玉水神社のムクノキ林【たまみじんじゃのむくのきりん】
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![]() ・県指定天然記念物 |
●巨木が生い茂る社そう林 菅原道真を祀る玉水神社は、かつて洪水により流された時、同地であ最も樹木の茂った現在地を選び、移築されたと伝わります。樹齢300年以上のムクノキ、イチョウ、ケヤキなどの社そう林が県の天然記念物に指定されています。 樹高30メートルを超える巨木が並び立ち、荘厳な印象を与えています。特に樹高約40メートル、幹周り約5.5メートルのムクノキは、但馬地域で稀にみる巨木です。 |
玉水神社のムクノキ林【たまみじんじゃのむくのきりん】
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![]() ・県指定天然記念物 |
●巨木が生い茂る社そう林 菅原道真を祀る玉水神社は、かつて洪水により流された時、同地であ最も樹木の茂った現在地を選び、移築されたと伝わります。樹齢300年以上のムクノキ、イチョウ、ケヤキなどの社そう林が県の天然記念物に指定されています。 樹高30メートルを超える巨木が並び立ち、荘厳な印象を与えています。特に樹高約40メートル、幹周り約5.5メートルのムクノキは、但馬地域で稀にみる巨木です。 |
甘棠亭【かんとうてい】
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![]() 甘棠亭 伊佐の黒松(九思の松) |
●出石藩主を迎えた休憩所 江戸時代の最新技術が使われた伊佐の新田開発は、出石藩に願い出て行われた町人による水田開発です。延宝4年(1676)3月3日、時の出石藩主・小出英安公が自ら視察に赴くことになりました。この時、藩主を迎える休憩所として建てられたのが甘棠亭です。旧小出医院と小出家本宅の間にあります。一重入母屋造で茅葺、内部には上段の間と下段に分けられ、藩主を迎える格式を持ちます。 地誌「但馬考」を編集した出石藩の儒官・桜井舟山は当家に生まれ、その師である伊藤蘭嵎が「甘棠亭」と名付けました。 文化15年(1818)にも藩主・仙石政美公を始めとする147人を迎え、さらに文政7年(1827)にも政美公は甘棠亭に訪れました。藩主御座所の姿を今に伝える貴重な遺構として、兵庫県の重要文化財に指定されています。 甘棠亭が建てられた際、庭の一角に「九思の松」という黒松が植えられ、長らくシンボルとして県の文化財にも指定されていましたが、昭和52年に滅失。現在は石碑が建立されています。 |
米里薬師堂【めいりやくしどう】
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![]() 米里薬師堂 ・養父市八鹿町米里 |
●彫刻付きの蟇股で飾られた薬師堂 17世紀後半の建築とされており、市内最古の薬師堂で、薬師如来坐像等を祀っています。明治初期の廃仏棄釈で、地域住民が現在地に移築し、保護してきました。薬師堂は一辺が5.9mの正方形で木造平屋建ての瓦葺。土間に床板を張り、畳敷にする改修が行われていますが、壁面の一部には当初の窓や腰板が残っています。禅宗様建築で、建物の柱は先端を丸く削った粽(ちまき)という方法が採用されています。 薬師堂外面にある蟇股(かえるまた)の彫刻には天女、竹に虎、蓮、梅に鶯、象、松、菊水の彫刻があり、江戸時代前期の彫刻として貴重なものとされています。 平成23年8月16日に兵庫県登録有形文化財に登録されました。 |
二ノ宮神社【にのみやじんじゃ】
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![]() 二ノ宮神社 ・養父市大屋町大杉 |
●ざんざこ踊り、豪華な彫刻が施された神社 毎年8月16日に奉納される「ざんざこ踊り」で有名な二ノ宮神社。本殿は文政11年(1828)に建てられました。屋根の正面に千鳥破風(ちどりはふ)と唐破風(からはふ)を付けており、屋根は入母屋造りとなっています。向拝にはガラスの玉眼が入った龍や白波の上を跳ねる兎、獅子の顔を彫った獅噛神など、豪華な彫刻が施されています。また縁側には、擬宝珠高欄(ぎほうじゅこうらん)といって青銅製の宝珠をのせた欄干が作られています。 脇障子の後ろ側には「丹州柏原町住人、彫物師、中井権次橘正貞」のほか「中井清次郎正用、久須真助正笑」と朱書きで彫られています。中井氏は江戸時代後期に北近畿で多くの社寺に彫刻を残した彫刻家で、二ノ宮神社は第六代と第九代の二人の中井権次が彫刻を残した貴重なものとされています。 |
斎神社【いつきじんじゃ】
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![]() 楯縫神社本殿 斎神社 ・養父市長野 |
●お走り祭りの伝説で知られる神社 斎神社は長野区の101戸がお護りする神社で、養父神社の神輿が斎神社までの往復40キロを練り歩く「お走り祭り」で有名です。本殿は屋根が前方に長く伸びる一間社流造でしたが、平成21年8月の台風9号による豪雨災害で倒壊しました。このため本殿は解体修理されています。昭和10年に村社から郷社に昇格したことを記念して、昭和12年に彫刻の立派な本殿に新築されたものです。 拝殿には、市指定文化財「斎神社のお走り絵馬」がありました。明治32年に地元の絵師村上墨渓が、斎神社に到着した江戸時代のお走り祭りの祭礼行列を描いた奉納絵馬です。 摂社の楯縫神社は元々、斎神社の本殿であったものです。宝暦10年(1760)建立で、奇跡的に台風9号の土砂災害からまぬがれました。一間社流造で、地元長野村の大工など4名で建築しています。兵庫県の有形文化財に登録されています。 |
2012/12/26 観光名所
但馬検定【たじまけんてい】
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●知ってるようで知らなかった但馬、再発見 兵庫県の面積の4分の1を占める広大な但馬は、氷ノ山、円山川、山陰海岸など自然環境豊かな地域です。コウノトリの野生復帰の取り組みも進められています。また、多くの文化財や歴史遺産に加え、温泉、食べ物などの魅力的な観光資源にも恵まれています。年間1,000万人の観光客が訪れている但馬を、改めて見つめてみると様々な発見があります。 但馬検定は、このような但馬の自然・歴史・文化・観光・産業などに関して、但馬通・但馬ファンを増やし、但馬を語り発信できる人材を育成することを目的として実施されます。 第1回目の試験は2007年3月に実施。但馬検定テキストブックは、但馬内の市庁舎、一部書店などで販売しています。但馬通を目指して、あなたもチャレンジしてみませんか。検定の合格者には、認定書および特製の認定バッジが贈呈されます。 ■(公益財団法人)但馬ふるさとづくり協会 |
2012/12/26 観光名所
但馬七福弁天めぐり【たじましちふくべんてんめぐり】
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●七福弁天めぐる心の旅 但馬各所を巡る「但馬七福弁天めぐり」。弁天さまは、七福神のうちでただ一人の女性の神で、物を生み育てる水の神です。 兵庫県の淡路島をはじめ、竹生島・江ノ島・宮島などの弁天さまが、いずれも島や湖の中州に祀られていることからもその理由がうかがえます。 水の流れる音は音楽に結びつくことから、芸能の神様としても信仰されています。 また、商売繁盛・進学就職の神さまとしても有名。厄災を取り除き、富・財宝と智恵を授ける福の神として、古来より人々の信仰を集めてきました。 但馬の日本海から内陸部へ向かう七福の寺での住職との語らいは、心が洗われる巡礼の旅。近年、ご利益を求めて、心の旅を楽しむ人々が増えています。 ■但馬七福弁天めぐり |
関神社【せきじんじゃ】
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![]() 関神社 ・養父市関宮 |
●柏原藩お抱え彫刻師「中井正貞」の彫刻が残る 本殿は弘化4年(1847)、拝殿は天保14年(1843)に建立されました。江戸時代頃は祇園牛頭天王(ごずてんのう)関宮社と呼ばれており、疫病や災厄を鎮める「祇園信仰」と、米の豊作を祈る「農業信仰」の二つの性格がありました。関神社の神様が疫病を防いだという伝説は祇園信仰によるもので、現在でも関神社の夏祭りは「祇園祭」と呼ばれています。 また、丹波や但馬で活躍した中井正貞の彫刻が良好な状態で残っており、本殿の裏側には「彫物師 丹州柏原町住人 中井権次橘正貞」の署名を見ることができます。 平成23年8月16日に兵庫県登録有形文化財に登録されました。 |
2012/02/24 観光名所
スキー場【すきーじょう】
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●関西のスキー・ボードのメッカ ■神鍋高原スキー場【豊岡市日高町】 アップかんなべ・万場・奥神鍋とパノラマの違うゲレンデを開設。スキーでもボードでも、初心者から上級者まで、自分のすべりを思いっきり楽しめます。アップかんなべみやの森コースと奥神鍋ゲレンデには人工造雪機が設置され、11月下旬からスキー・ボードができます。また、アップかんなべと奥神鍋ではナイタースキーも楽しめます。 ・標 高/400m~950m ・リフト数/クワッド1基 トリプル2基 ペア14基 シングル11基 ・コース数/28コース ・最大斜度/40度 ・最長滑走距離/3.1km ・スノーボード/全面滑走可 ・万 場 0796-45-0191 ・アップかんなべ(岩倉)0796-45-1545 (みやの森)0796-45-0055 ・奥神鍋 0796-45-0510 ■ハチ高原スキー場【養父市関宮】 ■ハイパーボウル東鉢【養父市関宮】 ■氷ノ山国際スキー場【養父市関宮】 ■若杉高原おおやスキー場【養父市大屋町】 ■ハチ北高原スキー場【香美町村岡区】 ■スカイバレイスキー場【香美町村岡区】 ■おじろスキー場【香美町小代区】 ■ミカタスノーパークスキー場【香美町小代区】 ■但馬牧場公園スキー場【新温泉町(旧温泉町)】 |
農村歌舞伎【のうそんかぶき】
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■葛畑コミュニティセンター |
●農村歌舞伎のおこり 葛畑(かずらはた)農村歌舞伎舞台は江戸末期、安政5年(1858)頃、荒御霊神社境内に建立されました。藤田甚左衛門らが葛畑座を結成し、農閑期に歌舞伎を上演したのが始まりといわれています。娯楽が少なかった農村では唯一、最大の楽しみで、田植えや蚕(かいこ)飼いが終わる閑期や雨乞いの祈願に、また秋の実りを祝う収穫祭や村祭りに、村人達は自らの手による地狂言を演じたり、あるいは旅役者の一座を招いて村芝居をおこなってきました。 元禄年間、歌舞伎芝居は農村の娯楽として盛んでした。七美郡誌に「百姓の鎧着て出る祭かな」という句も残っています。 ●農村歌舞伎舞台の構造 |