但馬の養蚕【たじまのようざん】

 

但馬の養蚕【たじまのようざん】
繭
養蚕秘録
養蚕秘録3巻

養蚕の起源や歴史、種類、育飼法、桑の栽培などをたくさんの絵図を使って集大成されたもので、誰にでもわかりやすく技術を解説しています。

■上垣守国養蚕記念館
・養父市大屋町蔵垣

・TEL.079-669-0120
(養父市大屋地域局)

・午前9時~午後5時
・年末年始休館

・入館料/無料

●関連情報
養父市役所

●養蚕の歴史
但馬は古くから養蚕が盛んでした。元禄10年(1697)に桑の名産地としての但馬をつづった「農業全書」も発行され、特に江戸中期には、新しい理論や技術が導入され、養蚕業は飛躍的に発展しました。

●養蚕の技術を高め、ひろめた人々
養父市大屋町蔵垣生まれの上垣守国(もりくに)は、蚕飼いの高い技術や新しい養種を但馬各地にひろめ、質のよい繭づくりの普及に尽くしました。この実践をもとに、享和3年(1803)に発行した「養蚕秘録」全3巻は、技術書としての評価が高く、フランス語やイタリア語にも翻訳され、世界的にも普及し、日本における技術輸出第1号といわれています。
また、同じ養父市大屋町出身の正垣半兵衛も新しい蚕種を但馬各地に普及させ、明治時代には但東町赤花の橋本龍一や、養父市大屋町古屋の小倉一郎が奥深い山里で機械製糸業を起こし、養蚕製糸業の近代化と発展に大きな業績を残しました。

●その後の養蚕

但馬地方はこうした先人たちの努力によって優良な繭の生産地となり、機械製糸が地場産業として栄えました。養蚕製糸業は大正・昭和の経済恐慌の時には、但馬の農家を助けた大切な副業であり、重要な輸出産業でした。しかし、昭和20年代半ばになると、ナイロンなどの新素材・技術が開発され昔の面影は失われていきました。

但馬杜氏【たじまとうじ】

 

但馬杜氏【たじまとうじ】
升酒

長年の知識と技術
但馬杜氏が造り出す
甘露の雫。
麹づくり
麹づくり
香りや風味の成分となる麹をつくる作業。酒つくりの中で最も神経を使う重要な仕事とされています。

●関連情報
新温泉町役場

●但馬人気質が造りだす甘露の雫
但馬では、特に雪深い地方の人たちが冬季の働き場所を求め、出稼ぎとして、全国各地に酒造りに出かけました。杜氏とは酒造りの最高責任者のことです。酒造りは杜氏・蔵人(くらびと)のグループが、新米の刈り入れの終わる10月頃から翌年の春まで、約6~7カ月の間、家を離れ、酒造会社の蔵元に泊まり込んでおこなわれます。蔵によって人数は異なりますが、数人から20人程度の蔵人がチームをつくり、杜氏の指導のもとで酒造りの作業をおこないます。「一蔵一杜氏」といわれるように、杜氏の数だけ酒の種類があるといわれています。
但馬の人は、慎重で誠実、質素にも耐えて思いやりがあり、粘り強い精神力があります。長年の知識と技術の蓄積が今日の但馬杜氏を生みだしました。

●記録に残る但馬杜氏
記録に残るものでは、天保8年(1837年)大阪でおこった大塩平八郎の乱に関連して、大和郡山にいた小代庄城山(香美町小代区)出身の杜氏、藤村某が登場します。藤村はこの地方の代表格で、城主の信頼も厚かったといいます。この時代から、すでに数多くの但馬の杜氏が地方に出かけていたことがわかります。
平成4年の記録では、全国の杜氏は1,754人、但馬の杜氏は全体の1割を占め、近畿を中心に中国・四国・北陸などで活躍していました。しかし、その数も20年前と比べると4分の1、5分の1に減少し、高齢化も進んでいます。また、冬季の出稼ぎシステムも時代にそぐわなくなってきています。最近、酒造りも機械化されてきましたが、手づくりの味の魅力は依然として重宝されています。

2011/06/22  

安積理一郎【あづみりいちろう】

 

安積理一郎【あづみりいちろう】
安積理一郎
(1826-1872)
文政9年に朝来市和田山町に生まれる。幕末の儒学者・池田草庵の門弟。故郷・和田山で私塾を開き、地元の若者を育てた。
●但馬聖人・池田草庵の愛弟子
文政9年(1826)、朝来市和田山町に生まれた安積理一郎は、幕末の儒学者・池田草庵の門弟の1人です。
草庵が養父市八鹿町宿南に開いた私塾「青谿書院」で、師の教えを受けました。幕末期、政局が混乱する京都で朝廷と幕府の動向をいち早く草庵に伝えたと言われています。
草庵の教えは自分が模範を示して門弟を教育する率先垂範の教育。理一郎も草庵の背中を見て、教えを自分のものにしていきました。
塾内の門弟はトイレで用を足すときにも本を読んでいたという伝説が残っています。青谿書院からは理一郎を始め、政財界で活躍した北垣国道、原六郎など、明治の時代を担った優秀な人材を輩出しています。
晩年は、故郷・和田山で私塾を開き、地元の若者へ草庵から学んだ知識を伝授。のち後輩の育成に情熱を注ぎ、明治5年(1872)、46歳でこの世を去りました。

2011/06/22  

心諒尼【しんりょうに】

 

心諒尼【しんりょうに】
心諒尼
(1765-1843)
島流しとなった祖父を捜し訪ね、看病する。祖父の死後も菩提を弔った。その孝行の話は地元で語り継がれている。


心諒尼墓標


法宝寺のクスノキ

●祖父を弔う孝行者
朝来市和田山町東河地区で語り継がれている、心諒尼。その心温まる物語は江戸時代にさかのぼります。
元文3年(1738)、生野代官支配下で百姓一揆が起こり、死罪6人を含む23人の犠牲者が出ました。その中に、首謀者のひとりで当時35歳であった野村の小山弥兵衛は、ほかの8人と一緒に今の長崎県壱岐島へ流罪となります。
弥兵衛は心諒尼の実の祖父。時は移り、祖父の健在を知った心諒尼は、祖父に会いたい一心で桐葉寺(朝来市山東町)に入り、金鐘尼として修行すること十数年。師の許しを得て、祖父を訪ねて壱岐島に渡り、祖父の介護をしました。
そして、3年後に、80歳で祖父が亡くなると 遺骨を携えて帰郷。まもなく、円明寺(朝来市和田山町宮)の門に入り、法名を心諒と改め、水月庵を再興しました。
その後は、祖父の菩提を弔いつつ、4人の弟子を育成し、村の女性たちに生け花や茶道などを教え、平和な日々を過ごしました。天保14年(1843)、至誠一貫の生涯を79歳にして閉じたと伝えられています。
現在でも東河地区には、心諒尼の墓標、祖父の小山弥兵衛の墓が残されています。また、法宝寺(朝来市和田山町)にあるクスノキは心諒尼ゆかりの木。弥兵衛が自分もこのとおり健在であることを国の者に知らせたいと願い、心諒尼にクスの苗を3本持たせました。法宝寺のクスノキはその内の1本だとされています。

2011/06/22  

浅田貞次郎【あさだていじろう】

 

浅田貞次郎【あさだていじろう】
浅田貞次郎
(1855-1942)
安政2年に兵庫県神崎郡神崎町で生まれる。生野銀山払い下げに際し、御下賜金が生野町民に下賜されるよう尽力した。
●生野銀山の地役人へ養子に入る
旧生野町の発展に多大な貢献をした浅田貞次郎は、安政2年(1855)に福本藩士(兵庫県神崎郡神崎町)の四男として生を受けました。17歳の時に、生野銀山の地役人・浅田家の養子となります。地役人とは、代々、生野代官所に仕えた役人のことです。以後、浅田貞次郎はこの銀山のために東奔西走します。

●御下賜金が下賜されるよう奔走
生野の人々の信頼を集めた貞次郎は、銀山廻り11町村の戸長に就任。その後、兵庫県議会議員を経て衆議院議員となり、国政に従事しました。
明治29年(1896)、当時宮内省所轄の官営であった生野銀山が、民間へ払い下げられることになります。貞次郎は町民の永年にわたる協力を政府に訴えるため、町民の代表として上京。宮内大臣や関係役人と交渉を重ね、生野町に当時としては莫大な金額の六萬九千円が下賜されることに貢献しました。町は御下賜金を元に町政の振興を図り、但馬でもいち早く近代化した町となりました。
その後も、貞次郎は生野町の発展に力を注ぎます。交通の近代化なくしては、産業の発展はないと考え、明治29年(1896)に姫路~生野間に播但鉄道を開設。官営の山陰線も開通していない当時としては、画期的な事業でした。
さらに、道路の路面補修、教育発展のために育英金や助成金を私財を投じて捻出するなど、町の振興に多大な貢献を果たしました。その功績を讃え、紺綬褒章・緑綬褒章を授与されました。

2011/06/22  

小谷澄之【こたにすみゆき】

 

小谷澄之【こたにすみゆき】
小谷澄之
(1903~1990)
明治36年(1903)に朝来市に生まれる。日本の柔道を世界に広めた。講道館最高顧問柔道10段。

●関連情報
講道館

●講道館柔道を世界に広める
明治36年(1903)に朝来市に生まれた、柔道家・小谷澄之。講道館柔道を世界に広めた功績が讃えられ、昭和49年(1974)11月に勲四等瑞宝章を受けています。小谷澄之は文字通り柔道に捧げた一生でした。
講道館柔道とは、嘉納治五郎師範によって創設され、現在の柔道の原形となったものです。それ以前にあった柔術各流派の優れたところを集め、危険なところを除き、工夫と研究を加えて、全く新しい講道館柔道を創始しました。
小谷はこの講道館柔道を世界に広めるべく、昭和28年(1953)には柔道使節団員として全米15州の空軍を指導。
招請に応じて柔道指導をくり返し、海外出張は20数回、訪問した国々は30を越えました。しかも、その際の滞在は1ケ月以上の長期間に及び、海外に柔道が根付く礎を築きました。
また、若き頃は柔道での力を請われて、第10回ロサンゼルスオリンピックにレスリング代表として出場。フェザー級で見事4位に入賞する経歴も残しています。
その後は全日本柔道連盟理事(副会長)、日本体育協会参与、東海大学教授、講道館指導部長並びに評議員などを歴任。
晩年は現役で唯一の最高位・講道館柔道10段として、同輩から畏敬の念をもって敬われました。平成2年(1990)、87歳の天寿を全うしています。

2011/06/22  

毛戸勝元【けとかつもと】

 

毛戸勝元【けとかつもと】
毛戸勝元
(1874~1945)
明治7年、美方郡香美町小代区に生まれる。法学博士として、後進の育成に務めた。晩年は弁護士として活躍。
●法学に身を捧げた一生
法学博士・毛戸勝元は、明治7年(1874)に香美町小代区神水の出身。京都帝国大学の法学部長として、日本の法学研究に身を捧げました。
経歴は明治31年(1898)に東京帝国大学法科を卒業。さらに大学院で商科を専攻し、研究を終えると、京都帝国大学助教授、ついで同大学教授に就任しました。
しかし、勝元の研究心はこれに飽きたらず、海外留学を決意。イギリス・ドイツ・フランス各国で、商法を学びました。
帰国後、明治39年(1906)には法学博士の学位を授けられ、後進の指導育成あたり、多くの逸材を輩出しました。勝元は自分の門を叩いてくる者は快く受け入れ、その指導は愛情と熱意をもったものだといわれています。
京都帝国大学を退官後は弁護士として活動し、そのかたわら大阪商工会議所特別議員、日本毛織、川西航空機、安田信託など数社の取締役、および朝日新聞社の顧問としても活躍しました。

2011/06/22  

伊藤清永【いとうきよなが】

 

伊藤清永【いとうきよなが】
伊藤清永
(1911~2001)
明治44年、兵庫県豊岡市出石町に生まれる。画家。女性美を追求した作品を多数描いた。

伊藤清永美術館
伊藤画伯の初期から晩年までの作品を展示。伊藤美術の神髄にふれることができる。
・豊岡市出石町内町98
・TEL0796-52-5456
・午前9時30分~午後5時
・水曜休館
・入館料/大人500円
/大・高校生300円
/小中学生無料

●関連情報
伊藤清永美術館 公式HP

●生い立ち
洋画家・伊藤清永は明治44年(1911)豊岡市出石町下谷で生を受けました。実家は出石の由緒ある禅寺でしたが、寺を継ぐことよりも好きな絵画の道を選ぶ方が純粋だと画家を志します。
大正12年(1923)名古屋市在曹洞宗第三中学林(後の愛知中学校)入学、その2年後に油絵を描き始めます。17歳の時に、中学時代の恩師の紹介により岡田三郎助門下生となり本郷研究所に通い、その後、父親や親族の反対を受けながらも、東京美術学校に入学しました。20歳で初めて出品した公募展で「祐天寺風景」が入選、美術学校卒業の翌年には、文部省美術展で「磯人」の大作が選奨(特選)を受賞。白日会会員となり、画家としての道を確立しました。その間は、母校・旧制愛知中学の先生たちが絵の具代にと絵を買ってもらい、絵の勉強をした7年間でした。

●女性美の表現技法を一貫して追及
終戦、復員後、兄巍典に代わりに寺の住職代理をつとめながら、女性美を礼賛する作品を描き続けました。昭和22年(1947)、第3回日展に「夫人像」出品し特選受賞、翌年も「室内」で特選を受賞。昭和37年(1962)には渡欧し、ピカソの画商であり評論家のカ一シワイラーに認められ、独自の画風を極めました。
昭和52年(1977)「曙光」で日本芸術院恩賜賞受賞、平成8年(1996)には文化勲章を受章し、歴々の栄誉に輝きました。
現在、故郷・出石には、画伯の画業を顕彰して美術館が建てられています。館内には画伯の少年期から晩年の作品に至るまで、数多くの絵画やアトリエを展示。繊細な色線を無数に重ねて描き出される豊麗優美な裸婦像など、伊藤芸術の神髄に触れることができます。

2011/06/22  

山田風太郎【やまだふうたろう】

 

山田風太郎【やまだふうたろう】

山田風太郎
(1922~2001)
大正11年1月4日、兵庫県養父市関宮に生まれる。小説家。「忍法帖」シリーズをはじめ、明治や室町時代を舞台にした小説等の作品で人気を博した。菊池寛賞。


山田風太郎記念館

小説家・山田風太郎の自筆原稿や創作ノートなどを展示。また、愛用の机やいすで仕事場が再現されています
・養父市関宮605-1

・TEL079-663-5522

・午前9時~午後5時
・月曜休館
・入館料/大人200円
/小・中学生100円

●関連情報
山田風太郎記念館 公式HP

●生い立ち
山田風太郎(本名・誠也)は、大正11年に兵庫県養父市関宮で、父は医者、母は医者の娘という医学一家に生まれました。幼くして両親を亡くすという不幸に見舞われますが、自身も医者の道を目指し、東京医科専門学校(現・東京医科大学)に入学します。ところが、在学中の昭和22年、探偵小説雑誌「宝石」の第1回新人賞に応募した「達摩峠の事件」が入選を果たしたことがきっかけとなり、卒業後は作家の道を歩むこととなりました。

ちなみに、筆名の風太郎は、中学生時代に 3人の友人らと互いに呼び合うのに用いた雷/雨/霧/風というあだ名、そして受験雑誌への投稿時代にペンネームとして使用した「風」に由来します。

●「忍法帖」シリーズで、一世を風靡
昭和25年に作家として執筆活動に専念した風太郎は、戦後の荒廃した世相を背景とした推理小説を中心に多数の作品を発表。その後、1959年に発表した『甲賀忍法帖』を皮切りに、安土桃山時代から江戸時代を舞台として忍者たちの死闘を描いた、いわゆる忍法帖シリーズで一世を風靡しました。また、1975年の『警視庁草紙』からは、明治時代を背景に実在の人物や歴史上の事件を扱った明治伝奇小説と呼ばれる作品を発表し、多くの読者を魅了し続けました。
また、山田文学を通底する原点ともいえる『戦中派不戦日記』は後代の作家たちにも大きな影響を与えています。平成15年4月には地元・養父市関宮に記念館が建設され、自筆原稿や創作ノート、愛用品などが展示されています。

2011/06/22  

沖野忠雄【おきのただお】

 

沖野忠雄【おきのただお】

沖野忠雄
(1854~1921)
安政元年1月21日、兵庫県豊岡市大磯に生まれる。治水港湾の始祖として、数多くの土木事業に関わる。内務省技師・内務省技監・勲一等瑞宝章。


出石川防災センター
沖野忠雄の業績が一目で分かるパネルの展示や、円山川の水防や自然環境を学習することができる。
・豊岡市出石町袴峡380-1

・TEL0796-52-7100

・午前9時~午後5時
・木曜定休

●生い立ち
沖野忠雄は安政元年に豊岡藩士沖野春水の子として、豊岡市大磯に生まれました。明治3年に藩の貢進生として大学南校(東京大学)に入り、物理学修得のためフランスに留学。ここで土木建築を学び、帰京後、内務省の土木技師として、一生を治水工事・港湾の開拓に捧げました。

●治水土木に一生を捧げる…
沖野忠雄は日本の治水港湾工事の始祖といわれ、大正7年に内務省を退官するまで、河川改修工事に彼が関わらなかったものはありません。その数多くの土木事業の中で、最も心血を注いだのが、淀川の改修工事と大阪築港事業です。

当時、淀川は大水の度に氾濫を起こす暴れ川で、周辺の住民は家屋の浸水等の被害に悩まされました。そこで、洗堰を要所に設けて淀川の豊富な水量を調節、また、堤防も画一的にせず随所適切に定め、水害を防ぎました。
「大型船が出入港できる港を…」との大阪市民の要望に応えて施工されたのが、大阪築港です。大阪の安治川筋は古来より船の出入りが最も多い場所でしたが、淀川の流砂のため大型船の入港は難しく、河口に港を造ることが早急の課題でした。氏は工事には常に進歩的な工法を用い、機械化を進め、築港建設に尽力しました。今日の大阪繁栄の基礎を作ったこの功績を讃え、天保山公園には銅像が建立されています。
彼の人柄を表すエピソードとして、大阪築港建設の報奨金として、大阪市が送った数万円のお金を最後まで受け取らなかったという話が残っています。金銭や名誉には極めて無頓着で、派手なことには手を出さず、純技術家肌の人でした。土木事業の大御所となりながらも、その気取らない人柄は、数多くの人々から慕われました。