2024/01/27  

但馬御火浦伝説【たじまみほのうらでんせつ】

 

但馬御火浦伝説
【たじまみほのうらでんせつ】

但馬御火浦伝説
但馬御火浦伝説

但馬御火浦
・新温泉町浜坂〜香美町香住区余部
但馬御火浦は侵食された凝灰岩や花こう岩など地質学の宝庫として、学術的にも注目されています。

 

 

皇后を導くかがり火

「但馬御火浦」と呼ばれる、新温泉町から香美町へ続く約8kmの海岸線は、奇岩が悠然と連なる景勝地で、昭和9年に国の名勝・天然記念物に指定されています。
その一端にある新温泉町三尾には、日本書紀にも登場する神功皇后にまつわる伝説が語り継がれています。
神功皇后が、現在の朝鮮半島南部に存在したとされる三韓地域に遠征したとき、越前の港を出港した一行が三尾沖合に差し掛かったころ、海上にひどい濃霧が立ち込めて行手を阻まれてしまいました。進退きわまった重臣がすがる思いで神に祈ったところ、霧を裂くように一筋の光が差し込みます。それは三尾の漁師が集落の高台にある日和山で焚いたかがり火でした。
その灯りに導かれ、無事に三尾浦にたどり着いた神功皇后の一行。お礼として、その地に「御火浦」という名を贈ったといいます。
しかしその後、この地は大火に見舞われてしまい、「御火浦という地名が影響しているのでは」と考えた土地の人々は、元の「三尾浦」を地名として使うようになったそうです。
現在、御火浦一帯は山陰海岸ジオパークの一部として、雄大な景色を今に伝えています。

 

 

2023/01/12  

温泉城と宴の清水 【ゆのしろとうたげのきよみず】

 

温泉城と宴の清水
【ゆのしろとうたげのきよみず】

温泉城と宴の清水
温泉城と宴の清水
湯村温泉
・新温泉町湯
温泉城の麓にある湯けむりの郷・「湯村温泉」。平安時代に開湯されたと伝わる名湯は、多くの侍の傷を癒してきたのかもしれません。

 

 

秀吉を悩ませた不思議な水源

岸田川の支流、春来川と稲負谷川に挟まれた白毫山(びゃくごうさん)。その標高338mの小高い山頂に、湯村温泉を見下ろすように温泉城(ゆのしろ)跡はあります。
その昔、豊臣秀吉が勢力拡大のため但馬の城を攻めていたときのこと。巧みな戦術で手当たり次第に城を落とす中、温泉城だけはなかなか攻略することができませんでした。兵糧攻めを行うも、それでも落ちない温泉城を不思議に思った秀吉が調べてみると、どうやら城内にどこからか飲水が引かれているようです。そこでお侍を坊主に変装させ、老婆がいる山中の茶屋に向かわせました。
「おばあさん、ここらのきれいな水は、いったいどこから出てくるんじゃ?」
と、侍がそこに住む老婆にさりげなく話しかけると、老婆は『宴の清水』という所から出てくると答えました。
それを聞いた秀吉は水源を絶ち、温泉城を落とすことに成功したといいます。どのようにしてあんな高い山城に水を引いたのか、いまだに解明されていません。

 

 

2019/03/02  

面沼神社のお茗荷祭り【めぬまじんじゃのおみょうがまつり】

 

面沼神社のお茗荷祭り【めぬまじんじゃのおみょうがまつり】

面沼神社のお茗荷祭り
面沼神社のお茗荷祭り
面沼神社のめぬ池
・新温泉町竹田
境内にある「めぬ池」と小島。昔は裸参りもあり、祭りの日は女人禁制でした。以前は他の村からの来客もありましたが、現在は関係者のみの神事となっています。

 

但馬七不思議にあげられる奇祭

新温泉町竹田に鎮座する面沼神社。境内には「めぬ池」とよばれる小池があり、ここでは不思議なことが起こると伝えられています。周りに雪が積もる2月頃、池のなかにある小島にミョウガの芽が育つのです。通常春から夏にかけて芽を出すミョウガが、なぜ真冬の寒い時期にこの小島に生えるかは未だ分かっていません。

毎年2月11日には、ミョウガの芽の形・大きさ・光沢・色などで、その年の吉凶・景気を参拝者で自らが占う「お茗荷祭り」が行われています。早朝5時に始まり、宮司がミョウガを3本摘み、池の水で清め、セキショウ(サトウキビ科の多年草)を敷いた三方に乗せ、木地のふたをかぶせて神前に奉納します。芽がまっすぐ伸びていると豊作、曲がっていると日照り、上部に光沢があれば早稲、下部に光沢があれば晩稲がよいとされています。「命賀めでたや、富貴はんじょう」。健康と富を授かりますようにと願い、不思議なミョウガに明日を占う一風変わった祭りが、今もなお、おごそかに行われています。

 

 

2018/01/16  

くぐり池【くぐりいけ】

 

くぐり池【くぐりいけ】
くぐり池
くぐり池
くぐり池
・新温泉町多子
今は草に覆われており、水面は一部しか見えていません。アヤメのほか、コウホネやフトイなどの希少価値の高い植物が自生しています。

 

 

村娘と若き僧との悲恋の物語が残る「くぐり池」

新温泉町多子の県道沿いにぽつりと立っている「くぐり池」の看板。坂を上ると、一見草むらのように見えるが小さな池があリます。ここには悲しい伝説が残っています。

その昔、この池の近くを1人の若い僧が通りかかりました。それを見た村の娘は一目で彼を好きになりました。僧もまた恋慕の情を抱いていました。しかし僧は修行の身のため、お互いに惹かれ合っていても一緒にはなれませんでした。募る思いに苦しみ、とうとう娘は池に身を投げてしまいます。娘の死を知った僧もまた、娘を追って池に身を投げてしまいました。村人たちはふたりを哀れみ、池の端に地蔵を祀って供養したそうです。

また、この池には、鳥取県の多鯰ヶ池と地下で繋がっているという伝説も残っています。多鯰ヶ池は鳥取砂丘の裏に位置し、中国地方最深の池。くぐり池で失った物が多鯰ヶ池で見つかることで不思議がられていたそうです。そして、大雨や日照りでも池の水かさが変わらないといわれており、照来地区の七不思議の1つに数えられています。

くぐり池のその他の伝説
1、田植え中に浸けておいた洗いもの(おひつや食器)が、いくら探しても見つからない。後日、多鯰ヶ池に浮いていた。
2、村の人が数個のひょうたんを浸けていたが、いつの間にかなくなっていた。後日、多鯰ヶ池に浮いていた。
3、地区の若連中が池の中央に相撲場を作り、明日の相撲開きを楽しみにしていたが、朝見ると一夜にして消滅していた。

 

 

2015/01/31  

岸田さえもん踊【きしださえもんおどり】

 

岸田さえもん踊【きしださえもんおどり】
岸田さえもん踊
岸田さえもん踊(新温泉町)
・新温泉町岸田

8月14・15日

 

岸田さえもん踊
・新温泉町(旧温泉町)/岸田/8月14・15日

鎌倉時代に遊行上人といわれた一遍上人が、山陰地方を巡回した時に「さいもん」と名付け、念仏踊りをして普及したと伝えられています。
約600年の歴史をもつ踊りで、さし手の中に献物の形を残し優雅さの中に舞いの要素を加えた踊りです。毎年8月14・15日のお盆には、旧温泉町に残るほかの盆踊りと共に地域に深く親しまれ、区民一丸となって舞い踊られます。

踊りの芸題には、「熊谷直実」、「伊勢音頭」、「俊徳丸」、「藤吉出世」などがあります。「さえもん踊」は伝統の古さや優雅さにおいては、白眉的存在として定評があり、また反面では修得がむずかしいとされている伝統文化です。

2014/12/05  

牛が峯【うしがみね】

 

牛が峯【うしがみね】
牛が峯
海上の神代杉
海上の神代杉
(新温泉町)
・新温泉町海上
海上の児嶋神社にある神代杉は2,500年前の崩落で埋まった杉とされており、実際にこの地で土砂崩れがあったのではないかと伝えられています。

 

大蛇と洪水の伝説が残る山「牛が峯」
水に因んだ地名がついた理由とは…

兵庫県と鳥取県との境になっている蒲生峠。この近くに牛が寝たような形の山「牛が峯」があります。
昔、牛が峰には大きなお寺が建っていました。ある日、「日の水」という泉まで水を汲みに行った小僧さんが行方不明になる事件が続けて起こりました。調べてみると、小僧さん達は大蛇にひと飲みにされていたことが分かり、寺は騒ぎになったそうです。
それを聞いた慈覚大師というお坊さんが、「わらで人形を作り、もぐさをつめ、線香に火をつけ、大蛇が人形をのみこんだ頃、もぐさに火がつくようにして、泉の側に立たせてみては」といい、人形を作り、泉の側に立てました。
すると、大蛇が人形をひと飲みにして逃げていきました。人々はうまくいったと喜びましたが、地震のように山が鳴り崩れ落ち、小又川がせき止められ大きな湖になり、丘は小さな小島になってしまいました。
それから何年か経ち、七美の方から来た占いをよくあてる娘が「6月10日には大水が出るから、丘の上に集まるように」といいだしました。人々は丘に集まるが、天気もよく大水の気配は感じられません。
丘を降りようとした時、上流の方から地鳴りが聞こえ、山崩れでできた湖の水が土手を破り、あっという間に大水が何もかも飲み尽くしてしまいました。不思議にもその後、その娘の姿を見た人はいなかったそうです。
今は小又川も狭い谷あいを曲がりくねって流れており、かつて湖があったとは想像もつきませんが、山の中なのに「海上(うみがみ)」や「児嶋(こじま)」など、水に因んだ名前の地名が多いのはこの理由からだといわれています。

2011/11/21  

但馬牛【たじまうし】

 

但馬牛【たじまうし】
放牧
庭先

但馬牛を飼う但馬の人々は、牛を家族の一員として一つ屋根の下で共に寝起きして、雪深いきびしい風土に生き、温和で姿美しい但馬牛を大切に育ててきました。

■但馬牛博物館
・新温泉町丹土1033

・TEL.0796-92-1005

・午前9時~午後5時
・木曜定休
(休日と重なった

場合は次の平日)

・入館料/無料

●関連情報
新温泉町役場
但馬牛博物館

●但馬牛とは
農耕用の機械が導入されるまで、農家は農業の働き手のひとつとして、各家庭に1頭は牛を飼育していました。家族の住む母家に同居させ、我が子同様に愛情を注ぎ、大事に育てたと言います。起伏に富んだガタガタ道は、牛の足腰を丈夫にし、但馬特有の夏の湿気と冬の寒気がよい毛並みをつくりました。子牛は競り市で売られ、農家の大事な収入源でした。優良牛の育成を目指して、よい特性を備えている牛を選び、何世代もの近親繁殖を繰り返す間に、その優れた特質が固定され、血統(蔓牛)をつくってきました。現在も兵庫県外の優良牛との繁殖はせず、純血を守っています。

●但馬牛を創った男「前田周助」
現在の但馬牛の歴史を語る上で、なくてはならない人がいます。香美町小代区に生まれた前田周助(1797~1872)です。牛の取引と小代牛の宣伝のために、わざわざ大阪の市場まで牛を連れて出かけたという逸話が残る人物。彼の人生はまさに但馬牛とともに生きたと言えます。周助は「蔓(つる)牛」の開発に一生をかけました。「蔓」とは、他地域との交流を避けた「閉鎖育種」の方法で生み出された、発育・資質・繁殖性の優秀な牛の血統のことを言い、その系統牛を「蔓牛」と呼びます。但馬牛の優れた特質は、長年に渡り、他との交配をさけ、改良に改良を重ねて受け継がれた優良な血統から生み出されました。

「蔓牛」を創り出すことで、安定的に優秀な子牛が生産することができます。周助は系統牛になりそうな牛がいると聞けば、東へ西へと駆け回りました。そのためには私財を投げ打って、牛を買い求める毎日。そしてついに100年に一度の雌牛を手に入れました。飼料の選定から一切の手入れ、特に繁殖には多年の研究と経験の全てを注ぎました。こうして周助の生み出した牛は「周助蔓」と言われ、現在の但馬牛の代表的な蔓のひとつ「あつた蔓」の素となりました。

●伝説の但馬牛「田尻号」
昭和14年に香美町小代区に生まれた伝説の雄牛「田尻号」。全国和牛登録協会の資料によると、全国の黒毛和種繁殖雌牛の99.9%が、「田尻号」の血統に繋がることが分かりました。名だたる高級黒毛和牛の母牛の大部分が、この「田尻号」をルーツに持っています。明治に入り西洋文化の影響で肉食が盛んになると、日本の小型の牛を改良するため、体格のよい外国の牛と交配させることが進められました。但馬でも例外ではなく、外国牛との交配が行われましたが、肉質の低下を招き、優良な血統牛を失いかねない危機におちいります。

第二次世界大戦後、但馬牛の純牛種を守ろうと、新しい血統作りが始まりました。ここで注目されたのが「周助蔓」。険しい山々と深い谷あいにあり、隣村との行き来が困難な小代には、外国牛との交配を免れた但馬牛が奇跡的に生き残っていました。中でも田尻松蔵が丹精込めて育て上げた「田尻号」は、生まれて半年で美方郡の種オス牛候補として認められた名牛。特に遺伝力の強さは他の雄牛の中でも群を抜いていたと言います。

但馬の山間部では家の玄関の横に牛小屋があり、昔から家族同様に牛が育てられてきました。松蔵も「田尻号」を我が子のように可愛がり、毎日運動と手入れを欠かさなかったそうです。そのおかげでほとんど病気をすることもなく、昭和29年まで種牛として活躍しました。昭和30年には長年の功績を讃えられ、黄綬褒賞を受賞しています。


●但馬牛の特徴

1.資質が抜群によい
毛味、色味、骨味が良く皮は薄く、弾力ゆとりがあり、
品位に富み体のしまりが良い。
2.遺伝力が強い
全国の和牛改良に広く活用されている。
3.肉質、肉の歩留りがよい
肉の味がよく、骨が細く皮下脂肪が少ない。
4.長命連産で粗飼料の利用性が良い
長命連産。山野草を好み、古来より
「但馬牛は、山でつくり、草で飼う」といわれています。

2011/06/28  

ざんざか・ざんざこ【ざんざか・ざんざこ】

 

ざんざか・ざんざこ【ざんざか・ざんざこ】
大杉
大杉ざんざこ踊
(養父市)
・養父市大屋町大杉二宮神社
8月16日
・国指定無形民俗文化財
若杉
若杉ざんざか踊
(養父市)
・養父市大屋町若杉三宮神社
8月16日
・県指定無形民俗文化財

●関連情報
養父市役所

 

大杉ざんざこ踊
・養父市大屋町/大杉二宮神社/8月16日/国指定無形民俗文化財

大杉ざんざこ踊は鬼踊りとも呼ばれ、かけ声の中、大シデを背負った4人の中踊りを大勢の踊り子が取り囲み、古式にのっとり踊られます。発祥は明らかではありませんが、一説によると、昔、カガミという流行病が村を襲い、これを嘆いた庄屋が慶安2年(1649)に伊勢に参拝した帰途、奈良にてこの踊りを習い覚え、旧暦7月16日、氏神に奉納したところ、村が次第に平穏になったと伝えられています。

若杉ざんざか踊
・養父市大屋町/若杉三社神社/8月16日/県指定無形民俗文化財

大杉ざんざこに対して若杉ざんざか踊は姫踊りという別名が表すように、優雅でかつ古式ゆかしい踊りです。村に残る文書の中に、その昔、大和の修業者が一人やって来て、村で流行していた大難の病気を平癒するため、氏神様に踊りを奉納したことから始まったとされています。

九鹿ざんざか踊り
(養父市)
・養父市八鹿町九鹿日枝神社
10月第3日曜日
・県指定無形民俗文化財

 

九鹿ざんざか踊り
・養父市八鹿町/九鹿日枝神社/10月第3日曜日/県指定無形民俗文化財

神功皇后の三韓征伐の凱旋を祝って踊ったのが始まりと伝えられていますが、由来を明らかにするものがありません。踊りの動作、歌詞、服装などに室町時代の色が濃く、当時の修験者らが疫病退散、五穀豊穣を祈願して、奉納したのが起源と推測されています。
4~5人からなる、かみしも姿の唄い手の踊り唄と、「サンザカザンザカ ザンザカザットゥー」の掛け声に合わせ、紺の筒袖と股引姿の踊り手が踊ります。小中学生が角兵衛獅子の所作に似た子ども踊りで前座をつとめ、青年を中心とした8人が大人踊りを踊り、豆しぼりの手拭いで向こう鉢巻、腰に太鼓、手に木ばちなど古式にのっとたいでたちで、荘重さの中にも力強く、気迫に満ちています。


寺内
寺内ざんざか踊り
(朝来市和田山町)
・朝来市和田山町寺内山王神社
7月第3日曜日
・県指定無形民俗文化財

 

寺内ざんざか踊り
・朝来市和田山町/寺内山王神社/7月第3日曜日/県指定無形民俗文化財

五穀豊穣や子孫繁栄を願って、慶安(1648~1652)のころに始まったといわれ、以来、地元衆の皆さんによって引き継がれています。山王の遣いである猿にふんした12人の踊り手が円陣を組み、腰の太鼓を「ザンザカザットウ」の囃子(はやし)に合わせて打ち鳴らします。また、その中心では2人の踊り手が飾り付けをした高さ3メートルの「しない」と呼ばれる竹を背負い、それをからませたり地面に打ちつけたりしながら踊りを奉納します。


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久谷ざんざか踊り
(新温泉町・旧浜坂町)
・新温泉町久谷八幡神社
9月15日
・県指定無形民俗文化財

 

久谷ざんざか踊り
・新温泉町(旧浜坂町)/久谷八幡神社/9月15日/県指定無形民俗文化財

全国各地に分布している風流太鼓のひとつで、八幡神社の祭りに、神前や家々の庭先で五穀豊穣や氏子の安全を願って踊られます。踊り手は若い中高生で、華やかな一文字笠をかぶり、腰につけた締太鼓を叩きながら踊ります。
起源は、地元に伝わる伝承や歌の歌詞から、室町時代末から江戸時代のはじめごろに確立したと考えられています。風流太鼓踊りは、手に持つ持ち物や音から西播ではチャンチャコ踊りなどとも呼ばれ、但馬や西播、丹波地方にも残っています。

2011/06/22  

ざんざか・ざんざこ【ざんざか・ざんざこ】

 

ざんざか・ざんざこ【ざんざか・ざんざこ】
お好みのサイズをダウンロードして動画をお楽しみください。

 

高速回線用 低速回線用
5.9MB 1.1MB
PLAY TIME:2分43秒
動画を楽しむためにはMicrosoft社のWindows Media Playerが必要です。

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2011/06/22  

火祭り【ひまつり】

 

火祭り【ひまつり】
火祭り
湯村の火祭り(新温泉町)
・新温泉町湯
8月24日
湯村の火祭り
新温泉町(旧温泉町)/湯/8月24日

「ジ~ロンボ(次郎坊)、タ~ロンボ(太郎坊)、む~ぎのな~かのク~ロンボ(黒んぼ)」という囃し言葉とともに、子どもたちが弧を描くように打ち振りまわす無数のたいまつの火。「ジ~ロンボ、タ~ロンボ」というのは天狗の名前で、天狗のような驕慢(きょうまん)な心。「む~ぎのな~かのク~ロンボ」は、麦が病気になった黒穂で、害を及ぼすもの。いずれも松明(たいまつ)で焼き払い、五穀豊穣、家内安全、健康を祈願します。春来川の川面に映える火は、暮れゆく夏の夜、幻想的な雰囲気をかもし出します。


火祭り
愛宕火祭
(豊岡市出石町)
・豊岡市出石町鍛冶屋伊福部神社
8月24日に近い日曜日

 

愛宕火祭
・豊岡市出石町/鍛冶屋伊福部神社/8月24日に近い日曜日

夜、陽が沈む頃、七年山中腹の愛宕(あたご)神社で、木と木をすり合わせて行う「火起こしの儀式」がおこなわれ、愛宕神社の燈明は、地域の若者達によって参道を運ばれます。この火をとって、子どもや、大人の共振りが始まります。パチパチと音をたてて燃え上がる麦ワラの束を縄で持って勢いよく振り廻します。同時に各地区の太鼓保存会によって、火祭太鼓が打ち鳴らされクライマックスを迎えます。
愛宕神社の祭礼は、江戸時代からおこなわれていましたが、大正の頃から途絶えてしまい、昭和55年に復活されました。


万燈の火祭り
(香美町香住区)
・香美町香住区三谷矢田川河川敷
7月24日
万燈の火祭り
・香美町香住区/三谷矢田川河川敷/7月24日

約200年前の江戸中期、まん延した疫病を鎮めるためにはじまったと伝えられています。その後、無病息災や豊作を願う行事として定着しましたが、松明用の麦わらが手に入らなくなり、一時途絶えましたが、昭和59年に復活されました。
4~10mの竹ざおの先端につけた麦わらに火をつけ振り回します。地元消防団の模範演技に続いて、子どもや女性たちも次々に火振りをします。火の粉を受けると無病息災、家内安全、火の用心などの願いがかなえられると言われています。
豪快に光跡を描く火振りがくりひろげられ、最期は約40人が、会場中央で、燃えさかるわらを空高く突き上げる大火柱を披露し、夜空に火の粉を1回、2回と大きく舞わせて、火の舞いをしめくくります。