2011/11/20  

今滝寺【こんりゅうじ】

 

今滝寺【こんりゅうじ】

今滝寺
・養父市八鹿町今滝寺

・鰐口(工芸品)
・木造金剛力士立像(彫刻)
・孔雀明王像(絵画)
・弁才天像(絵画)
・両界曼荼羅図(絵画)
・十六羅漢図(絵画)
県指定文化財

●鎌倉時代中期の特徴を表す「金剛力士立像」
山名四天王として知られる八木城主八木氏の菩提寺で、延久元年(1069)に創建とされています。当初は本堂を中心に九院三坊の寺院がありましたが、現存するのは本堂と仁王門だけです。仁王門の「木造金剛力士像」は、墨書銘から正嘉元年(1257)に制作されたもので、仏師は阿形像が澄玄、吽形像が淡路公と判明しました。彫刻は素朴かつ重厚で、鎌倉時代中期の特徴を表す力強い力士像です。
また、仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種である「鰐口」は金口、金鼓とも呼ばれ、今滝寺に残るものは圏線が細く、繊細な鋳造がなされています。応永23年(1416)に寄進されたものです。

2011/11/20  

浅間寺【せんげんじ】

 

浅間寺【せんげんじ】

浅間寺
・養父市八鹿町浅間

・木造薬師如来坐像
(彫刻)
県指定文化財

●戦国武将・八木氏の庇護を受けた古刹
兵庫県の文化財に指定されている浅間寺の薬師如来坐像は、高さ110センチの寄木造り。衣を朱で彩色し、一見、穏やかなイメージの中にも厳しさを感じられる雰囲気を持ちます。頭部の螺髪は細やかで、衣の彫りも浅いことから、平安時代後期の藤原文化によるものとされています。
戦国武将の八木氏の庇護篤く、薬師如来坐像・十二神将像の修復、日光・月光菩薩像の制作は、元亀4年(1573)に八木城主・八木豊信の命によるものです。
また、薬師如来坐像を守護する武神「十二神将像」は、武器を持った甲冑姿で、それぞれの頭上に小さく十二支の形が彫られています。

2011/11/20  

蔵雲寺【ぞううんじ】

 

蔵雲寺【ぞううんじ】

蔵雲寺
・豊岡市但東町中山

・絹本著色十六羅漢像
(絵画)
県指定文化財

●室町時代の画僧・明兆作の十六羅漢図
室町時代の画僧「明兆」の作といわれる「絹本著色十六羅漢図」は県の文化財に指定されています。明兆は、北宋の李竜眠から画法を学んだ後、初の寺院専属画家として大成した人物。兵庫県淡路島に生まれ、京都・東福寺に入り、殿司の役(禅寺にて本堂を司る)を務めたところから兆殿司と呼ばれ、東福寺のために多くの仏像や頂相を制作しました。
この蔵雲寺の十六羅漢図は4幅入り4重の桐箱に収納され、中国の仏画を手本とした新しい水墨画の技法を見ることができます。

2011/11/20  

帝釈寺【たいしゃくじ】

 

帝釈寺【たいしゃくじ】


帝釈寺
・香美町香住区下浜
木造聖観音立像
・国指定重要文化財

 
●帝釈天を安置する平安時代の歴史ある古刹
帝釈寺は702年道照により再建されたという帝釈天を安置する古刹です。帝釈天とはヒンドゥー教などの武神であるインドラと同一の神で仏教に取り入れられ、梵天と並んで仏教の二大護法善神になりました。本堂には本尊帝釈天像が安置されています。また、脇仏の木造聖観音立像は国指定の重要文化財で、厄除け観音としても広く信仰されている仏像です。この木造聖観音立像は檜の一本造りで両手のほとんどまで同じ木で彫りだされています。両手は痛んで失っていますが、左手は蓮華を持ち、右手には与願印であったと考えられています。裳裾の両側は引き上げられ、上瞼は直線的で平安時代の特徴をよくあらわしています。

※拝観は事前に予約が必要です。

2011/06/22  

相応峰寺【そうおおみねじ】

 

相応峰寺【そうおおみねじ

相応峰寺
新温泉町(旧浜坂町)清富
・木像十一面観音菩薩立像
国指定彫刻
・絹本著色 両界曼茶羅図2幅
絵画 県指定文化財
・圓通殿 県指定文化財
●平安時代の写実的で精密な十一面観音立像を安置
浜坂湾に突き出た岬の山頂、相応峰寺は古く天平のころ(729~748)に開かれた天台宗の寺院です。観音堂には平安時代前期の国指定重要文化財にも指定されている十一面観音立像が安置されています。 2mを越す大像、両手両足のほとんどを一木で刻み出しています。人間的で量感があり写実的、着衣のひだや裳裾(もすそ)など鋭く精密に刻み込まれ、全体の均整がとれて、しかも力強さがみなぎる作品です。唐から都(中央仏)に入ってきた但馬ではめずらしい檀像派の作品と考えられています。

2011/06/22  

正楽寺【しょうらくじ】

 

正楽寺【しょうらくじ】

正楽寺
・美方郡新温泉町前
・鰐口
県指定文化財(工芸品)

●室町時代から伝わる仏具が納められた寺

開創した年代は不明ですが、江戸時代の1837年に隣家の火災で焼け、再建されたとの記録が残っています。
寺に保管されている「鰐口」(仏堂の正面軒先につり下げられる、金属製梵音具の一種)は銘帯の左右に「応永三十五年(1428年)戊申三月八日」と記されており、憧座には美しい蓮華が浮き彫りされています。室町時代の貴重な文化財でもあり、この寺の歴史の古さをうかがい知ることができます。

2011/06/22  

善住寺【ぜんじゅうじ】

 

善住寺【ぜんじゅうじ】

善住寺
・新温泉町熊谷・木造阿弥陀如来坐像
(彫刻)
県指定文化財

 

●桧一本木造り坐像「阿弥陀如来像」を安置
長保元年(999)覚増上人によって開かれたとされており、不慮の火災で大部分を消失してしまった後、宝暦12年(1763)に再建され、現在は立派な姿を受け継いでいます。斗拱、虹梁など優れた彫刻が施された「阿弥陀堂」には、釈尊をはじめとする十六羅漢が彩り豊かに描かれた但馬最古の「天井画」があり、共に平成10年(1998)町指定文化財に登録されました。
その堂内に安置される桧一本木造りの坐像「阿弥陀如来像」は室町時代初期のものとされており、昭和38年(1963)に県指定文化財に登録されています。上半身、顔立ちははっきりしており、堂々としたその姿からは力強さを感じます。

2011/06/22  

玉田寺【ぎょくでんじ】

 

玉田寺【ぎょくでんじ】

玉田寺
・美方郡新温泉町七釜
・石造宝篋印塔
県指定文化財(建造物)

宝篋印塔

●県内最古の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残る寺院

室町時代の応永年間(1394~1428年)、南溟禅師によって開創したと伝わる、臨済宗大本山天竜寺派の寺院です。当初は退耕庵と称していましたが、1648年に現在の退耕山玉田寺へと号を改めました。江戸時代後期の1777年に本堂を建立し、本尊は地蔵菩薩を拝み安産の守護仏として地元の信仰を集めています。
境内の「宝篋印塔」には1314年の銘があり、この塔は大阪府の廃寺にあったものを旧浜坂町の実業家・細見良が手に入れ、1975年に故郷の玉田寺に寄進したものです。鎌倉時代後期の様式をよく残した塔で、現在は県指定文化財であり第二次世界大戦における戦没者の供養塔となっています。

2011/06/22  

大林寺【だいりんじ】

 

大林寺【だいりんじ】

大林寺
・朝来市山東町森

・鰐口
県指定文化財

●但馬最古の鰐口が残る、由緒ある古刹
 今は廃寺となり観音堂を残すのみとなっている大林寺ですが、伝承からみると由緒ある古刹です。御本尊は千手観音で、かなり古い作と思われる不動明王も祀られています。
和銅3年(710)、藤原鎌足の次男である不比等が浄財を寄進し創建されたと伝えられています。創建当時は七堂伽藍僧房十二院もあり、寺領も2400石あったといいます。寺跡周辺の地名に、藤房・尾房・藤覚房・惣治房・桜本房・大房・松尾房等々と坊跡をかたるものが残っているのは、当時の名残りです。
さらに、 武蔵坊弁慶が大林寺の鐘を摂津摩耶山(現神戸)に運んだという伝説が残っており、的場という地名が残っていることとあわせて、一時は僧兵も在住していたと考えられています。
また、松尾坊跡から出土した鰐口は嘉慶2年(1388)につくられたもので、在名鰐口としては但馬最古のものであることからも、かつての隆盛が想像されます。
この鰐口は青銅製で、直径45cm、厚さ15cm、重さ19kg。撞座に優美な蓮華を表し、銘帯の上部に「但馬国」、右方に「大林寺 願主五郎左衛門尉幸信」(当地の豪族の名)、左方に「重慶2年戊辰正月十八日 大工橘守正」の刻文があります。貴重な工芸品として県の文化財に指定されています。
天正5年(1577)、豊臣秀吉の但馬攻略にともない、2400石といわれた寺領は没収され、さらに慶長5年(1600)、堂塔僧房全焼の被害に遭い、大林寺は急速に衰微していきました。寛文12年(1672)と弘化4年(1847)に修復し、万延元年(1860)に再建されたのが、現在残っている堂だといわれています。しかし明治6年(1873)、ついに廃寺となりました。但馬西国十九番の札所として「ちかひにや げにみどりの子の宝をも ひとしくたまふ しづの女までに」という巡礼歌が 残っています。

2011/06/22  

宗鏡寺【すきょうじ】

 

宗鏡寺【すきょうじ】


宗鏡寺
・豊岡市出石町東條

・宗鏡寺本堂庭園
県指定名勝

●別名沢庵寺、沢庵の名園や復元された庵がある
入佐山のふもと、山名氏の菩提寺として明徳3年(1392年)山名氏清によって創立されました。寺名は氏清の法号、宗鏡寺殿から名付けられたとも言われています。しかし、山名氏滅亡後、寺は荒廃してしまい、元和2年(1616年)沢庵和尚が、出石城主小出吉英に再興をすすめ、以後歴代の藩主の加護を受けてきました。 沢庵手造りの名園があり、 昭和43年には、 沢庵が庵を建て静かに生活を送ったとされる投渕軒が復元されています。沢庵和尚ゆかりの寺として、「沢庵寺」とも呼ばれています。