2024/01/27  

淀井敏夫【よどいとしお】

 

淀井敏夫【よどいとしお】
淀井敏夫
(1911-2005)
明治44年に朝来市佐仲に生まれる。削げたような形態と岩のような質感のユニークな作品が特徴。

●関連情報
あさご芸術の森美術館HP

●日本近現代彫刻界に大きく貢献
淀井敏夫は明治44年に朝来市佐中に生まれ、6歳まで朝来市で過ごしました。その後、大阪の工芸学校を経て、東京美術学校(今の東京藝術大学)彫刻科に入学します。所属していた木彫部では、空いた時間のすべてを制作に費やすほど、作品づくりに没頭していました。卒業後は主に美術団体「二科会」を舞台にして、心棒に石膏を直付けする独自の技法で、日常の何気無いシーンを表現した彫刻を発表していきます。
54歳から同大学の教授・美術学部長を務め、東京スカイツリーを設計した澄川喜一ら多くの逸材を育てました。日本芸術院会員や「二科会」の理事長を務め、日本近現代彫刻界に大きく貢献しました。

●晩期には野外彫刻に没頭
淀井作品は労働者をモチーフにした力強い作品から、後年になるとのびのびとした複雑な形の新しい表現に変わっていきます。自然界に生きる生命の躍動感と自由への感動を形にした作品を多く生み出しました。晩期には野外彫刻を中心に彫刻づくりをした敏夫。遠い山並み、青い空と白い雲、木立を吹きわたる風と鳥のさえずり…朝来で過ごした幼い日の記憶が、作品の原点になっていると本人も語っています。地元に建設された「あさご芸術の森美術館」には、淀井敏夫の作品を屋内外に常設展示しています。

 

2011/11/21  

志村喬【しむらたかし】

 

志村喬【しむらたかし】
志村喬
(1905-1982)
明治38年に朝来市生野町に生まれる。400本近くの映画作品に出演する。日本映画史に残る名優。

●関連情報
志村喬記念館公式HP

●大学在学中に演劇と出会う
黒澤明作品で有名な映画俳優・志村喬(本名島崎捷爾)は、明治38年(1905)に朝来市生野町で生まれました。銀山で有名な生野には、当時、鉱山開発会社の社宅が建ち並び、志村もそこで暮らしていたといいます。
生野小学校卒業後、大正6年(1917)、神戸第一中学校に入学しますが、病気のため宮崎県立延岡中学校へ転校。その後、関西大学予科に入学します。
2年生の時には家計を助けるため、働きながら学校へ通いました。俳優になるきっかけとなったのは、在学中にアマチュア劇団を立ち上げたことから。次第に熱中していき、大学を中退して、25歳の時に舞台俳優として本格的に活動を開始します。

●黒澤作品での名演技
劇団を転々としているうちに、トーキー映画に魅せられ、30歳で映画俳優へ転身。伊丹万作監督の作品で映画デビューします。
昭和18年(1943)には運命の人、黒澤明監督と出会い、東宝へ移籍。このことが彼の俳優人生の大きな転機となりました。
特に主人公を演じた『生きる』でのいぶし銀の演技は、国内外から高い評価を得ています。ラストで主人公の志村がブランコに乗りながら公園で歌う姿は、涙を誘う感動の名シーンとして有名です。その他にも『七人の侍』『隠し砦の三悪人』など、黒澤作品には欠かせない名バイプレイヤーとして活躍しました。
生涯を通じて出演した作品は400本近く。昭和24年(1949)、『野良犬』で男優演技賞を受け、まさに日本映画史上に残る名優といえます。昭和57年(1982)2月11日に、76歳の生涯を閉じました。

2011/06/22  

安積理一郎【あづみりいちろう】

 

安積理一郎【あづみりいちろう】
安積理一郎
(1826-1872)
文政9年に朝来市和田山町に生まれる。幕末の儒学者・池田草庵の門弟。故郷・和田山で私塾を開き、地元の若者を育てた。
●但馬聖人・池田草庵の愛弟子
文政9年(1826)、朝来市和田山町に生まれた安積理一郎は、幕末の儒学者・池田草庵の門弟の1人です。
草庵が養父市八鹿町宿南に開いた私塾「青谿書院」で、師の教えを受けました。幕末期、政局が混乱する京都で朝廷と幕府の動向をいち早く草庵に伝えたと言われています。
草庵の教えは自分が模範を示して門弟を教育する率先垂範の教育。理一郎も草庵の背中を見て、教えを自分のものにしていきました。
塾内の門弟はトイレで用を足すときにも本を読んでいたという伝説が残っています。青谿書院からは理一郎を始め、政財界で活躍した北垣国道、原六郎など、明治の時代を担った優秀な人材を輩出しています。
晩年は、故郷・和田山で私塾を開き、地元の若者へ草庵から学んだ知識を伝授。のち後輩の育成に情熱を注ぎ、明治5年(1872)、46歳でこの世を去りました。

2011/06/22  

心諒尼【しんりょうに】

 

心諒尼【しんりょうに】
心諒尼
(1765-1843)
島流しとなった祖父を捜し訪ね、看病する。祖父の死後も菩提を弔った。その孝行の話は地元で語り継がれている。


心諒尼墓標


法宝寺のクスノキ

●祖父を弔う孝行者
朝来市和田山町東河地区で語り継がれている、心諒尼。その心温まる物語は江戸時代にさかのぼります。
元文3年(1738)、生野代官支配下で百姓一揆が起こり、死罪6人を含む23人の犠牲者が出ました。その中に、首謀者のひとりで当時35歳であった野村の小山弥兵衛は、ほかの8人と一緒に今の長崎県壱岐島へ流罪となります。
弥兵衛は心諒尼の実の祖父。時は移り、祖父の健在を知った心諒尼は、祖父に会いたい一心で桐葉寺(朝来市山東町)に入り、金鐘尼として修行すること十数年。師の許しを得て、祖父を訪ねて壱岐島に渡り、祖父の介護をしました。
そして、3年後に、80歳で祖父が亡くなると 遺骨を携えて帰郷。まもなく、円明寺(朝来市和田山町宮)の門に入り、法名を心諒と改め、水月庵を再興しました。
その後は、祖父の菩提を弔いつつ、4人の弟子を育成し、村の女性たちに生け花や茶道などを教え、平和な日々を過ごしました。天保14年(1843)、至誠一貫の生涯を79歳にして閉じたと伝えられています。
現在でも東河地区には、心諒尼の墓標、祖父の小山弥兵衛の墓が残されています。また、法宝寺(朝来市和田山町)にあるクスノキは心諒尼ゆかりの木。弥兵衛が自分もこのとおり健在であることを国の者に知らせたいと願い、心諒尼にクスの苗を3本持たせました。法宝寺のクスノキはその内の1本だとされています。

2011/06/22  

浅田貞次郎【あさだていじろう】

 

浅田貞次郎【あさだていじろう】
浅田貞次郎
(1855-1942)
安政2年に兵庫県神崎郡神崎町で生まれる。生野銀山払い下げに際し、御下賜金が生野町民に下賜されるよう尽力した。
●生野銀山の地役人へ養子に入る
旧生野町の発展に多大な貢献をした浅田貞次郎は、安政2年(1855)に福本藩士(兵庫県神崎郡神崎町)の四男として生を受けました。17歳の時に、生野銀山の地役人・浅田家の養子となります。地役人とは、代々、生野代官所に仕えた役人のことです。以後、浅田貞次郎はこの銀山のために東奔西走します。

●御下賜金が下賜されるよう奔走
生野の人々の信頼を集めた貞次郎は、銀山廻り11町村の戸長に就任。その後、兵庫県議会議員を経て衆議院議員となり、国政に従事しました。
明治29年(1896)、当時宮内省所轄の官営であった生野銀山が、民間へ払い下げられることになります。貞次郎は町民の永年にわたる協力を政府に訴えるため、町民の代表として上京。宮内大臣や関係役人と交渉を重ね、生野町に当時としては莫大な金額の六萬九千円が下賜されることに貢献しました。町は御下賜金を元に町政の振興を図り、但馬でもいち早く近代化した町となりました。
その後も、貞次郎は生野町の発展に力を注ぎます。交通の近代化なくしては、産業の発展はないと考え、明治29年(1896)に姫路~生野間に播但鉄道を開設。官営の山陰線も開通していない当時としては、画期的な事業でした。
さらに、道路の路面補修、教育発展のために育英金や助成金を私財を投じて捻出するなど、町の振興に多大な貢献を果たしました。その功績を讃え、紺綬褒章・緑綬褒章を授与されました。

2011/06/22  

小谷澄之【こたにすみゆき】

 

小谷澄之【こたにすみゆき】
小谷澄之
(1903~1990)
明治36年(1903)に朝来市に生まれる。日本の柔道を世界に広めた。講道館最高顧問柔道10段。

●関連情報
講道館

●講道館柔道を世界に広める
明治36年(1903)に朝来市に生まれた、柔道家・小谷澄之。講道館柔道を世界に広めた功績が讃えられ、昭和49年(1974)11月に勲四等瑞宝章を受けています。小谷澄之は文字通り柔道に捧げた一生でした。
講道館柔道とは、嘉納治五郎師範によって創設され、現在の柔道の原形となったものです。それ以前にあった柔術各流派の優れたところを集め、危険なところを除き、工夫と研究を加えて、全く新しい講道館柔道を創始しました。
小谷はこの講道館柔道を世界に広めるべく、昭和28年(1953)には柔道使節団員として全米15州の空軍を指導。
招請に応じて柔道指導をくり返し、海外出張は20数回、訪問した国々は30を越えました。しかも、その際の滞在は1ケ月以上の長期間に及び、海外に柔道が根付く礎を築きました。
また、若き頃は柔道での力を請われて、第10回ロサンゼルスオリンピックにレスリング代表として出場。フェザー級で見事4位に入賞する経歴も残しています。
その後は全日本柔道連盟理事(副会長)、日本体育協会参与、東海大学教授、講道館指導部長並びに評議員などを歴任。
晩年は現役で唯一の最高位・講道館柔道10段として、同輩から畏敬の念をもって敬われました。平成2年(1990)、87歳の天寿を全うしています。

2011/06/22  

柴田勝太郎【しばたかつたろう】

 

柴田勝太郎【しばたかつたろう】

柴田勝太郎
(1889~1975)
兵庫県朝来市山東町大月に生まれる。尿素肥料の開発者。
●農業の近代化に貢献
柴田勝太郎は朝来市山東町大月に生まれました。大正4年(1915)、東北大学理学部科学科を卒業し、アンモニアやメタノールの合成研究において画期的な成果をあげ、企業化に成功しました。

特に昭和12年(1937)から10年間にわたる尿素の研究成果は、尿素肥料として農業の近代化に大きく貢献し、その製造法は世界的に認められ、称賛されました。

2011/06/22  

藤原東川【ふじわらとうせん】

 

藤原東川【ふじわらとうせん】

藤原東川
(1887~1966)
明治20年1月、兵庫県朝来市和田山町に生まれる。歌人。農民の喜びや悲しみを歌う「田園歌人」「農民歌人」といわれた。「郷愁」「にいはり」「乳木」「山帰来」の歌集を残している。
●生い立ち
明治20年(1887)1月18日、朝来市和田山町宮に、父・久蔵、母・さとの長男として生まれ、与八郎と名付けられました。素直で明るく、成績もよかったので、学校や村の人たちからの信頼もあつく、みんなから大切にされていました。小学校高等科を主席の成績で卒業し、本人も学校も進学を希望したのですが、跡取りとして百姓をしなければならず、進学はかないませんでした。

農業にあけくれる生活の中で、これではだめだと村を出る決心をし、明治37年(1904)、17歳の時、突然神戸へ出ていきました。しかし、学歴もなく特別な技術も持たない彼は、その日その日によって仕事を転々とする日雇い人夫しか働き口がなく、ついに絶望の果て、郷里に帰ることになりました。

故郷に帰った彼は、農業のかたわら漢詩を学び、新聞・雑誌の文芸欄に投稿し続け、作品がしばしば入選し、認められるようになりました。

●農民の喜びや悲しみを歌に

明治43年(1910)、いよいよ文筆活動で世に立とうと考え、家族の反対を押し切って東京に出ました。当時24歳でした。ところが、生活費に困り、学費が続かず、途中で退学。翌44年(1911)、東京での生活を断念、再び故郷へ帰らざるを得なくなりました。

帰郷後の彼は、ますます勉強に励み、大正4年(1915)29歳の時、中路よしと結婚。翌年、若山牧水主宰の歌誌『創作』の詩友となり、本格的な歌人としてのスタートを切りました。

東川の但馬歌壇における功績は、但馬の歌人を結集して一つの大きなエネルギーを作り出したことです。これまで、但馬の歌壇は結社ごとに独立して、他の結社との交渉はほとんどありませんでした。東川の作った『雪線』はそれぞれの独立性を尊重しながら、短歌を作るという共通の目標を結集した原点です。『雪線』は昭和58年(1983)400号を突破し、会員も300名を越えました。『雪線』は平成元年(1989)1月号より『但丹歌人』と改め、現在に及んでいます。東川が但馬歌壇の父といわれ、今も多くの人から敬愛され、圧倒的な地位を占めている理由がここにあります。また、但馬史研究会の創設に力を尽くしたことも忘れてはなりません。

春いまだ野は 冬枯れのままながら 柳畑のいろのあかるさ

野良ぐるま ひきてかえるに道遠く いつしか月の光をぞ踏む

春によし 夏はまたよし 秋はなほ今日あたためて飲む冬の酒

張り替えて 吉き日をぞ待つわが家の障子 さやけき今朝は雪晴れ

昭和41年(1966)3月19日、多くの人々に惜しまれながら、生涯を閉じました。享年79歳でした。

2011/06/22  

原 六郎【はらろくろう】

 

原 六郎【はらろくろう】

原 六郎
(1842~1933)
天保13年11月9日、兵庫県朝来市佐中に生まれる。金融・産業界の中枢的存在として活躍。第百国立銀行頭取・東京貯蓄銀行頭取・横浜正金銀行頭取・帝国ホテル開業。
●生い立ち
天保13年(1842)、朝来市佐中の大地主、 進藤丈右衛門長廣の第10子、姉4人、兄5人の末っ子として生まれました。22歳までは進藤俊三郎、それから後は原六郎と名前を変えます。

安政2年(1855)13歳の時、池田草庵の青谿書院へ入門しました。当時は尊皇攘夷派の動きが激しくなる頃で、原六郎は尊攘論を唱え、政治活動を学問の邪道と考える池田草庵と相容れず、北垣国道たちと共に青谿書院を脱退しました。

文久3年(1863)生野義挙が起こり、これに身を投じましたが戦いに破れ、鳥取に逃げました。生野義挙に関係した者に対する捜索はきびしく、名前を原六郎と改め、以後本名を生涯使うことはありませんでした。

慶応元年(1865)、高杉晋作に会い、長州藩の守備隊に入り、翌2年には長州征伐の幕府軍と戦い、のち山口の陸軍兵学校明倫館で大村益次郎について、フランス式の練兵を学びました。王政復古ののち、長州を去り、以後、官軍にあってはなやかな軍人としての道を選びました。

●金融・産業界の中枢的存在

明治4年(1871)、政府の推薦でアメリカに留学。6年(1873)春エール大学で経済学を学び、7年(1874)イギリスに渡りレオン・レヴィについて経済学・社会学を修め、10年(1877)5月に帰国しました。帰国した彼は金融業界へ入り、第百国立銀行の頭取として活躍し、その手腕は世間に高く評価されました。

当時、わが国の貿易関連の横浜正金銀行は、経済不況の影響を受けて倒産寸前に追い込まれていました。明治16年(1883)原六郎に、この大事を託すべく頭取となり、銀行改革の大事業を成功させました。その他の金融業にあっては帝国商業銀行、台湾銀行、日本興業銀行の創設にも関与しています。

原六郎の経済人としての仕事は金融業だけにとどまらず、山陽鉄道、播但鉄道、阪鶴鉄道、総武鉄道、東部鉄道、南和鉄道、九州鉄道、北陸鉄道など、関係した鉄道は多く、東京電燈、横浜ドック、富士製紙、富士紡績、横浜水道の設備などにも多くの貢献をしました。わが国の金融・産業界の中枢的存在として活躍しました。
朝来市の山口小学校には講堂兼体育館を兄丈右衛と二人で寄贈。青谿書院に対しては財団法人とするための基金や祠堂を、また生野義挙で13名が自刀した山口に、招魂社(護国神社)を建立するに際して基金を寄せると共に、祭典に列席するなど故郷への心配りを忘れませんでした。

昭和8年(1933)11月14日、92歳の天寿をまっとうしました。