2011/06/22  

オオサンショウウオ

 

オオサンショウウオ

オオサンショウウオ

・国指定特別天然記念物
(場所は不特定)

●世界最大の両生類、世界でたった3種の貴重な生物
「生きた化石」といわれるオオサンショウウオは世界最大の両生類で、カエルやイモリの仲間です。その発生は2億年前にも遡りますが、ヨーロッパでは氷河期を経てほとんどが滅び、現在地球上では、日本、中国、アメリカで、わずか3種しか残っていないという貴重な生物です。アメリカのものは「ヘルベンダー」(地獄に向かう人)と呼ばれ、大きくて70cmほど、中国のものは「ワーワーユイ」と呼ばれ、150cmほどになるそうです。

●但馬では身近にみられる特別天然記念物
オオサンショウウオは、山間の清流のくぼみ(穴)などを好んで棲み、小魚・サワガニ・カエル・水中昆虫などをエサにしています。夜行性で、昼間は岩の下や川岸の巣穴にひそんでいて、暗くなると川の中に出てきます。大きさは一般に40~120cmで、160cmに達するものもあり、体の色は黒褐色で黒い斑紋があります。皮膚に多くのイボがあって、これを刺激すると山椒(さんしょう)のような香りの乳白色の液を出すところから、サンショウウオの名がついたようです。
アンコ、ハンギ、ハンザキとも呼ばれ、半分に裂いても死なないほど強い生命力をもつとか、食いついたら雷が鳴るまで放さないなどとも伝えられ、不老長寿の食べ物として用いられたこともあったとか。
産卵は9月ごろにおこなわれ、40~50日でふ化。ふ化した幼生は、4~5年で25cm前後になり、このころエラがなくなって変態が完了します。寿命ははっきりしませんが、60年以上も生きた例が報告されています。

兵庫県では但馬・丹波などのほとんどの河川の上流部に生息していることがわかりました。但馬では円山川、大屋川、八木川、出石川、竹野川など、どこにでもいる身近な生き物といえるでしょう。オオサンショウウオが棲むには、エサとなる生き物が豊富で生態系が保たれ、川岸に住みかとなるくぼみや奥行きのある産卵巣などが必要です。平成2年から6年間かけて行われた養父市建屋川の治水工事では、オオサンショウウオの生息と治水を両立させるため、全国でも初めてのさまざまな取り組みがおこなわれました。

但馬の地形概観【たじまのちけいがいかん】

 

但馬の地形概観【たじまのちけいがいかん】
近畿の北西部にある但馬は、中国山地の東端にあたります。兵庫県の最高峰・氷ノ山からは南東に山並みが続き、これらの山々に端を発する川が日本海にそそいでおり、山すそが海に落ち込んだ海岸部は断崖絶壁が多く変化に富んでいます。

宇宙から見た但馬地方

●山地
但馬の山地は、中国山地の東側にあたる中央高地から北へのびて日本海に達しており、その形成過程によって3つの型に分類されます。
1つは、約2000万年前に形成された厚い地層・北但層群が河川の浸食で削り取られ、深い谷によって分断された山地で、谷は深く刻み込まれていますが、尾根の部分はなだらかです。但馬山地の中央部を南北に走り、円山川、矢田川の分水界をなしている妙見山(1,142m)、蘇武岳(1,074m)、三川山(888m)などの連山がこれです。
2つめは、北但層群を突き破る噴火によって、その上にさらに溶岩流がおおいかぶさって、いっそう高度を増したもの。県下最高峰の氷ノ山(1,510m)、瀞川山(1,039m)、扇ノ山(1,310m)などで、兵庫の屋根といわれています。神鍋山(477m)もこれで、溶岩流にともなう溶岩崖、溶岩コブなど典型的な火山地形をとどめています。

3つめは、北但層群におおわれていたところが、その後の隆起・浸食作用で削り取られて基盤岩が露出し、さらに河川によって深い谷が刻まれたもので、高竜寺岳(697m)などがあります。

また、但馬山地の中でも、火成活動を受けなかった地域(おもに八木川以南の古生層)は、長い年月の間に風化が進み、山頂まで植林がなされて美林をつくりだしています。

●平地
但馬の平地は、円山川沿いに豊岡盆地があるほかは、日本海へそそぐ竹野川、佐津川、矢田川、岸田川の河口近くに沖積平野(ちゅうせきへいや)があるくらいです。豊岡盆地は豊岡市を占める沖積平野で、円山川と出石川の合流点付近で一番広く、幅4kmぐらい。玄武洞以北では円山川の両岸に山がせまり、平地はほとんど見られません。

円山川以外の河川は短小なので、新しい山地が削り取られてできた狭い谷底平野だけが形成されています。

●河川
但馬のおもな河川としては、東から、朝来市生野町円山に端を発する円山川、三川山を源とする竹野川・佐津川、氷ノ山から流れ出る矢田川、扇ノ山を源とする岸田川などがあります。

●海岸
日本海に面する但馬海岸は西端の浜坂町居組から、東端の豊岡市津居山まで直線距離で40数km。この地域一帯の海岸は、1963年、山陰海岸国立公園の指定を受け、景観の美しい海岸として知られています。スケールの大きい沈降海岸で、海に落ち込んだ山々の屋根の部分が岬・鼻の突出部となり、谷の部分に海水が入り込んで湾となり、漁港や浜になっており、小刻みに急に入り込む典型的なリアス式海岸です。

2011/06/22  

但馬の河川【たじまのかせん】

 

但馬の河川【たじまのかせん】

円山川と豊岡盆地
●関連情報
豊岡河川国道事務所
●但馬最大の川・円山川
日本海にそそぐ但馬のおもな河川は東から、円山川、竹野川、佐津川、矢田川、岸田川とあります。
但馬最大の河川・円山川は、播州との分水界にあたる生野町円山を源流として、豊岡市津居山で日本海にそそいでいます。
但馬の1市12町を流域にもち、但馬山地の山々を水源とした大屋川・八木川・稲葉川・出石川などの多くの支流を合流しながら、豊かな水量でゆったりと流れています。豊岡市域に入ると、標高数メートルの非常にゆるやかな流れとなります。河口近くの楽々浦(ささうら)は氷河期の谷が埋め残された潟湖で、湖岸の樹木はサギの絶好のねぐらとなっています。
かつては蛇行して流れ、洪水のたびに氾濫を繰り返したため、大正11年から15年をかけて大改修されて、現在の流路になりました。市内のところどころには、かつての流路が三日月湖として残っており、円山川の荒々しい一面をうかがわせています。

竹野川、佐津川の源流はともに三川山で、流路も短く流れも早い川です。
矢田川の源流は氷ノ山で、香美町村岡区北部付近で硬い地層を深く削って峡谷を作っています。香住町小原付近から上流では、河岸段丘が見られ、段丘上に集落があります。香美町香住区森の大乗寺付近からは沖積平野が広がり、香美町香住区矢田で日本海にそそいでいます。
岸田川の源流は扇ノ山で、照来川・春来川・久斗川などを合流して日本海にそそいでおり、新温泉町千原付近から両側に段丘があります。竹野川、円山川に段丘があまり見られず、矢田川、岸田川沿いに顕著に見られるのは、但馬西北部が隆起したためだと考えられます。
円山川以外の但馬の川は、瀬戸内側の川に比べて短く、川幅が狭く、流れが早いの特徴です。昔は、上流の花崗岩(かこうがん)地域で、流れを利用して砂から砂鉄を取る「かんな流し」が行われ、「たたら」による製鉄が行われていました。今も清流を利用してヤマメやニジマスの養殖が行われていたり、矢田川、岸田川にはそれぞれ急流を利用した小規模の発電所があります。

但馬の地質【たじまのちしつ】

 

但馬の地質【たじまのちしつ】

但馬海岸
(津居山から竹野海岸)

玄武洞(豊岡市)
●但馬の地史
今から約3億年前、アジア大陸の東端は海で、但馬の姿はありませんでした。それから1億年ほど後の造山運動(本州造山運動)で、但馬の陸化が進みました。養父市大屋町一帯に広がる「舞鶴帯」や、福岡県を西端として但馬までのびる「三郡帯」はこのころのもの、「夜久野層群」は少し後にできたといわれています。それから少し経って最初の火山活動が但馬で起こり、花崗岩体の貫入によって、城崎、湯村などの温泉源がつくられました。
2500万年前、海底火山の溶岩が海水と反応して緑色に変化する、グリーンタフ変動が起こり、生野、明延などの鉱山ができました。このころ但馬には海が深く入り込んでおり、村岡には海底面の流跡が残っています。
1000万年前、2回目の大きな火山活動によって、日和山安山岩ができ、古村岡水道が陸化し、数百万年前の火山活動で、鎧の袖(香美町香住区)や宇日流紋岩(豊岡市竹野町)などができました。兵庫県の最高峰・氷ノ山は約300年前、玄武洞の玄武岩は約160万年前の噴火によるものです。
中国地方を東西に走る山脈は、東端の氷ノ山周辺で急に南北の連なりになっており、変化に富んだ但馬海岸の地形とあわせて、かつて但馬が地殻変動の拠点のひとつであったことがうかがえます。
県下で一番新しい火山活動は、約1万年前の神鍋噴火です。また、約2万年前に、最後の氷期が終わって間氷期にはいったころ、現在の豊岡の平野部は海でした。このような、さまざまの変化を経て現在の但馬ができたのです。

●但馬の地質
養父市大屋町一帯に広がる「舞鶴帯」は古生代の地層で、西は山崎断層にのび、東は舞鶴に至っています。約1億年前、中生代白亜紀の地層としては、朝来市生野町や矢田川流域、豊岡市の「山陰型花崗岩帯」があります。比較的新しい新生代の地層は、北但馬一円に広がり、新温泉町と鳥取県境の山々にも含まれています。

明延鉱山
養父市大屋市場から明延への道路沿いの川原では、約2億年前の本州造山帯の一部である、但馬で一番古い火成岩が見られます。すでに閉山した明延鉱山は、金・銀・銅などを産出する、約2500万年前のグリーンタフ変動でできた浅所高温型鉱床で、近くには超塩基性変成岩の三郡帯の地質である、大屋鉱山、夏梅鉱山(いずれもニッケル)などもあります。
立雲峡・生野鉱山
立雲峡で知られる朝来山一帯は、約1億年前の老齢期の花崗岩が風化され、その中の堅く、風雪に強い閃緑岩の部分が山の中腹に集積していて、ロックガーデンの奇観を呈しています。
生野鉱山は、約2500万年の火山噴砕岩に熱水鉱脈が貫入して形成されました。また1億年前の、但馬最初の火山活動による火砕岩からなる鉱床に栃原山(明礬石:みょうばんせき)があり、これは流紋岩や凝灰岩が熱水作用で変化したものです。
但馬海岸
但馬海岸のほとんどを占める岩石は、約2500万年~数百万年前のもの。古い順でいうと、新温泉町浜坂の東に約7000万年前の流紋岩・凝灰岩があり、同じ頃の花崗岩が、田井ノ浜(新温泉町・旧浜坂町)、切浜(豊岡市竹野町)、安木(香美町香住区)などにあります。百層崖(ひゃくそうがい:香美町香住区)や、はさかり岩(豊岡市竹野町)などは、約2000万年前の火山活動による古香住湖の火山噴出物の堆積層で、浜坂西海岸の粗粒玄武岩質溶岩も同じころのものです。
1000~300万年前の噴火では、古香住湖の堆積層を覆うようにあふれた流紋岩・凝灰岩は、鎧の袖(香美町香住区)、但馬御火浦(たじまみほのうら:新温泉町・旧浜坂町、香美町香住区)などに見られる節理をつくりました。
氷ノ山・鉢伏高原
三郡帯の変成岩からなる品川関宮鉱山(クロム)、尾崎鉱山(クロム)、安井鉱山(アンチモン)は、新第三紀のものといわれています。妙見山や瀞川平は1000万年前にできたといわれ、褶曲(しゅうきょく)や断層面が林道でも見られます。海生動物の化石がみつかる妙見山は、海底で堆積した地層です。氷ノ山は、すぐ北の扇ノ山とともに、300万年前の鉢伏山の噴火でできました。扇ノ山の北、温泉町海上では昆虫や植物の化石が多数みつかります。
神鍋高原
神鍋山は1~2万年前の火山。玄武岩質であることから粘性の小さい溶岩を噴出したと思われ、その溶岩の一部は、JR江原駅近くの円山川河岸でもみられます。神鍋周辺には、品川美方、清滝、江原の鉱山があり、蝋石(ろうせき)を産出します。
玄武洞
玄武洞は、玄武岩質マグマが冷え固まるときに収縮してできた節理で、約160万年前の来日岳(豊岡市城崎町)の噴火によってできた岩石からなります。玄武岩の中には、鉄の酸化によってできた赤や黒の石が混じっており、地元で「灘石」と呼ばれ、石垣などに用いられました。7000万年前の凝灰岩は、豊岡市城崎町の今津石や楽々浦石として、土木建築に用いられています。
間氷期にはいると、現在の豊岡平野は海となり、その後、円山川・出石川流域に沖積層が堆積しました。

2011/06/22  

但馬の山【たじまのやま】

 

但馬の山【たじまのやま】

氷ノ山の頂を望む

神鍋高原より東床尾山を望む
スキー場の広がる但馬山地は、県下一の高さを誇り「兵庫の屋根」といわれる氷ノ山(1,510m)をはじめ、鉢伏山(1,221m)、扇ノ山(1,310m)など、1,000mを越える山々が連なっています。中国山地の東端に位置する但馬山地は、第三紀末の火山活動によって、なだらかな古い山並みの上に突き出すようにできた山々で、氷ノ山では、山頂部の荒々しい岩肌と、斜面に沿って流れた溶岩によってできたゆるやかな斜面が対照的です。
山頂平坦部の周辺の谷は急崖となって、いたるところに滝や渓谷ができ、浸食が進み、荒々しい岩肌を見せる急斜面が多い、壮年期的な山地です。山頂周辺の厚い溶岩台地の末端部には、霧ヶ滝、瀞川滝、不動滝、天滝など、多くの美しい渓谷ができ、ハイキングコースとなっています。ゲレンデの多くは標高600~800mの高原ですが、鉢伏高原では1,221mの山頂までリフトで登れ、南に氷ノ山の樹氷や白銀の尾根を望む山頂からの眺望がすばらしく、別世界のようです。
但馬山地には、神鍋山や宝山(夜久野高原)など、第四紀にできた新しい火山もあります。お椀を伏せたようなスコリア丘は、形も崩れず、すり鉢のような火口を広げています。しかし、森林伐採の波に浸食されて、ブナ、トチ、ナラなどの原生林が次々に伐採され、山頂部や渓谷の一部に残るだけとなっています。

かつて山には多くの木地師が住み、住居を転々と移しながら、豊かな原料に支えられて「ろくろ」を回していましたが、今はその跡もありません。
冬の白銀の山々も、ザゼンソウやミズバショウなど高山性の草花が咲き乱れる春を迎え、夏は深山幽谷のうっそうとした森となり、秋には紅葉に彩られて、四季それぞれに美しく、氷ノ山後山那岐山国定公園に指定されています。
標高1,000mの畑ヶ平高原では、火山灰層などから旧石器時代の石器が、また、標高600mの鉢伏高原や兎和野高原では縄文遺跡が発見されました。

但馬の代表的な山を紹介しました

2011/06/22  

法雲寺【ほううんじ】

 

法雲寺【ほううんじ】

法雲寺
・香美町村岡区村岡2365


山名史料館・山名蔵
TEL0796-98-1151

●関連情報
法雲寺

●村岡山名氏の菩提寺
 村岡山名氏の菩提寺。寺内の御霊屋には太祖・義範公以降の位牌が奉安されています。記録によると「法雲寺(ほううんじ)」という名は、 村岡山名氏三代・矩豊公が寛永19年(1642)に村岡に入部した際に、在郷の禅院を山名家の菩提寺と定め、命名したものです。以前は「報恩寺(ほうおんじ)」と呼ばれていました。
現在の村岡周辺は南北朝時代から七美(ひつみ)の庄と呼ばれており、庄内のほとんどは花園・妙心寺(臨済宗)第二世授翁宗弼(じゅおうそうひつ)の荘園でした。後醍醐天皇の側近で建武の中興の功労者だった宗弼が永和元年(1375)、80歳の時、七美庄に「報恩寺」(ほうおんじ)を建立しました。
その後、南北朝から室町へと時代が進むにつれ、荘園の形態も弱体化し、報恩寺の荘園を管理する役目は終わり、土地の為政者の祖先供養が重要な役割となりました。
元禄年間、 矩豊公が藩都を村岡の地に移し、鎌倉時代以来の宝牌を「法雲寺」に納め、名門山名宗家としての祭祀を尽くしました。寺の名前は二代・矩政公の法名「法雲」(ほううん)をあてはめたそうです。寺名の変更と同時に、法華経の信仰者だった矩豊公は宗派を臨済宗から日蓮宗に変更しました。
しかし、当時徳川将軍家は「天台宗」と「浄土宗」を信仰しており、矩豊公は御伽衆と言う将軍に近しい役職上から、その後「日蓮宗」から「天台宗」へと宗派を再び変更しました。以来二十代の住職によって現在まで引き継がれています。
境内の山名史料館には山名氏に関する武具・什器・文書などが展示されており、山名氏の栄光と共に歩んできた町の歴史を伺い知ることができます。

2011/06/22  

黒野神社【くろのじんじゃ】

 

黒野神社【くろのじんじゃ】

黒野神社
・香美町村岡区村岡

・絹本著名釈迦十六善神像
国指定

●南北朝時代の釈迦十六善神像を所蔵

延喜5年(902)12月、藤原忠平等が撰上した「延喜式」神名帳に黒野神社の名が掲載されています。黒野神社が所蔵している「絹本著名釈迦十六善神像」(縦130.3cm 幅58.5cm)は南北朝時代のものといわれ、国指定重要文化財に指定されています。また、「貴徳面」(縦20cm 横15.5cm)は鎌倉時代のもので、町指定文化財に指定されています。

2011/06/22  

三川権現社【みかわごんげんしゃ】

 

三川権現社【みかわごんげんしゃ】

三川権現社
・香美町香住区三川
●山岳修験道の行場として栄えた日本三大権現のひとつ
ブナやシャクナゲが群生する香美町香住区の三川山は、古来より山岳修験道の行場として栄えた古霊場です。 修験道の開祖といわれる役行者(えんのぎょうじゃ)が674年に蔵王権現を勧請して開いたと伝えられています。 三川権現は、 大和の大峯山、伯奢の三徳山と並び、日本三大権現に数えられ、かつては歴代の国主、諸公をはじめ一般の人々の信仰も篤く、隆盛を極めていました。

しかしふもとにある三川権現社は、天文7年(1538)、雷火によって奥の院を焼き伽藍を焼失します。その後一時再建されますが、天保3年(1832)に但馬有史以来といわれる山津波(土石流)によって全ての建造物を流失、埋没してしまいました。
出石城主仙石氏や村岡城主山名氏らが再興を計り、高野山大僧正と信徒らが蔵王堂を再建して、現在の三川権現社があります。
現在、5月3日の山開きには全国各地から山伏や行者が集まり、三川権現蔵王堂前で盛大な護摩供養が行われます。「知恵の火で煩悩を焼く」という護摩供養は、積み上げた護摩木に火をつけ、参拝者が願いを込めた小木を炎の中に投げ入れるという火の祭で、家内安全や海上安全、無病息災など所願の成就が祈られます。

また、三川権現には「ぽっくり尊」という、老いてから大往生できるという仏様も祀られています。苦しみを身替わりに背負ってくれるという代苦仏です。さらに全国観音霊場(四国、西国、板東、秩父の合計188ケ所)のお砂文があり、ここに来れば一度に巡ることができるようになっています。
今も修験道の地として知られる三川権現、近年は年間を通して多くの参拝客が訪れています。

2011/06/22  

小代神社【おじろじんじゃ】

 

小代神社【おじろじんじゃ】

小代神社
・香美町小代区秋岡

・小代スギ
国指定特別母樹林

●燈明杉の伝説を残す、歴史ある神社
もとは「神明宮」と称していましたが、明治3年(1870)の神仏引分の際「小代神社」と改められました。延喜5年(905)からつくられた「延喜式」神名帳に小代神社二座と記載されており、その歴史は古く由緒正しい神社です。 伝説によると、元和元年(1615)、大坂浪士の上田上野介政広の息子、上田新右衛門政英が、夢に現れた老翁のお告げ通り、輝く杉の木から顕われたご神体を神社に祀ったといわれています。
後にこの杉の木は燈明杉と呼ばれ、樹齢1000年といわれる今も社殿の裏で高々とそびえています。
山腹に建てられた小代神社には他にも様々な木々が生育し、トチノキ、夫婦スギ、ハリモミなど、巨樹としても有数のものがあります。本殿脇にある夫婦スギは長い年月の間に2本の木が合体した珍しいもので、名前の由来にもなっています。樹高は40m以上あり、雄大な姿で繁茂しています。 社叢を構成するスギは雪に強く、材質も優れていることから植林用スギ品種「小代スギ」として国指定特別母樹林に指定されています。
かつて神社で行われていた例祭には数多くの参拝者があったといいます。「但馬秘鍵抄」という古書に、小代神社祭神に蒼稲魂命、牛知魂命を祀るとされているため、畜産守護の神として、崇敬されていたようです。
また、縁結びの神、安産の神ともいわれ、多数の青年男女が参詣していました。様々な伝説を残す小代神社、今は信仰の上からだけでなく、森林が繁茂する幽玄な地に惹かれて、足を運ぶ人もいます。

2011/06/22  

三川権現大祭【みかわごんげんたいさい】

 

三川権現大祭【みかわごんげんたいさい】
三川権現大祭
三川権現大祭
(香美町香住区)
・香美町香住区三川三川権現社
5月3日
 

三川権現大祭
・香美町香住区/三川権現社/5月3日

氷ノ山・後山・那岐山国定公園にある三川山は、シャクナゲやブナの原生林が群生する自然豊かな山。ここは、古来より山岳宗教、修験道の行場として栄え、開山役行者神変大菩薩によって蔵王権現を祀る霊山でした。大和の大峯山、伯耆の三徳山と並んで、日本三大権現のひとつに数えられています。ふもとにある三川権現蔵王堂前では、毎年5月3日、全国各地から集まる山伏によって、護摩供養が行われます。太い護摩木を高く積み上げ、桧葉で覆い、火矢を放つなどして点火します。参拝者が小木に願いを託し、燃える炎に投げ入れて所願の成就を祈る火の祭です 。