2024/12/26  

大引の鼻展望台【おおびきのはなてんぼうだい】

 

大引の鼻展望台【おおびきのはなてんぼうだい】

大引の鼻展望台

 
●関連情報
香美町観光HP
●240度ぐるりと日本海を見渡せる絶景スポット
香美町香住区の今子浦海水浴場から徒歩5分の断崖の上にある大引の鼻展望台は、日本海を一望できる絶景スポットとして人気です。断崖絶壁の海に突き出た岬の先に展望台があり、遥かに見渡す水平線は息をのむ美しさです。黒島や白石島の他、東側には断層による峡谷や大引洞門、遠方には豊岡市の猫崎半島や京丹後市の経ヶ岬、西側には三田浜海水浴場や国の天然記念物「鎧の袖」や御崎集落のある伊笹岬など、日本海一帯が眺望できます。「日本の夕陽百選」にも認定されており、夏の赤く染まる夕日の景色もおすすめです。初夏から秋口にかけては、日が暮れた後、水平線にイカ釣り漁船の漁火の灯りが灯り、幻想的な世界も楽しむことができます。

2024/12/26  

大庄屋記念館【おおしょうやきねんかん】

 

大庄屋記念館【おおしょうやきねんかん】

大庄屋記念館

 
●関連情報
養父市HP
●江戸時代の大庄屋屋敷を利用した資料館
養父市小城(こじょう)にある養父市立大庄屋記念館は、江戸時代後期に出石藩の18ヶ村を管理した大庄屋・長島善右衛門の母屋が建てられたと考えられることから、大庄屋記念館という名称がつけられました。母屋や納屋、土蔵などが広い敷地に配置された風格ある屋敷で、昭和30年代以降は現代的な改修を受けなかったことなどから、市の文化財に指定されています。明治から大正時代に活躍した但馬を代表する豪農住宅として綺麗に保存されており、館内には生活用具や民具などが収集展示され、かつての暮らしや養蚕の歴史などが学べます。離れの1階にある画家・小林礫川の太公望の襖絵も見事なものです。最近ではドラマ「ガンニバル」のロケ地としても使用されました。

2024/12/26  

北星鉱山社宅【ほくせいこうざんしゃたく】

 

北星鉱山社宅
【ほくせいこうざんしゃたく】

北星長屋社宅
・養父市大屋町明延
・日本遺産構成文化財
●かつて鉱夫とその家族が暮らした社宅跡
養父市大屋町にある明延鉱山はかつて、日本一の錫鉱山として、昭和62年に閉山されるまで日本の鉱業を支えました。最盛期には約4,000人もの人が山あいの小さな集落に暮らしており、明延川をはさんで向かいの山にはいくつもの社宅が建てられました。青い屋根が特徴的な北星長屋社宅は、狭い土地を有効に活用するため山の斜面に建てられており、木造長屋5棟が残っています。また、当時としては最新技術であるプレコン造の社宅も8棟残っており、往時の鉱山町の面影を伝える貴重な文化遺産として保存されています。

2024/12/26  

生野踊り【いくのおどり】

 

生野踊り【いくのおどり】
生野踊り
・朝来市生野町

8月のお盆

生野踊り
・朝来市生野町/8月のお盆

生野踊りは山師(江戸時代の鉱山の経営者)が京都から踊りの師匠を招き振付をしたものと伝えられています。盂蘭盆会の娯楽として、また、鉱山で亡くなった人への供養としての盆踊りとして始まったとされています。代官・役人の妻女は、顔を深々と編笠で隠し、その時ばかりは庶民の中に混じって踊ることができたと言われています。尺八、三味線、太鼓、くどきと躍り子で一列縦隊の「連」を構成する行列踊りで、昭和初期までは、盆の3日間は町内で夜を徹して躍られていました。現在も生野地域では、お盆に地域で連を作り、初盆の家の前で躍る風習が続いています。

2024/12/26  

出雲岩・空を飛んだ馬【いずもいわ・そらをとんだうま】

 

出雲岩・空を飛んだ馬
【いずもいわ・そらをとんだうま】

出雲岩・空を飛んだ馬
出雲岩・空を飛んだ馬

出雲岩
・新温泉町塩山
新温泉町塩山から前に抜ける峠道に残る「出雲岩」。

 

 

大国主命が飛び乗った伝承の岩

その昔、大国主命が賊に襲われて、遠くから新温泉町の塩山まで馬に乗って逃げてきました。そこには、高さ10メートル、横幅7メートルもある「出雲岩」と呼ばれる大きな岩があって、大国主命はそこで休んでいました。

しかし、賊の大軍がどんどん押し寄せてきて、絶体絶命のピンチにおちいった大国主命。「出雲岩」の下は断崖絶壁であり、逃げ場を失った大国主命は、どこか逃げる場所はないかとあたりを見回します。すると、遠く向こうに大きな森が見えました。 「これは、しめた!」と思った大国主命は、祈りをささげつつ、乗っていた馬もろとも「出雲岩」から飛び立ちました。 すると、神の力か、大国主命は空を飛び、着いたところが隣村の飯野にある「さるが滝」というところに着地します。そこにも大きな岩があり、その岩に馬のくらをかけて休まれ、最大の危機から脱出したそうです。その岩を地元の人は、「くらかけ岩」と呼んでいます。休息をして力を取り戻した大国主命は、さらに飯野を飛び越えて雲に乗り、遠く出雲の地(今の島根県出雲地域)まで、飛んで行かれたと伝わっています。

地元にある「出雲岩」と「くらかけ岩」には、今でも馬のひずめの跡が残っているそうで、新温泉町塩山から飯野へ、大国主命が谷を飛び越えた跡とされています。

 

 

2024/12/26  

なんじゃもんじゃの木【なんじゃもんじゃのき】

 

なんじゃもんじゃの木
【なんじゃもんじゃのき】

なんじゃもんじゃの木
なんじゃもんじゃの木

佐々伎神社
・豊岡市但東町佐々木
「なんじゃもんじゃ」とは、立派な植物や怪木に対して全国的に使われている愛称。この木は鹿子の木(かごのき)です。

 

 

木の力に翻弄された恋心

豊岡市但東町佐々木の佐々伎神社に生えている「なんじゃもんじゃの木」は、撫でると愛情が芽生えると言い伝えられています。若者には恋人ができると噂されており、その力に翻弄された、とある娘の悲恋の物語が残されています。

その昔、京の都に娘が住んでいました。偶然道を訪ねてきた若く美しい公家に一目で恋に落ちましたが、公家は但馬の佐々伎神社に勅使として代参するといいます。娘は「帰ってくる」という公家の言葉を信じて待っていましたが、堪えられなくなったある日、とうとう後を追って旅立っていきました。その時代の娘一人旅といえば、過酷さは並大抵のものではなく、大きな峠をいくつも越え、足の血豆は破れてしまうほどでした。

やがて、峠一つを残す谷までたどり着いた娘は、自分に会うために帰路に着くであろう公家を迎えるため、毎日峠を見上げて待っていました。しかし、彼が通る気配はありません。それもそのはず、代参中、好奇心から「なんじゃもんじゃの木」に触れた公家は佐々伎神社の巫女と恋に落ち、そこで結婚してしまっていたのです。噂でそれを知った娘は、一人泣きながら都に帰っていきました。それ以降、娘が恋心を募らせた谷は「こころ谷」と呼ばれ、すれ違いが生んだ、悲しい恋物語が語り継がれています。

 

 

2024/12/26  

森 はな【もりはな】

 

森 はな【もりはな】
森 はな
(1925-2013)
明治42年年に朝来市和田山町に生まれる。児童文学作家として名作を残す。

●関連情報
朝来市HP

●小学校教諭から児童文学作家へ
1909年(明治42)に朝来市和田山町宮田(みやだ)に生まれ、兵庫県明石女子師範学校を卒業後、小学校教員として教鞭をとりました。養父市、朝来市、高砂市で32年間の教員生活を過ごし、退職後は児童文学作家として執筆を始めました。同人誌で作品を書き始め、1973年(昭和48)、64歳で初めての出版作品となる『じろはったん」を発表。生まれ育った故郷が舞台で、日本児童文学者協会新人賞を受賞するなど、代表作となりました。

●遅咲きの新人として名作を残す
『じろはったん』は心優しき知的障害者の青年『じろはったん』と、神戸からの疎開者や地元の人との心の交流が描かれた作品。森はな文学のテーマである「いとおしむ心」が表現され、柔らかな但馬弁とともに綴られています。その後、「こんこんさまにさしあげそうろう」で絵本にっぽん大賞を受賞し、80歳で亡くなるまで、但馬の風景を舞台にした物語を多く執筆しました。『じろはったん』はミュージカル作品としても上演されており、森はなが育った地元の朝来市では『じろはったん』の心の優しさ、思いやりを軸とした村づくりが進められています。

 

2024/12/26  

大友 工【おおともたくみ】

 

大友 工【おおともたくみ】
大友 工
(1925-2013)
大正14年に豊岡市出石町に生まれる。東京読売巨人軍の投手として活躍。

●関連情報
出石明治館・大友工投手展示室(豊岡市HP)

●軟式野球からプロ野球へ
大正14年に豊岡市出石町に生まれ、小学校の頃から野球とテニスに親しんだという大友工。大阪逓信(ていしん)講習所を卒業後、神戸中央電信局員などを経て、但馬貨物で軟式野球をプレーしました。速球投手として全国車輛軟式野球大会の近畿大会でベスト4に進出したことから関係者に目に止まり、軟式野球出身ながら、1949年(昭和24)に巨人軍に入団しました。

●巨人軍の投手としてMVPを獲得
巨人軍に入団した頃は、硬くて重い硬式球に苦労しますが、投球フォームをサイドスローに変えたことから、才能が開花。当時のエース格と並ぶほどの速球と、スライダーを習得し、1952年(昭和27)にはノーヒットノーランを達成しました。 翌年には最優秀防御率、最多勝の2冠を獲得し、最優秀選手(MVP)、沢村賞に輝き、まさに巨人軍のエースとして活躍。サイドスローからくり出される直球には威力があり、鋭く曲がるスライダーを武器に、巨人軍の第2期黄金時代を支えました。1955年(昭和30)にも最多勝を獲得。晩年はケガによる後遺症により、制球力と球威が失われ、1960年(昭和)に近鉄バファローに移籍して引退しました。引退後は近鉄、中日で投手コーチを務めるなどして、育成の指導に努め、プロ野球界に貢献しました。地元にある出石明治館には大友工投手展示室があり、記念の品を展示しています。

 

2024/01/27  

かにみそまん【かにみそまん】

 

かにみそまん
かにみそまん
●カニの香りが湯気立つ名物中華まん
関西では香美町の香住漁港でだけで水揚げされるベニズワイガニは「香住ガニ」と呼ばれてブランド化されています。香住ガニは、身が詰まり、甘味が強く、みずみずしいのが特徴。香美町香住で愛される創業42年の中華料理店「白龍」では、そんな香住ガニを贅沢に使った『かにみそまん』が人気です。ずっしり大きなかにみそまんが香住ガニの甲羅の中にドンっと鎮座しており、見た目のインパクトは十分。ほんのり甘いフワフワの生地はもっちり口溶けがよく、生地を割ると、ふわっと上がる湯気とともにカニの香りが食欲を刺激します。中には香住ガニの身がぎっしり詰まっていて、カニみその風味が口いっぱいに広がります。
香住ガニそのものが美味しいので素材の味を活かし、手作りにこだわった香住オリジナルの商品は、8時間もの時間をかけて作るこだわりの逸品です。カニを湯がいて身を取り出して餡を作り、42年の歴史が誇る秘伝の中華スープとカニみそを合わせます。あったかい湯気と幸福感に包まれるかにみそまんは、食べる人が笑顔になる新しい香住の名物料理です。

・中華料理 白龍 0796-36-2967(提供期間:香住ガニのシーズン中)
https://r.goope.jp/kanimisoman/

2024/01/27  

ほたるいか糀漬【ほたるいかこうじづけ】

 

ほたるいか糀漬
【ほたるいかこうじづけ】
ほたるいか糀漬
●山陰に古くから伝わる伝統食
昔から秋から初冬に冬の保存食として作られたきたいか糀漬。江戸時代から「かうぢや(糀屋)」の屋号で糀の製造を行ってきた醤油屋「しょうゆの花房」では、ほたるいかを使用した糀漬を製造しています。作り方はシンプルで、糀、醤油、お酒に素材を漬け込んで作ります。原料を国産・地元産にこだわり、メインのほたるいかは但馬沖でとれたものを使用。素干ししたほたるいかをまるごと漬け込むという贅沢な一品です。
よくある糀漬のようにドロっとしておらず、食べると糀と磯の香りに加えて、濃厚な旨味が広がり、クイッと一杯お酒が欲しくなります。内臓ごと漬けているので、独特の深い味わいが生まれ、食べた時に口に残る硬い目玉も糀の酵素のおかげで柔らかくなり、全く気にはなりません。
糀の出来具合がその味に表れるといい、蒸した米に種糀と呼ばれる菌をつけ、38〜40度の温度を保ちながら2日間かけて発酵させます。機械化されているとはいえ放置することはできず、外気の変化を見ながら湿度と温度を調整します。長年培った感覚と技で、米糀を育て上げます。ここからできあがった糀に醤油と酒を混ぜ、床を作ります。その際に活躍するのが糀を使って仕込む甘酒作りの技術。仕込む温度が高すぎると甘くならず、低すぎると酸味が増すので、常に温度管理を大切にしているそうです。山陰に古くから伝わる伝統食、糀漬は地酒とよく合います。

・しょうゆの花房 0796-47-0003
https://syouyuhanafusa.co.jp/