今井家住宅【いまいけじゅうたく】
|
今井家住宅 ・朝来市生野町口銀谷 ・主屋 国登録有形文化財(建造物) ・西塀 国登録有形文化財(建造物)
|
●かつての生野の大山師別邸と伝わる 江戸末期に建築された一部2階建の古民家で、平成17年(2005年)に主屋と西塀が国の登録有形文化財となりました。大山師と呼ばれる、山師(江戸時代に代官所から採掘権を与えられた鉱山経営者)のうち特に規模の大きかった大山師『丹波屋』の別邸だったとも伝わっています。 |
今井家住宅【いまいけじゅうたく】
|
今井家住宅 ・朝来市生野町口銀谷 ・主屋 国登録有形文化財(建造物) ・西塀 国登録有形文化財(建造物)
|
●かつての生野の大山師別邸と伝わる 江戸末期に建築された一部2階建の古民家で、平成17年(2005年)に主屋と西塀が国の登録有形文化財となりました。大山師と呼ばれる、山師(江戸時代に代官所から採掘権を与えられた鉱山経営者)のうち特に規模の大きかった大山師『丹波屋』の別邸だったとも伝わっています。 |
旧海崎医院【きゅうかいざきいいん】
|
旧海崎医院 ・朝来市生野町口銀谷 国登録有形文化財(建造物)
|
●和と洋の景観が織り成す魅力ある建築物 旧海崎医院は、1887(明治20)年頃に建設され、待合室、診察室、休息室からなる床面積47平方メートルの医院棟です。 待合室は板敷きに漆喰塗、格間約30cmの格天井で仕上げられており、30cm四方の各格間には菊、ボタンやアサガオなど の花や小鳥、太陽、月をモチーフにした日本画が描かれています。また待合室の屋根の瓦は、その色合いから、「赤瓦」 ともいわれる生野瓦が使われており、独特の味わいを醸しだしています。そして、通りに面した部分の外観は、羽目板張 に鎧戸付きの両開き窓や軒蛇腹をまわした寄棟瓦葺きの洋風の造りになっているのに対し、奥には縁側があり、屋根も切 妻屋根と純和風の造りになっています。 大きな建造物ではないですが、この和洋の景観が織り成す魅力や格天井の絵など 質の高い細部が高く評価され、平成14年(2002年)国登録有形文化財になりました。 |
鉱石の道【こうせきのみち】
|
|
神子畑選鉱所
鉱石の道 ●関連情報 |
●明延~神子畑~生野鉱山を結ぶ輸送ルート 生野鉱山(朝来市生野町)、神子畑鉱山(朝来市)、明延鉱山(養父市大屋町)は、明治時代から昭和にかけて、国内のスズや銅の主力産地として日本の近代産業を支えました。これら3つの鉱山には、鉱石や人、物資を運ぶため、鉱石輸送の専用道路が整備されていました。明延で採掘された鉱石が、専用電車(一円電車)で神子畑選鉱所へ運ばれて選鉱・製錬され、専用道路で生野精錬所に輸送。 高純度のインゴットとなって、生野鉱山本部から銀の馬車道を通って姫路・飾磨港へと運ばれていきました。 現在、明延~神子畑~生野間の輸送ルートは「鉱石の道」と名付けられ、産業遺産をめぐる観光ルートとして整備されています。現在も残る「神子畑鋳鉄橋(日本最古の鋳鉄橋)」や「羽渕鋳鉄橋」は輸送路の整備のため建設されたもの。この山深い場所に近代的な鋳鉄製の橋が建設されたことは、明治政府の力の入れようを物語っています。 沿線ではその他にも、一円電車やムーセ旧居(外国人宿舎)など、往時を偲ぶ貴重な貴重な産業遺産群を見学するこができます。 |
桑田家住宅【くわたけじゅうたく】
|
桑田家住宅 ・朝来市生野町口銀谷 ・桑田家住宅主屋 ・桑田家住宅門及び塀 ・桑田家住宅土蔵 国登録有形文化財(建造物) |
●生野では珍しい「幕板」を持つ地役人住宅 国の登録有形文化財・桑田家住宅は江戸時代後期(1751-1829ごろ)に建てられた、地役人邸宅の様式をもつ伝統的な木造平屋建ての建物です。 玄関の前に広場が設けられ、通りに面した駒寄の前庭と小路沿いの立塀、玄関の大戸とくぐり戸、障子の玄関引き戸などが特徴的。生野では大変珍しい「幕板(雨よけや意匠のために、屋根の下にスカート状に取り付けられた板)」を備えています。 脇門を持つ漆喰の土塀に囲まれ周囲に下屋庇を配したこの住宅は、鯉の店通りにひときわ落ち着いた雰囲気を漂わせています。 |
相応峰寺【そうおおみねじ】
|
|
相応峰寺 新温泉町(旧浜坂町)清富 ・木像十一面観音菩薩立像 国指定彫刻 ・絹本著色 両界曼茶羅図2幅 絵画 県指定文化財 ・圓通殿 県指定文化財 |
●平安時代の写実的で精密な十一面観音立像を安置 浜坂湾に突き出た岬の山頂、相応峰寺は古く天平のころ(729~748)に開かれた天台宗の寺院です。観音堂には平安時代前期の国指定重要文化財にも指定されている十一面観音立像が安置されています。 2mを越す大像、両手両足のほとんどを一木で刻み出しています。人間的で量感があり写実的、着衣のひだや裳裾(もすそ)など鋭く精密に刻み込まれ、全体の均整がとれて、しかも力強さがみなぎる作品です。唐から都(中央仏)に入ってきた但馬ではめずらしい檀像派の作品と考えられています。 |
正楽寺【しょうらくじ】
|
正楽寺 ・美方郡新温泉町前 ・鰐口 県指定文化財(工芸品) |
●室町時代から伝わる仏具が納められた寺 開創した年代は不明ですが、江戸時代の1837年に隣家の火災で焼け、再建されたとの記録が残っています。 寺に保管されている「鰐口」(仏堂の正面軒先につり下げられる、金属製梵音具の一種)は銘帯の左右に「応永三十五年(1428年)戊申三月八日」と記されており、憧座には美しい蓮華が浮き彫りされています。室町時代の貴重な文化財でもあり、この寺の歴史の古さをうかがい知ることができます。 |
善住寺【ぜんじゅうじ】
|
善住寺 ・新温泉町熊谷・木造阿弥陀如来坐像 (彫刻) 県指定文化財 |
●桧一本木造り坐像「阿弥陀如来像」を安置 |
玉田寺【ぎょくでんじ】
|
玉田寺 ・美方郡新温泉町七釜 ・石造宝篋印塔 県指定文化財(建造物) 宝篋印塔 |
●県内最古の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残る寺院 室町時代の応永年間(1394~1428年)、南溟禅師によって開創したと伝わる、臨済宗大本山天竜寺派の寺院です。当初は退耕庵と称していましたが、1648年に現在の退耕山玉田寺へと号を改めました。江戸時代後期の1777年に本堂を建立し、本尊は地蔵菩薩を拝み安産の守護仏として地元の信仰を集めています。 |
佐藤家住宅別邸【さとうけじゅうたくべってい】
|
佐藤家住宅別邸 ・朝来市生野町口銀谷 国登録有形文化財(建造物)
|
●耐火構造をもつ重厚な土蔵造りの家 佐藤家住宅別邸は、佐藤医院の東側にある江戸時代後期の建築物です。生野は江戸時代から多くの火災が発生していた地域であったことから、路地に共同の井戸を設置するなどの防火対策が講じられていたが、佐藤家住宅別邸は、重厚な土蔵造りで軒裏に塗り込みが施されており、住宅建築としては珍しく耐火構造になっています。 その外観は、屋根にある越屋根をはじめ漆喰で塗られた玄関などの主なデザイン要素は建物の右側にまとめられて配置されています。また、一階の壁は腰の高さまでの焼き杉板張りになっており、軒下と道の間は名栗棒で作られた大阪出格子が設けられています。飾り石を玄関に配置するなど、播州地方や生野では珍しいデザインが採用されており、佐藤家住宅は建築構造、外観ともに珍しく特徴的な建物になっています。また内観にも、凝ったデザインの装飾が施されており、格式の高い客間になっています。 |
大林寺【だいりんじ】
|
|
大林寺 ・鰐口 |
●但馬最古の鰐口が残る、由緒ある古刹 今は廃寺となり観音堂を残すのみとなっている大林寺ですが、伝承からみると由緒ある古刹です。御本尊は千手観音で、かなり古い作と思われる不動明王も祀られています。 和銅3年(710)、藤原鎌足の次男である不比等が浄財を寄進し創建されたと伝えられています。創建当時は七堂伽藍僧房十二院もあり、寺領も2400石あったといいます。寺跡周辺の地名に、藤房・尾房・藤覚房・惣治房・桜本房・大房・松尾房等々と坊跡をかたるものが残っているのは、当時の名残りです。 さらに、 武蔵坊弁慶が大林寺の鐘を摂津摩耶山(現神戸)に運んだという伝説が残っており、的場という地名が残っていることとあわせて、一時は僧兵も在住していたと考えられています。 また、松尾坊跡から出土した鰐口は嘉慶2年(1388)につくられたもので、在名鰐口としては但馬最古のものであることからも、かつての隆盛が想像されます。 この鰐口は青銅製で、直径45cm、厚さ15cm、重さ19kg。撞座に優美な蓮華を表し、銘帯の上部に「但馬国」、右方に「大林寺 願主五郎左衛門尉幸信」(当地の豪族の名)、左方に「重慶2年戊辰正月十八日 大工橘守正」の刻文があります。貴重な工芸品として県の文化財に指定されています。 天正5年(1577)、豊臣秀吉の但馬攻略にともない、2400石といわれた寺領は没収され、さらに慶長5年(1600)、堂塔僧房全焼の被害に遭い、大林寺は急速に衰微していきました。寛文12年(1672)と弘化4年(1847)に修復し、万延元年(1860)に再建されたのが、現在残っている堂だといわれています。しかし明治6年(1873)、ついに廃寺となりました。但馬西国十九番の札所として「ちかひにや げにみどりの子の宝をも ひとしくたまふ しづの女までに」という巡礼歌が 残っています。 |