていた巨岩の背面にある小岩窟の中に、河原石や貝殻類をしきならべて、その上に置かれてたといわれています。いずれも流水文の小型銅鐸で、その内の第3号鐸は縦横四区画をもつ特色ある文様構成をしています。当時、日本海側では初めての発見で古代史学者が注目しました。その内の2個は大阪府下でつくられたことがわかってきています。陸路約200kmを隔てた間での交易がおこなわれていたことが推測されます。
銅鐸は弥生時代における最も謎の多い遺物で、気比の銅鐸は質の良さ、保存状況の良好さ、出土状況が比較的はっきりしています。大正元年11月に、宮内省から東京帝室博物館へ着出の指令が出され、現東京国立博物館の蔵品となっています。

2011/06/22  

中谷貝塚【なかのたにかいづか】

 

中谷貝塚【なかのたにかいづか】
中谷貝塚
中谷貝塚
・豊岡市中谷
・県指定遺跡
●縄文時代の人々の重要なタンパク源・貝類の殻の層
人類の歴史が始まったころに干陸化し、平地になったといわれる豊岡盆地。大正2年(1913)に発見された中谷貝塚からは、縄文時代の人々の重要なタンパク源であった貝類の殻を中心に、生活用具である土器、石器が出土しています。昭和61年(1986)に行われた調査によって、東西12.5mにわたる貝層が確認されました。この貝層は、縄文時代中期から後期までの間に、断続的に形成されたもので、ヤマトシジミを主体として、ハマグリ、マガイなどが見られます。自然死した貝類が堆積した層も確認されており、その多くが付近で採取されたものであることもわかっています。
中谷貝塚は、採取地と貝塚がセットで見つかった希少なケースとして注目されています。

2011/06/22  

竹田城跡【たけだじょうせき】

 

竹田城跡【たけだじょうせき】


竹田城跡
・朝来市和田山町
・国指定史跡

●関連情報
朝来市役所

●別名「虎臥城」勇壮な石積み全国屈指の山城
竹田城は、嘉吉年間(1441~43年)、但馬の守護大名、山名宗全が出石城の出城として播磨・丹波から但馬への侵略路へ位置するこの地に13ヵ年を費やして築いたと伝えられています。当時は、土塁をもとに作られた城と考えられ、山名氏の武将、太田垣氏が5代にわたって城主となり治めました。しかし、天正5年(1577)、秀吉の2度の但馬征伐で竹田城は落城、山名氏とともに太田垣氏は没落します。

その後、秀吉の弟秀長の属将的な地位にあった桑山修理太夫重晴、続いて播磨龍野城主赤松政秀の子、赤松広秀が城主となります。広秀は朝来郡2万2000石を領有し、文禄年間から慶長の初期(1600年頃)に、現在のような豪壮な石垣積みの城郭を築きます。竹田城の最後の城主、赤松広秀は、関ヶ原の役で西軍に属し敗北。その後、徳川方として鳥取城攻めに加わり戦功をあげますが、城下に大火を放ったとの罪を押しつけられ自刃。竹田城は廃城となりました。
竹田城の石垣の積み方は、織田信長の安土城と同じ技術で、自然石を石の声を聞きながら積むと言われる近江穴太衆の手による穴太流石積み技法が用いられています。
その姿は、虎が臥せているようにも見えることから、別名「虎臥城」とも呼ばれています。
山の地形を巧みに活用し防御に対する配慮の綿密さなどから考えると、よほど堪能な人の手による構築といえます。規模は南北400m、東西100m。完存する遺構としては、全国屈指のもので、国史跡に指定されています。

2011/06/22  

妙楽寺出土仏具一括【みょうらくじしゅつどぶつぐいっかつ】

 

妙楽寺出土仏具一括【みょうらくじしゅつどぶつぐいっかつ】
錫杖
▲錫杖

・豊岡市妙楽寺
・県指定文化財(考古資料)

●関連情報
とよおか発掘情報

●中世仏教寺院としての「妙楽寺」を解き明かす
昭和37年(1962)、豊岡盆地側から県立但馬文教府へ至る道路の造成工事中に、鎌倉時代から室町時代のものと思われる密教関係の仏具が多数発見されました。出土品は散逸することなく一括で県立但馬文教府で保管、平成12年(2000年)に豊岡市出土文化財管理センターへ移管されました。特に、総高48.2cm、重量2,756kgの大型の錫杖頭は、全国屈指の大きさを誇り、錫杖頭に尊仏を配する例は全国的にも珍しいとされています。仏教考古学、美術工芸史及び地域史上もきわめて価値が高い資料です。

近年の整理作業で確認された「大門坊」「施入本堂」と線刻された資料からは、これまで不明であった、中世仏教寺院としての「妙楽寺」をうかがい知ることができるのでは?と、今後の調査研究に期待が高まっています。

2011/06/22  

戊辰年銘大刀【ぼしんねんめいたち】

 

戊辰年銘大刀【ぼしんねんめいたち】

戊辰年銘大刀
・養父市八鹿町国木

・国指定考古

・兵庫県立歴史博物館所蔵

●関連情報
養父市役所

●箕谷古墳群から608年にあたる鉄刀が出土

昭和58年8月、つるぎが丘公園の建設に先立つ埋蔵文化財調査で、箕谷2号墳から100点以上の遺物とともに一本の鉄刀が出土しました。X線検査の結果、銅で象嵌(ぞうがん)された「戊辰年五月(中)」の大文字が判読され、また、この鉄刀は、奈良・飛鳥時代の天皇が儀式用に使った「圭頭大刀(けいとうたち)」と呼ばれる形式であることもわかりました。
日本最古の銅象嵌で、この大刀は銘文から戊辰年銘大刀(ぼしんねんめいたち)と呼んでいますが、戊辰年は「つちのえたつ」という干支(かんし)年号で、推古(すいこ)天皇16年(608)にあたることから、全国の古墳の実年代を考える基準資料として注目されています。銘文は刀身の柄(つか)よりに「戊辰年五月(中)」の6文字を刻んでいます。鉄にタガネで線を彫り、その線に銅線をうめこんで文字を書く、銅象嵌という方法です。これは日本最古の銅象嵌の技法です。文字は1字1cmほどで、銅線は0.2~0.4mmという細いものです。
書風はのびのある柔らかい筆勢で書かれ、全体として中国六朝(りくちょう)的な様相を残しています。特に 「五 」の字は円筆(えんぴつ)という特色があります。日本にある銘文鉄刀は全国で8本だけの珍しいものです。兵庫県立歴史博物館に保管展示され、レプリカは、つるぎが丘公園体育館に展示されています。

2011/06/22  

八木城跡【やぎじょうせき】

 

八木城跡【やぎじょうせき】

八木城跡
・養父市八鹿町八木

・国指定史跡

●関連情報
養父市役所

●殿屋敷、土城、八木城、3つの時代が語る城跡
八木城跡は標高330mの位置にあり、日本屈指の規模を誇る竹田城(和田山町)や山名氏の此隅山城(出石町)と並ぶ、但馬の代表的な山城です。八木氏が戦国時代に使った土城、豊臣秀吉によって任命された別所重棟・吉治という二代の大名によって改修され、八木城・土城・殿屋敷の3か所を八木城跡として国指定文化財になっています。
八木氏の初代・八木安高は、幕府から任命された地頭として八木の地を治め、その館跡が畑ヶ中の屋敷跡にありました。高い山の上に築くようになったのは、南北朝時代で、細い山の上に階段のように連続して曲輪を築いています。その特徴を伝えているのが八木の土城です。
やがて室町時代の後半になると、今滝寺、畑ヶ中、琴弾峠のような方向にも曲輪を拡張するようになります。曲輪は城の中心から放射状に三方向へ広がり、山城は大型化します。本丸の石垣は、長さ40m、高さ9.3mあり、豊臣時代に築かれた類例の少ない貴重な遺跡といわれています。
八木城跡は、3つの時代の城館跡が一か所に残っていることは極めて珍しく、地方の武士が幕府の家臣となって鎌倉時代から室町時代へ、さらに安土桃山時代へと生きる様子を示す遺構でもあります。
最後の城主の別所氏は、養父郡内で1万5千石を治めていましたが、慶長5年(1600)関が原の合戦に石田三成に与して、廃城になりました。

2011/06/22  

赤淵神社【あかぶちじんじゃ】

 

赤淵神社【あかぶちじんじゃ】

赤淵神社
・朝来市和田山町枚田
・本殿
国指定建造物
●室町初期の蟇股、懸魚、妻窓など建築様式を残す

枚田内高山の麓、507年に創建されたと伝えられる式内社。現在の本殿は、室町時代初期に建てられ、国の重要文化財に指定されています。三間社流造、こけら葺、桁行4.8m、梁間3.1m、正面と両側面に高欄付縁をめぐらせています。身舎部は内陣と外陣に分かれ、正面には格子をはめ、中央には階段を設けています。再三改修のあとはありますが、蟇股(かえるまた)、懸魚(げぎょ)、妻窓などに当時の建築様式を残しています。
また、勅使門は元禄7年(1694)に八木城主・八木勘十郎宗織が大願主となって再建し、寛政9年(1797)修理したと伝えられています。四脚門様式で材質は欅(けやき)が使用されています。

本殿に付随して指定された棟札には次のように記されています。
1 修造干時元和八年卯月吉日(1622)
2 正保五年卯月吉日(1648)
3 寛文乙巳五年三月十六日(1665)
4 奉修覆 元禄七年甲戌暦九月吉祥日(1694)
5 奉修覆 元文五庚申天四月十六日(1740)
6 奉修覆 宝暦十庚辰天五月吉日(1760)
7 奉修覆 天明五乙巳六月十五日(1785)

さらに、平成3年度には文化庁の補助により、「平成の大修理」といわれる本殿と履屋を改修しています。

2011/06/22  

但馬五社【たじまごしゃ】

 

但馬五社【たじまごしゃ】
但馬を南北にわたる絹巻神社・出石神社・小田井神社・養父神社・粟鹿神社、この5つの神社を総称して「但馬五社」といいます。各神社間は約12km、お正月にはこの五社をめぐると大変御利益があるとされ、露店も並び、多くの参拝者で賑わいます。


絹巻神社
・豊岡市気比
●絹巻神社(きぬまきじんじゃ)
亜熱帯の鎮守の森に海の神様を祀る

天衣織女(あめのいおりめ)命・海部直命を祀り、全国でも珍しいおしりをあげた狛犬があります。以前は前方にありましたが、港大橋架設のため現在の位置に移動しました。
周囲は暖地性原生林で面積1万2千平方メートル余りに、シイ、クスノキ、サカキ、ダブ、ヤマザクラ、ツバキなど温帯、亜熱帯の樹木が生い茂り、県の天然記念物に指定されています。

 



小田井神社
・豊岡市小田井
●小田井神社(おだいじんじゃ)
国作大己貴命を祀る

延喜式神名帳(905)に記されいる式内神社で、国作大己貴(くにつくりおおなむち)命を祭神に祀っています。弘安年中(1278~87)の但馬大田文には、小田井社々領31町3反あまり神供田25町1反あまりとあり、当時は神仏習合で社家(四社)、社僧(4ヶ寺・金剛、妙楽、正法、三坂)が祭事をとり行っていたとされています。
しかし、天正3年(1575)、戦で森に火を放たれ焼失、ご神霊はみこしで一日市に火難を避けられたと伝えられています。同じ天正年中、羽柴秀吉が中国征伐に陣営を置き、多くの神領・神供田を没収、社家社僧は離散してしまいました。貞享年間中(1684~87)に社殿を再興し、鳥居を建て、元文年中(1736~1740)に神殿を改造しました。
昭和になってから、円山川河川工事で移転や境内の改築が行われ、現在に至っています。

 



出石神社
・豊岡市出石町宮内
●出石神社(いずしじんじゃ)
但馬開発の祖神、天日槍命を祀る

但馬一の宮といわれ、祭神は但馬開発の祖神、天日槍(あめのひぼこ)命と八種の宝が祀られています。天日槍は朝鮮半島から日本に渡来した人々が信仰した神様だと考えられています。出石神社由来記には天日槍が、その当時入江湖であった但馬地方を瀬戸の岩戸を切り開いて耕地にしたと記されています。
「祭具の鉾・首部」を所蔵し、天日槍命は太陽光の化身とも、祭具としての鉾の擬人化ともいわれています。また、龍が鉾に巻きついている姿は歌舞伎の柱まき(柱に手と足をかけみえをきること)の原型ではという説もあります。

出石神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の一宮縁起には谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀って、天日槍命を祀ったと伝えていますが、諸書によると奈良朝時代すでに山陰地方の有数の大社であったことがうかがわれます。

境内の門の脇に鳥居の一部が置いてありますが、これは出石川改修の際、川から出土したもので、平安時代のものだといいます。出土した付近は今でも「鳥居」という地名で、かつては一の鳥居、二の鳥居があったとされ、二の鳥居の一部ではないかといわれています。
現在の社殿は大正3年に再建され、本殿は三間社流れ造りで南に面しています。拝殿は舞殿形式で入母屋造り平入りで蔀戸をつり、正面に身舎の屋根と独立した平唐破風出桁の向拝は他に類のない珍しい建物です。

 



養父神社
・養父市養父市場
●養父神社(やぶじんじゃ)
農業・養蚕・牛馬の神、倉稲魂命など五柱を祀る

延喜式の式内大社で、天平9年(737)但馬税正帳にも出石神、粟鹿神と共に名を連ねる古い宮です。鎌倉時代には多くの社田を持ち、三重の塔、堂、坊をもった神宮寺のあったことも知られています。現在の社務所は江戸時代の別当寺、普賢寺です。
祭神は農業・養蚕・牛馬の神、倉稲魂(うがのみたま)命をはじめ大己貴命、少彦名命、谿羽道主命、船帆尼命の五柱を祀っています。春の大祭、八十八夜祭など年間多くの祭りがあり、春の桜、秋の紅葉など信仰、名所としてにぎわいます。また、但馬の3大祭りに数えられる「お走りまつり」が伝えられ、4月15日から16日にかけて、御輿が町内を横断し、約18km離れた斎神社へお参りを行います。特に15日の大屋川渡りは圧巻です。

 



粟鹿神社
・朝来市山東町粟鹿
●粟鹿神社(あわがじんじゃ)
約600年前に国家平癒を祈願、勅使門を建立

但馬国一の宮、延喜式に定める明神大社で、阿米弥佐利命が主祀神で、その他、諸々の神々が祀られています。創建は古く崇神天皇の頃と伝えられています。神徳高き神社として朝廷の尊崇が厚く、約600年前には国家の大難に際して4度の勅使が派遣され、そのご加護として勅使門が建てられたとされています。 当地方における数少ない遺構の一つとして貴重です。 本柱間の両開きの唐戸は、透かし彫りの欄間をつけ、羽目板には鳳凰が刻まれ、 頭貫には唐草模様が見られます。
また、御本殿裏の御塚には、日子坐王命が葬られ御陵として崇められています。境内の末社も由緒があり、1,540坪に及ぶ神域の社叢林は深厳な景観を形成し、町指定天然記念物です。