上垣守国【うえがきもりくに】
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●先進地で養蚕を学ぶ ●養蚕研究の集大成 |
2024/01/27 先人たち
上垣守国【うえがきもりくに】
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●先進地で養蚕を学ぶ ●養蚕研究の集大成 |
2024/01/27 先人たち
淀井敏夫【よどいとしお】
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●日本近現代彫刻界に大きく貢献 ●晩期には野外彫刻に没頭 |
2015/03/06 先人たち
東井義雄【とういよしお】
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●生い立ち 東井義雄は豊岡市但東町佐々木の浄土宗本願寺派「東光寺」の長男として、明治45年(1912)4月に京都で生を受けました。父は義澄、母は初枝といい、義雄3歳の時、豊岡市但東町へ帰ってきました。母は義雄が小学一年生になった5月に病死。新しい母が来てもなつけませんでした。生活も楽ではなく、そのために山も田畑も手放して貧乏生活を余儀なくされました。 食事は毎日「チョボイチご飯」でした。小さな鍋でお供えのご飯を炊くのですが、その時に出るとぎ汁に大根をみじん切りにしたのをどっさり入れ、パラパラと米を加えて炊くと大根ばかりの間にご飯がチョボットあるご飯もどきができます。これが「チョボイチご飯」です。 5年生になった時、父が親類の借金の保証人になっていたので、家財道具を差し押さえられ、食器棚まで封印されてしまいました。進学したかったのですが、この経済状態のため断念し、通信教育で中学校の勉強をしながら小学校を卒業後、奨学金をもらいながら姫路師範学校に入学しました。 ●村を育てる教育を実践した情熱の教育者 昭和7年(1932)、師範学校を卒業し、豊岡小学校へ着任しました。その頃、昭和の大恐慌の余波が厳しく、日本中が不景気のどん底で、欠食児童が全国いたる所で問題になっていました。義雄は「雑草のごとくに」という文集を作って、どんな環境からでも、どういう状態になっても立ち上がれる子どもを育てようとしました。 そんな中、父義澄が亡くなりました。義雄28歳の時でした。 終戦後、価値観が一変し、教育制度が大きく変わりました。反省と暗中模索の中、昭和32年(1957)に東井義雄の「村を育てる学力」というタイトルで出版された実践記録は全国的に大きな反響を呼びました。 生活からかけ離れた学問などあり得ません。生活の中から課題を発見し、教師・地域と課題を共有し、問題を解決していく過程の中から育つ子どもの生きた学力が確立することを発見し、実践しました。そこから連帯が生まれ、共感が育ち、親を見捨てず、家を見捨てず、村をも見捨てない学力が育つのです。 終始、但馬から出ることはなく、教師として村の教育に一生を捧げました。平成3年(1991)4月18日、不慮の災難のために急逝され、時に79歳でした。 |
2011/11/21 先人たち
志村喬【しむらたかし】
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●大学在学中に演劇と出会う 黒澤明作品で有名な映画俳優・志村喬(本名島崎捷爾)は、明治38年(1905)に朝来市生野町で生まれました。銀山で有名な生野には、当時、鉱山開発会社の社宅が建ち並び、志村もそこで暮らしていたといいます。 生野小学校卒業後、大正6年(1917)、神戸第一中学校に入学しますが、病気のため宮崎県立延岡中学校へ転校。その後、関西大学予科に入学します。 2年生の時には家計を助けるため、働きながら学校へ通いました。俳優になるきっかけとなったのは、在学中にアマチュア劇団を立ち上げたことから。次第に熱中していき、大学を中退して、25歳の時に舞台俳優として本格的に活動を開始します。 ●黒澤作品での名演技 |
2011/06/22 先人たち
沢庵和尚【たくあんおしょう】
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●生い立ち たくあん漬けの考案者とも重用者とも言われる沢庵和尚は、天正元年(1573)豊岡市出石町に生まれました。父は出石城主・山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣・秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)です。 沢庵和尚は10歳で出家、14歳にして出石藩主菩提寺・宗鏡寺(すきょうじ)に入りました。彼が20歳の時、藩主・前野長泰の招きで京都の大徳寺から薫甫宗忠(とうほそうちゅう)が住職に任じました。宗忠は大徳寺住持の春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子で、この時以来、沢庵と大徳寺との関係が生まれました。 22歳の時、宗忠が大徳寺の住持となるのに従って上京し、大徳三弦院で春屋宗園に仕えました。沢庵は29歳の時、勅令によって大徳寺の住持に出世しましたが、立身出世を求めない彼は3日間で野僧に徹すべしとして退山してしまいました。 31歳の時、堺の南宗寺陽春院の一凍紹滴(いっとうじょうてき)に師事し、沢庵の称号を受けました。やがて住持を兼ねるようになります。 沢庵は研ぎ澄まされた感覚から漢文に通じ、但馬にも多くの歌を残しています。 めぐりきて 入佐の山の月も日も はるやむかしに 我身ひとつは ●紫衣(しえ)事件 寛永4年(1627)、紫衣事件が起こりました。大徳寺・妙心寺の住持は天皇の詔(みことのり)で決まっていましたが、今後は幕府が許可を与え天皇の権威をそぎ、命令に服さない者の紫衣の着用を禁止したのです。 沢庵は投淵軒から怒って上京し、大徳寺反対派をまとめて反対運動の先頭に立ち、幕府に対する抗弁書(こうべんしょ)は沢庵自らが書いたといいます。幕府は中心人物である沢庵を羽州(山形県)上ノ山に流罪にしました。 3年後、将軍秀忠の死による大赦(たいしゃ)があり、許され江戸に帰ってきました。三代将軍家光は柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)の言葉を聞き入れ、品川に4万坪の土地を与え、万松山東海寺を建ててその開山に沢庵を迎えました。 これを受け入れた時から、野僧に徹すべしの生き方を捨てました。そして、自分を権力者にこびる「つなぎ猿」と自分を自分で軽蔑しあざ笑う晩年でした。 ●沢庵の遺言 正保2年(1645)12月、沢庵は万松山東海寺で没しました。時に73歳でした。死ぬ前に残す言葉を弟子が求めると自分で筆を取り、「夢」の一字を書いて筆を投げ捨てるようにして息を引き取ったといいます。 「自分の葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」 と遺言を残しました。 |
2011/06/22 先人たち
近藤朔風【こんどうさくふう】
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●「菩提樹」「野ばら」「ローレライ」などを訳詞 近藤朔風は、気象測候所の創始者として有名な桜井勉(豊岡市出石町出身)の五男として生まれました。12才の時に近藤家に養子に入り、東京外国語学校、東京美術学校、東京音楽学校で学び、芸術・音楽の見識を高めます。卒業後、『名曲新集』『西欧名曲集』などを発刊し、訳詞家としてその才能を発揮しました。「菩提樹」「野ばら」「ローレライ」「シューベルトの子守歌」などの訳詞は、名訳として絶賛されています。また、日本初のオペラの公演に携わり、日本の近代音楽の発展に貢献しました。 『野ばら』 二、手折りて行かん 野中のばら 三、童は折りぬ 野中のばら (ゲーテ作詞・ウェルナー作曲・近藤朔風訳詞)
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2011/06/22 先人たち
安積理一郎【あづみりいちろう】
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●但馬聖人・池田草庵の愛弟子 文政9年(1826)、朝来市和田山町に生まれた安積理一郎は、幕末の儒学者・池田草庵の門弟の1人です。 草庵が養父市八鹿町宿南に開いた私塾「青谿書院」で、師の教えを受けました。幕末期、政局が混乱する京都で朝廷と幕府の動向をいち早く草庵に伝えたと言われています。 草庵の教えは自分が模範を示して門弟を教育する率先垂範の教育。理一郎も草庵の背中を見て、教えを自分のものにしていきました。 塾内の門弟はトイレで用を足すときにも本を読んでいたという伝説が残っています。青谿書院からは理一郎を始め、政財界で活躍した北垣国道、原六郎など、明治の時代を担った優秀な人材を輩出しています。 晩年は、故郷・和田山で私塾を開き、地元の若者へ草庵から学んだ知識を伝授。のち後輩の育成に情熱を注ぎ、明治5年(1872)、46歳でこの世を去りました。 |
2011/06/22 先人たち
心諒尼【しんりょうに】
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●祖父を弔う孝行者 朝来市和田山町東河地区で語り継がれている、心諒尼。その心温まる物語は江戸時代にさかのぼります。 元文3年(1738)、生野代官支配下で百姓一揆が起こり、死罪6人を含む23人の犠牲者が出ました。その中に、首謀者のひとりで当時35歳であった野村の小山弥兵衛は、ほかの8人と一緒に今の長崎県壱岐島へ流罪となります。 弥兵衛は心諒尼の実の祖父。時は移り、祖父の健在を知った心諒尼は、祖父に会いたい一心で桐葉寺(朝来市山東町)に入り、金鐘尼として修行すること十数年。師の許しを得て、祖父を訪ねて壱岐島に渡り、祖父の介護をしました。 そして、3年後に、80歳で祖父が亡くなると 遺骨を携えて帰郷。まもなく、円明寺(朝来市和田山町宮)の門に入り、法名を心諒と改め、水月庵を再興しました。 その後は、祖父の菩提を弔いつつ、4人の弟子を育成し、村の女性たちに生け花や茶道などを教え、平和な日々を過ごしました。天保14年(1843)、至誠一貫の生涯を79歳にして閉じたと伝えられています。 現在でも東河地区には、心諒尼の墓標、祖父の小山弥兵衛の墓が残されています。また、法宝寺(朝来市和田山町)にあるクスノキは心諒尼ゆかりの木。弥兵衛が自分もこのとおり健在であることを国の者に知らせたいと願い、心諒尼にクスの苗を3本持たせました。法宝寺のクスノキはその内の1本だとされています。 |
2011/06/22 先人たち
浅田貞次郎【あさだていじろう】
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●生野銀山の地役人へ養子に入る 旧生野町の発展に多大な貢献をした浅田貞次郎は、安政2年(1855)に福本藩士(兵庫県神崎郡神崎町)の四男として生を受けました。17歳の時に、生野銀山の地役人・浅田家の養子となります。地役人とは、代々、生野代官所に仕えた役人のことです。以後、浅田貞次郎はこの銀山のために東奔西走します。 ●御下賜金が下賜されるよう奔走 |
2011/06/22 先人たち
小谷澄之【こたにすみゆき】
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●講道館柔道を世界に広める 明治36年(1903)に朝来市に生まれた、柔道家・小谷澄之。講道館柔道を世界に広めた功績が讃えられ、昭和49年(1974)11月に勲四等瑞宝章を受けています。小谷澄之は文字通り柔道に捧げた一生でした。 講道館柔道とは、嘉納治五郎師範によって創設され、現在の柔道の原形となったものです。それ以前にあった柔術各流派の優れたところを集め、危険なところを除き、工夫と研究を加えて、全く新しい講道館柔道を創始しました。 小谷はこの講道館柔道を世界に広めるべく、昭和28年(1953)には柔道使節団員として全米15州の空軍を指導。 招請に応じて柔道指導をくり返し、海外出張は20数回、訪問した国々は30を越えました。しかも、その際の滞在は1ケ月以上の長期間に及び、海外に柔道が根付く礎を築きました。 また、若き頃は柔道での力を請われて、第10回ロサンゼルスオリンピックにレスリング代表として出場。フェザー級で見事4位に入賞する経歴も残しています。 その後は全日本柔道連盟理事(副会長)、日本体育協会参与、東海大学教授、講道館指導部長並びに評議員などを歴任。 晩年は現役で唯一の最高位・講道館柔道10段として、同輩から畏敬の念をもって敬われました。平成2年(1990)、87歳の天寿を全うしています。 |