2011/11/21  

和池の大カツラ【わちのおおかつら】

 

和池の大カツラ【わちのおおかつら】

和池の大カツラ
・県指定天然記念物
・香美町村岡区和池
 

●関連情報
但馬高原植物園

●渓流をまたぐ圧巻の姿、根元から湧き出る水は1日5000t
県の天然記念物に指定されている「和池(わち)の大カツラ」は渓流にまたがって根を張った巨木で、樹高約38m、幹まわり約16m、樹齢は1000年を越えるといわれています。主幹は支幹の太さ3m内外の樹叢10数本に囲まれ、樹冠幅は東西に各10m、南側16m、北側10m。「但馬高原植物園─瀞川平─」の園内、うっそうとした原生林の森に立つ老齢の巨木は神秘的な雰囲気を漂わせています。
「カツラの木は一里四方の水を集める」といわれるように、標高約700mの高地にあって、その根元からは1日に約5000tもの清水がこんこんと湧き出ています。水温は年間を通して約10度と非常に冷たく、極めて純度の高い軟水で、色度、濁度、臭気、味など、どれをとっても優れた名水として知られています。コーヒーやお茶、料理などに適し、肌にもやさしい水です。また、古くから下流の田畑をうるおし、人々の暮らしを支えてきた命の水でもあります。この湧き水は高坂川の源流で、100mほど下流にはバイカモの群生地が、200m下流には和池の大池を中心とした湿地帯が広がっており、一帯は「但馬高原植物園─瀞川平─」として整備されています。

2011/11/21  

イヌワシ

 

イヌワシ

イヌワシ・国指定天然記念物
(場所は不特定)

大空を飛翔する姿はまさに風の王者
 

●関連情報
日本イヌワシ研究会

●風にのり、大空を悠々と飛翔する風の王者
両翼を広げると、畳よりひとまわりも大きいイヌワシは、山岳地帯の険しい断崖や高木の上に小枝を積んで、大きな巣をつくります。
スズメやトビのように里で見かける鳥ではなく、但馬では、氷ノ山山系に棲んでいます。主食はノウサギ、ヤマドリなど。空高く飛び、獲物を見つけると翼をすぼめて猛烈な勢いで下降し、すばやく捕らえます。
風格のあるその姿と大きさ、鳥の中でも最強の部類に属し、食物連鎖の頂点に位置しており、豊かな自然条件のもとでしか生きていけません。●絶滅の危機にひんする孤独な王者
イヌワシは、但馬以外にも全国に生息していますが、絶滅の危機にひんしています。兵庫県下のイヌワシも例外ではなく、スギ、ヒノキなど針葉樹の拡大で、主食のノウサギなどが減り、慢性的なエサ不足で体力が弱ったせいか、毎年連続でヒナを育てることができなくなってしまいました。
また、イヌワシは決まった狩り場をもっていますが、人間や車を極端に嫌います。最近、林道が増えて、そこに人間や車が入ってきて、エサの捕獲に影響が生じています。第二のコウノトリにしないためにも、保護活動や環境の保全に地道に取り組み続け、大空に悠々とイヌワシが舞う但馬を誇りにしたいと思います。

但馬の海岸 名勝・奇勝 【たじまのかいがん めいしょう・きしょう】

 

但馬の海岸 名勝・奇勝
【たじまのかいがん めいしょう・きしょう】

鎧の袖(香住海岸)
・県指定天然記念物

釣り鐘洞門(香住海岸)
・県指定天然記念物
●関連情報
山陰海岸ジオパーク
但馬海岸は、火山活動や地殻変動によってできた岩石海岸で、但馬山地の山麓部が直接日本海に接しています。そのため、平野は少なく、山すそが日本海の荒波に削られて、いたるところに険しい断崖絶壁や洞門などをつくり出しています。岩には多くの断層や節理による岩石の割れ目ができ、それに沿って浸食された、出入りの激しいリアス式海岸です。
丹後半島の網野海岸から但馬海岸全域、そして、鳥取砂丘までの延長約75kmにおよぶ海岸線は、山陰海岸国立公園に指定されています。
複雑な海岸線に連なるこれらの奇観は、自然のつくりあげた芸術として見ごたえがあり、新温泉町(旧浜坂町)・岸田川河口から香美町香住区・井笹崎までの海岸一帯は、国の名勝天然記念物「但馬御火浦」(たじまみほのうら)に指定されています。

■海食崖
香住海岸の「鎧の袖」は、幅200m、高さ65m、角度70度でそそり立つ断崖。粗面岩質流紋岩の溶岩の割れ目の模様が、武者の鎧の袖に似ているところからこの名がつきました。美しく迫力ある大海食崖で、天然記念物に指定され、日本百景にも選ばれています。ほかに、「但馬赤壁」や松ヶ鼻の「百層崖」など、さまざまな海食崖が見られます。
■洞門
また、洞門も非常に多く、天然記念物に指定されている「釣り鐘洞門」(香美町香住区)は、洞内の中心部の高さ32m、直径30m、広さ約190畳、水深10mで、昼なお暗く、イワツバメやコウモリが生息しています。遊覧船で中まで入れる数少ない洞門のひとつで、文字どおり釣り鐘をふせたような形をしており、地底に入るようなスリル感が観光客に喜ばれています。
■岩棚
香美町香住区今子浦の「千畳敷」や、豊岡市竹野町猫崎半島には、波食棚といわれる、広い岩棚があります。
■甌穴(おうけつ)
新温泉町(旧浜坂町)釜屋の池ノ島には、ポットホールといわれる円形の甌穴が3カ所できており、最大のものは直径5m、深さ5mもあります。数千年の歳月をかけて、波が岩棚の石を回転させて掘り下げていったものです。
■砂浜
砂浜の海岸は円山川、竹野川、矢田川、岸田川の河口部にわずかに広がり、夏は近畿圏の海水浴場としてにぎわっています。
■漁港
東から、津居山港(豊岡市)、竹野港(豊岡市竹野町)、柴山港(香美町香住区)、香住港(香美町香住区)、浜坂港(新温泉町・旧浜坂町)の、5つの良港をかかえています。

竹野駅舎と跨線橋【たけのえきしゃとこせんきょう】

 

竹野駅舎と跨線橋【たけのえきしゃとこせんきょう】
竹野駅舎
竹野駅舎

竹野駅の跨線橋
竹野駅の跨線橋

竹野駅 跨線橋銘文
柱脚に残る
「鐡道神戸 明四十四」
の銘文

竹野駅舎と跨線橋
・豊岡市竹野町竹野

・近代化遺産

●関連情報
豊岡市商工会竹野支所

●明治に建設された木造瓦葺き駅舎
播但線の開通に伴って1911年(明治44)に建設された駅舎で、その当時は標準的と思われる日本調の木造瓦葺きの駅舎が現在も残っています。
1968年(昭和43)に設立されたブレス構造の跨線橋(線路の上を横切って架けた橋)は、1968年(昭和43)に移築されたものと考えられ、柱には「鐡道神戸 明(治)四十四」の銘文が残っています。

明治時代の鋳物を使った柱脚の跨線橋は、八鹿駅と同様極めて珍しく、また、ささら桁(踏み板の両側あるいは真ん中を支える構造の階段)をトラス(三角形の構成を基本単位とし、部材を接合した骨組み構造)で組んでいるのは、但馬ではこの竹野駅だけです。

2011/11/21  

西光寺【さいこうじ】

 

西光寺【さいこうじ】
西光寺

西光寺

・新温泉町浜坂
・兵庫県景観条例
景観形成重要建造物等

石灯籠
石灯籠

西光寺のレンガ塀
西光寺のレンガ塀

●寛政年間に寄進された石灯籠

西光寺は、浄土真宗に属する寺院で、本尊に阿弥陀如来像が安置されています。創立時期は不明ですが、近江国犬上郡夏河の里出身の小林和泉守親正が、天正年間に芦屋城にきて、その後落城により浜坂に住んだといわれています。
初代仁右衛門正氏は「和泉屋」を名乗り、熱心な本願寺門徒で、道場「寿徳庵」を建立しました。その後、1656年(明暦2)、本願寺から寺号を受領し、寺号を「西光寺」と改めました。
西光寺参道には、1789年(寛政元)~1801年(寛政13)頃に和泉屋小林助右衛門(親正の子孫)によって建てられた一対の石燈籠があり、町指定建造物に指定されています。
西光寺のレンガ塀は、1911年(明治44)に完成した山陰線桃観トンネルの朝鮮人労働者や関係者から贈られたものです。当時、西光寺では桃観トンネル完成後、工事で犠牲になった人のために追弔会をし、民族の区別なく、亡くなった人の弔いをしたそうです。

2011/11/21  

大乗寺【だいじょうじ】

 

大乗寺【だいじょうじ】


大乗寺
・香美町香住区森

・十一面観世音菩薩
・障壁画165面
以上国指定彫刻・絵画
・大乗寺客殿など2棟
県指定重要文化財
・午前9時~午後4時

・拝観料大人800円
・TEL0796-36-0602

●関連情報
大乗寺

●別名応挙寺、165の障壁画が立体曼陀羅をつくりだす

高野山真言宗 亀居山 大乗寺は聖武天皇の御代天平17年(745)、行基菩薩自ら聖観音菩薩立像を彫刻し祀ったのが始まりとされています。一時衰退しましたが、安永年間、密蔵法印が伽藍の再建につくし、弟子の密英上人が後を継ぎ伽藍を完成させました。
その際、客殿に円山応挙とその一門の手による障壁画が描かれ、そのため別名応挙寺とも呼ばれ、多くの人々が訪れています。
円山応挙(1733~1795)は、はじめ狩野派の石田幽汀に学び、その後、自然の写生に専念したり、西欧の遠近法などの手法を学び、彼独特の新しい画風としての写生画を完成しました。その写生画はあらゆる階層の人々に支持され、画壇の第一人者となり、円山派の祖として仰がれた人物です。
その昔、円山応挙は生活が苦しく絵を売りながら、何とか暮らしを支え、絵を学んでいたころ、大乗寺の住職・密蔵上人と出会いました。上人はまだ無名であった応挙の画才を見抜き、即座に学費を援助しました。応挙にとって大乗寺の密蔵・密英住職は、忘れることのできない恩人だったのです。
天明7年、当時55才になっていた応挙は、古くなって改築の時期がきていた大乗寺伽藍の話を聞きつけました。以来8年間、5回に渡って大乗寺を訪れ、子や弟子の呉春・長沢芦雪らとともにご恩返しとして、多数のふすま絵や軸物を描いたと伝えられています。
大乗寺の中心に位置する仏間の十一面観世音菩薩(国重文)を守る立体曼陀羅が、客殿13室(県指定文化財)に障壁画として165面も描かれ、すべて国の重要文化財に指定されています。
※作品の一部はデジタル再製画を展示

出石焼【いずしやき】

 

出石焼【いずしやき】
作業

出石焼

出石焼
(豊岡市出石町)

・国の伝統工芸品

●関連情報
NPO法人但馬國出石観光協会

じばさんTAJIMA

●透きとおるような白磁、出石焼の変遷

出石焼の歴史は、江戸時代半ば、天明4年(1784)に、陶器を焼いたのがはじまりとされています。その後、優良な石磁の鉱脈が発見され、染め付け磁器を製作するようになりました。

天保年間に最盛期を迎え、明治初期に衰退しましたが、明治9年(1876)、桜井勉らが旧士族の失職を救済するため、有田の陶匠・柴田善平を招いて盈進社を設立し、同社からパリや東京の博覧会に出品して一躍出石白磁の名声を高めました。

明治32年(1899)から指導に当たった友田九渓は出石焼きの品質改良に業績を残し、セントルイス万国博覧会で金賞を獲得しました。昭和に入って出石に県立窯業試験場が設立され、出石焼の品質はますます向上しました。

さらに、戦後、出石焼の作品が日展の特選に選ばれるなど作家活動が盛んになり、昭和56年(1981)には、国の伝統工芸品に指定されました。

2011/11/21  

北前船【きたまえせん】

北前船【きたまえせん】
北前船
復元された北前船
(豊岡市竹野町)
竹野町「北前館」には、復元した天神丸をはじめ、船箪笥(ふなだんす)、磁石など、北前船に関する資料を展示しています。

北前館
・豊岡市竹野町竹野
・TEL.0796-47-2020
・木曜定休/9~17時

●但馬での北前船のおこりと歴史
江戸中期から明治末期にかけて、大阪から瀬戸内海を経て、日本海から北海道まで、西廻り航路で不定期に往復した商船を上方では「北前船」と呼んでいました。港に寄っては、米や塩、油、鉄などその土地の産物を買い集め次の港で売っていました。但馬海岸の港は、それらの船にとって嵐の時の避難、風のない時の風待ちなどのための大事な寄港地となりました。
そこで、但馬の人たちも北前船をしたて、北海道や下関・大坂まで広く廻漕する廻漕(かいそう)業が盛んにおこなわれるようになりました。その船数は、弘化2年(1845)の記録によると170艘あり、中でも竹野村(竹野町)が56艘と最も多かったと記されています。また、浜坂町の市原惣兵衛が興した縫い針「みすや針」は、こうした海運により販路を確立し、生産は日本一となりました。
船主の家などに残る船箪笥(ふなだんす)や船道具、竹野町の鷹野神社をはじめ各地に、航海の安全を祈願して奉納された船絵馬など、当時の廻船の構造などを知る貴重な資料が残されています。また、北前船は商いの他にも、各地の文化や風俗なども運び寄港地の人々との交流も深めました。
しかし、明治期になると交通・運輸が発達し、とりわけ鉄道が普及したことから、和船による廻漕業は哀えていきました。

2011/11/21  

但馬牛【たじまうし】

 

但馬牛【たじまうし】
放牧
庭先

但馬牛を飼う但馬の人々は、牛を家族の一員として一つ屋根の下で共に寝起きして、雪深いきびしい風土に生き、温和で姿美しい但馬牛を大切に育ててきました。

■但馬牛博物館
・新温泉町丹土1033

・TEL.0796-92-1005

・午前9時~午後5時
・木曜定休
(休日と重なった

場合は次の平日)

・入館料/無料

●関連情報
新温泉町役場
但馬牛博物館

●但馬牛とは
農耕用の機械が導入されるまで、農家は農業の働き手のひとつとして、各家庭に1頭は牛を飼育していました。家族の住む母家に同居させ、我が子同様に愛情を注ぎ、大事に育てたと言います。起伏に富んだガタガタ道は、牛の足腰を丈夫にし、但馬特有の夏の湿気と冬の寒気がよい毛並みをつくりました。子牛は競り市で売られ、農家の大事な収入源でした。優良牛の育成を目指して、よい特性を備えている牛を選び、何世代もの近親繁殖を繰り返す間に、その優れた特質が固定され、血統(蔓牛)をつくってきました。現在も兵庫県外の優良牛との繁殖はせず、純血を守っています。

●但馬牛を創った男「前田周助」
現在の但馬牛の歴史を語る上で、なくてはならない人がいます。香美町小代区に生まれた前田周助(1797~1872)です。牛の取引と小代牛の宣伝のために、わざわざ大阪の市場まで牛を連れて出かけたという逸話が残る人物。彼の人生はまさに但馬牛とともに生きたと言えます。周助は「蔓(つる)牛」の開発に一生をかけました。「蔓」とは、他地域との交流を避けた「閉鎖育種」の方法で生み出された、発育・資質・繁殖性の優秀な牛の血統のことを言い、その系統牛を「蔓牛」と呼びます。但馬牛の優れた特質は、長年に渡り、他との交配をさけ、改良に改良を重ねて受け継がれた優良な血統から生み出されました。

「蔓牛」を創り出すことで、安定的に優秀な子牛が生産することができます。周助は系統牛になりそうな牛がいると聞けば、東へ西へと駆け回りました。そのためには私財を投げ打って、牛を買い求める毎日。そしてついに100年に一度の雌牛を手に入れました。飼料の選定から一切の手入れ、特に繁殖には多年の研究と経験の全てを注ぎました。こうして周助の生み出した牛は「周助蔓」と言われ、現在の但馬牛の代表的な蔓のひとつ「あつた蔓」の素となりました。

●伝説の但馬牛「田尻号」
昭和14年に香美町小代区に生まれた伝説の雄牛「田尻号」。全国和牛登録協会の資料によると、全国の黒毛和種繁殖雌牛の99.9%が、「田尻号」の血統に繋がることが分かりました。名だたる高級黒毛和牛の母牛の大部分が、この「田尻号」をルーツに持っています。明治に入り西洋文化の影響で肉食が盛んになると、日本の小型の牛を改良するため、体格のよい外国の牛と交配させることが進められました。但馬でも例外ではなく、外国牛との交配が行われましたが、肉質の低下を招き、優良な血統牛を失いかねない危機におちいります。

第二次世界大戦後、但馬牛の純牛種を守ろうと、新しい血統作りが始まりました。ここで注目されたのが「周助蔓」。険しい山々と深い谷あいにあり、隣村との行き来が困難な小代には、外国牛との交配を免れた但馬牛が奇跡的に生き残っていました。中でも田尻松蔵が丹精込めて育て上げた「田尻号」は、生まれて半年で美方郡の種オス牛候補として認められた名牛。特に遺伝力の強さは他の雄牛の中でも群を抜いていたと言います。

但馬の山間部では家の玄関の横に牛小屋があり、昔から家族同様に牛が育てられてきました。松蔵も「田尻号」を我が子のように可愛がり、毎日運動と手入れを欠かさなかったそうです。そのおかげでほとんど病気をすることもなく、昭和29年まで種牛として活躍しました。昭和30年には長年の功績を讃えられ、黄綬褒賞を受賞しています。


●但馬牛の特徴

1.資質が抜群によい
毛味、色味、骨味が良く皮は薄く、弾力ゆとりがあり、
品位に富み体のしまりが良い。
2.遺伝力が強い
全国の和牛改良に広く活用されている。
3.肉質、肉の歩留りがよい
肉の味がよく、骨が細く皮下脂肪が少ない。
4.長命連産で粗飼料の利用性が良い
長命連産。山野草を好み、古来より
「但馬牛は、山でつくり、草で飼う」といわれています。

2011/11/21  

志村喬【しむらたかし】

 

志村喬【しむらたかし】
志村喬
(1905-1982)
明治38年に朝来市生野町に生まれる。400本近くの映画作品に出演する。日本映画史に残る名優。

●関連情報
志村喬記念館公式HP

●大学在学中に演劇と出会う
黒澤明作品で有名な映画俳優・志村喬(本名島崎捷爾)は、明治38年(1905)に朝来市生野町で生まれました。銀山で有名な生野には、当時、鉱山開発会社の社宅が建ち並び、志村もそこで暮らしていたといいます。
生野小学校卒業後、大正6年(1917)、神戸第一中学校に入学しますが、病気のため宮崎県立延岡中学校へ転校。その後、関西大学予科に入学します。
2年生の時には家計を助けるため、働きながら学校へ通いました。俳優になるきっかけとなったのは、在学中にアマチュア劇団を立ち上げたことから。次第に熱中していき、大学を中退して、25歳の時に舞台俳優として本格的に活動を開始します。

●黒澤作品での名演技
劇団を転々としているうちに、トーキー映画に魅せられ、30歳で映画俳優へ転身。伊丹万作監督の作品で映画デビューします。
昭和18年(1943)には運命の人、黒澤明監督と出会い、東宝へ移籍。このことが彼の俳優人生の大きな転機となりました。
特に主人公を演じた『生きる』でのいぶし銀の演技は、国内外から高い評価を得ています。ラストで主人公の志村がブランコに乗りながら公園で歌う姿は、涙を誘う感動の名シーンとして有名です。その他にも『七人の侍』『隠し砦の三悪人』など、黒澤作品には欠かせない名バイプレイヤーとして活躍しました。
生涯を通じて出演した作品は400本近く。昭和24年(1949)、『野良犬』で男優演技賞を受け、まさに日本映画史上に残る名優といえます。昭和57年(1982)2月11日に、76歳の生涯を閉じました。