2024/12/26  

生野踊り【いくのおどり】

 

生野踊り【いくのおどり】
生野踊り
・朝来市生野町

8月のお盆

生野踊り
・朝来市生野町/8月のお盆

生野踊りは山師(江戸時代の鉱山の経営者)が京都から踊りの師匠を招き振付をしたものと伝えられています。盂蘭盆会の娯楽として、また、鉱山で亡くなった人への供養としての盆踊りとして始まったとされています。代官・役人の妻女は、顔を深々と編笠で隠し、その時ばかりは庶民の中に混じって踊ることができたと言われています。尺八、三味線、太鼓、くどきと躍り子で一列縦隊の「連」を構成する行列踊りで、昭和初期までは、盆の3日間は町内で夜を徹して躍られていました。現在も生野地域では、お盆に地域で連を作り、初盆の家の前で躍る風習が続いています。

2024/12/26  

森 はな【もりはな】

 

森 はな【もりはな】
森 はな
(1925-2013)
明治42年年に朝来市和田山町に生まれる。児童文学作家として名作を残す。

●関連情報
朝来市HP

●小学校教諭から児童文学作家へ
1909年(明治42)に朝来市和田山町宮田(みやだ)に生まれ、兵庫県明石女子師範学校を卒業後、小学校教員として教鞭をとりました。養父市、朝来市、高砂市で32年間の教員生活を過ごし、退職後は児童文学作家として執筆を始めました。同人誌で作品を書き始め、1973年(昭和48)、64歳で初めての出版作品となる『じろはったん」を発表。生まれ育った故郷が舞台で、日本児童文学者協会新人賞を受賞するなど、代表作となりました。

●遅咲きの新人として名作を残す
『じろはったん』は心優しき知的障害者の青年『じろはったん』と、神戸からの疎開者や地元の人との心の交流が描かれた作品。森はな文学のテーマである「いとおしむ心」が表現され、柔らかな但馬弁とともに綴られています。その後、「こんこんさまにさしあげそうろう」で絵本にっぽん大賞を受賞し、80歳で亡くなるまで、但馬の風景を舞台にした物語を多く執筆しました。『じろはったん』はミュージカル作品としても上演されており、森はなが育った地元の朝来市では『じろはったん』の心の優しさ、思いやりを軸とした村づくりが進められています。

 

2024/01/27  

淀井敏夫【よどいとしお】

 

淀井敏夫【よどいとしお】
淀井敏夫
(1911-2005)
明治44年に朝来市佐仲に生まれる。削げたような形態と岩のような質感のユニークな作品が特徴。

●関連情報
あさご芸術の森美術館HP

●日本近現代彫刻界に大きく貢献
淀井敏夫は明治44年に朝来市佐中に生まれ、6歳まで朝来市で過ごしました。その後、大阪の工芸学校を経て、東京美術学校(今の東京藝術大学)彫刻科に入学します。所属していた木彫部では、空いた時間のすべてを制作に費やすほど、作品づくりに没頭していました。卒業後は主に美術団体「二科会」を舞台にして、心棒に石膏を直付けする独自の技法で、日常の何気無いシーンを表現した彫刻を発表していきます。
54歳から同大学の教授・美術学部長を務め、東京スカイツリーを設計した澄川喜一ら多くの逸材を育てました。日本芸術院会員や「二科会」の理事長を務め、日本近現代彫刻界に大きく貢献しました。

●晩期には野外彫刻に没頭
淀井作品は労働者をモチーフにした力強い作品から、後年になるとのびのびとした複雑な形の新しい表現に変わっていきます。自然界に生きる生命の躍動感と自由への感動を形にした作品を多く生み出しました。晩期には野外彫刻を中心に彫刻づくりをした敏夫。遠い山並み、青い空と白い雲、木立を吹きわたる風と鳥のさえずり…朝来で過ごした幼い日の記憶が、作品の原点になっていると本人も語っています。地元に建設された「あさご芸術の森美術館」には、淀井敏夫の作品を屋内外に常設展示しています。

 

2023/01/16  

焼りんご【やきりんご】

 

焼りんご
【やきりんご】
焼りんご

焼りんご

●愛され続けるロングセラー
パッケージを見ると「わぁ懐かしい!」と思わず声が出る方も多いのではないでしょうか。南但(朝来市・養父市)の人なら一度は食べたことがある懐かしの味「焼りんご」は1972年創業の隆盛堂で作り続けられている銘菓です。

りんごは焼くと皮が小麦色になることから、その色にそっくりだったので「焼りんご」の名がつきました。

ふんわり丸い可愛らしいフォルム。実際りんごは入ってませんが、フワフワの生地の中には、まろやかなバタークリームがサンドされており、食べるとほっこり優しい気持ちになります。夏は冷凍して食べる人もいるとか。

すべて手作業で作られている焼りんご。昔は明延鉱山の売店などでも販売しており、当時では珍しい個包装だったため、衛生面でも安心感があり、お土産にも重宝されたそうです。
美味しさの秘密は、昔のまま味を変えないのではなく、繊細なマイナーチェンジの積み重ねによってお馴染みの味が守られています。

・隆盛堂製菓株式会社 079-673-2360
https://ryuseido-seika.jp/

2023/01/12  

青倉神社「目の神様」【あおくらじんじゃ「めのかみさま」】

 

青倉神社「目の神様」
【あおくらじんじゃ「めのかみさま」】

青倉神社「目の神様」
青倉神社「目の神様」
青倉神社
・朝来市山内権現谷82-1
青倉神社の社殿は2階建てと珍しく、社殿の側には御神体である巨石神像が鎮座しています。1階の拝殿の中から巨石を拝むこともできます。

 

 

孝行息子に神様が与えた水

朝来市にある青倉山。
その中腹にある青倉神社は、目の神様として信仰を集めています。
そのむかし、年老いた父親と暮らす孝行息子がいました。ある日父は山菜を取ろうと山に入ったが、目にウドのトゲが刺さり大怪我を負ってしまいました。息子は必死に看病しますが、痛みは一向におさまりません。疲れで眠り込んでしまった息子の夢枕に神様が立ち、岩から湧き出る水をつけるようお告げをします。すぐに水を探しを始めましたが、とうとう見つけることはできませんでした。
そんな時、青倉山の小さな祠が目に入り、もう一度神様にお願いしてみようと近づくと、近くの山肌から水が流れ落ちているではありませんか。お告げにあった水に違いないと大喜びした息子は、その水を持ち帰り父の目を洗ってやりました。すると痛みが消え、父の目は元通り見えるようになったそうです。
この話を聞いた人々が参拝し、青倉神社は目の神様として知られることになったといいます。またそれ以来、青倉神社の氏子はウドを食べないという噂もあります。

 

 

2022/01/15  

鉱石の道神子畑交流館「神選」【こうせきのみちみこばたこうりゅうかん「しんせん」】

 

鉱石の道神子畑交流館「神選」
【こうせきのみちみこばたこうりゅうかん「しんせん」】

鉱石の道神子畑交流館「神選」

 
●関連情報
神子畑選鉱場跡
●神子畑選鉱場跡に建つ交流施設
東洋一の選鉱場として栄えた「神子畑選鉱場跡」。その敷地内に令和2年、新たな交流施設がオープンしました。操業当時の神子畑周辺を再現したジオラマや、山神祭に使用されていた神輿や映画に使用した映写機が展示されています。またシックナーをモチーフにしたTシャツや手ぬぐい、トートバッグ、クリアファイルなど神子畑オリジナルグッズも販売しているお土産物ショップも併設しています。

2022/01/15  

進藤家住宅/佐中千年家【しんどうけじゅうたく/さなかせんねんや】

 

進藤家住宅/佐中千年家
【しんどうけじゅうたく/さなかせんねんや】


佐中千年家
・朝来市佐中
・市指定文化財

●金融・産業界の中枢的存在、原六郎の生家
明治時代の金融・産業界の中枢的存在であった原六郎(進藤俊三郎)の生家。進藤家は天授年間(1375~1380)頃、佐中に居住したといわれています。主屋は、東西を旨とした入母屋式茅葺2階建てで、その西側及び東側に建てられた桟瓦葺、切妻屋根で平屋、もしくは2階建ての建物が付属しています。平成2年、通称「千年家」と呼ばれるようになりました。
建設年代の詳細は不明ですが、進藤家が大地主となるのが江戸時代中期であることや進藤家屋敷の北側には元々進藤家の仏間(菩提所)があり、その場所に進藤家の菩提寺として現在の深高寺が1711年(正徳元)に建てられていることなどから、これらのことを重ね合わせると1600年代の建物であると考えられています。

2021/01/24  

生野紅茶【いくのこうちゃ】

 

生野紅茶
【いくのこうちゃ】
生野紅茶
生野紅茶

生野紅茶
茶畑

生野紅茶
加工の様子

●栽培から加工、販売まで生野の茶畑から生まれる但馬の和紅茶
日本有数の鉱山町、朝来市生野町。昔から各家庭で日本茶の栽培が盛んで、“銀山茶”として多くの町民に飲まれていました。現在、その茶葉を利用して『生野紅茶』が作られています。

そもそも日本茶と紅茶は製造過程の違いだけで茶葉は同じ。茶葉を完全発酵したものが紅茶です。まず初めに、機械で摘んだ茶葉に風を当ててしおらせます。次に、揉み込み作業を行った後、33〜35度に温めて発酵。そして、茶葉の汁気を取り除くため、さらに乾燥させます。最後に、混ざっている茎と葉を分け、カットして完成。

そうしてできた生野紅茶は、渋みが少なくてすっきりとした味わいが特徴です。透明度が高くて濁りにくく、アイスティーにもよく合います。

2021/01/24  

小山弥兵衛と心諒尼 【こやまやへえとしんりょうに】

 

小山弥兵衛と心諒尼
【こやまやへえとしんりょうに】

小山弥兵衛と心諒尼
小山弥兵衛と心諒尼
法宝寺のクスノキ
・朝来市和田山町岡田
弥兵衛は、自分の健在であることを国の者に知らせたいと願い、心諒尼にクスの苗を3本持たせました。その内の1本は現在、但馬の法宝寺(ほっぽうじ)に残っています。

 

 

祖父を弔う孝行物語

昔、東河庄野村(朝来市和田山町東河地区)に「小山弥兵衛」という若いながらも人望が厚い男がいました。1738年、長く続く凶作のため、庄屋たちが訴状を持って生野代官までお願いに行きましたが、農民が鍬や鎌を持って集まってしまい、これを一揆としてみなされ、その中心にいた弥兵衛は長崎県の壱岐島へ流されてしまいました。見性寺に預けられた弥兵衛は、島民の農作業を手伝ったり、子どもたちに読み書きを教えたりするなど、島民から慕われる存在となっていきました。

一方、弥兵衛の孫娘は祖父に会いたいという一心で、僧になれば修行で全国を歩き回り、祖父の所にも行けると考え、尼僧になるため梁瀬の桐葉庵(現在は桐葉寺)に入り修行を開始、法名を「全鏡」と名乗りました。壱岐島までの困難な道のりを進み、ようやく弥兵衛と対面を果たした全鏡。月に数日間だけ博多から壱岐へ渡り、祖父の世話をしました。

弥兵衛が亡くなった後は遺骨を携えて帰郷し、円明寺(朝来市和田山町宮)から「心諒尼」という戒名をもらい、水月庵(現在は水月院)を再興したと言います。この史実の縁がきっかけとなり、現在、朝来市と壱岐市は友好都市提携を結んでいます。

 

 

2020/01/31  

多々良木フォレストリゾートCoCoDe【たたらぎふぉれすとりぞーとここで】

 

多々良木フォレストリゾートCoCoDe
【たたらぎふぉれすとりぞーとここで】


多々良木フォレスト
リゾートCoCoDe
 
●関連情報
多々良木フォレストリゾートCoCoDe
●兵庫県内初のドーム型宿泊棟
朝来市にある多々良木ダムのほど近く、あさご芸術の森美術館などアートと豊かな自然に囲まれたこの地に平成29年4月にオープンした「多々良木フォレストリゾート CoCoDe(ココデ)」。かつての「農林業体験実習館多々良木みのり館」を朝来市がリニューアルし、兵庫県初、8棟のドームハウス型宿泊棟として生まれ変わりました。特徴的な丸い外壁は特殊発泡スチロールで作られており、室内では冷暖房やIH調理器具も完備しています。他にもログハウスも備え、一部の宿泊棟では小型犬と宿泊することも可能です。

フォレスリゾートの名前の通り、CoCoDeの魅力は何と言っても施設を囲む豊かな木々。春の桜、夏の蛍、秋の紅葉、冬の雲海と四季で変わる景色を楽しむことができます。ハンモックや電動自転車、焚き火が楽しめるピラミッドグリルのレンタルなど、貸出可能な備品も充実しています。広い芝生で思いっきり体を動かすもよし、リラックスするもよし。それぞれのスタイルであるがままの自然に向き合えます。

手ぶらで楽しめるバーベキューも人気で、食材はもちろんコンロや炭などの必要な機材もセットされているので特別に持ち込む必要がなく、さらにめんどうな準備や後片付けもスタッフが手伝ってくれます。遊び終わってすぐ食事ができるので、本格的なバーベキューはハードルが高いという小さな子ども連れにも好評です。

■多々良木フォレストリゾートCoCoDe
・079-678-1184
・兵庫県朝来市多々良木727-2