2011/06/22  

金蔵寺【こんぞうじ】

 

金蔵寺【こんぞうじ】

金蔵寺
・朝来市生野町口銀谷

・銅鐘
県指定重要文化財

●池之間に変遷が刻まれた鎌倉時代の名鐘

社寺縁起には「京西本願寺派 興正寺末 金蔵寺」と記されています。親鸞聖人日本国内巡錫地として二十四ケ寺がありますが、金蔵寺は同聖人の親筆すなわち「柳の名号」があるため、巡錫地同様の所遇によるものであると言われています。山門の板札は「二十四輩」と書かれています。
また、金蔵寺の銅鐘は文永4年(1267)に鋳造された名鐘です。700数十年の歳月を経ており、その上に以後の変遷が池之間に刻み込まれた珍しい存在です。物資不足の戦時中、金属類は次々と没収されましたが、この鐘だけはただひとつ残されました。昭和58年、県の文化財に指定されました。

2011/06/22  

竹田城跡【たけだじょうせき】

 

竹田城跡【たけだじょうせき】


竹田城跡
・朝来市和田山町
・国指定史跡

●関連情報
朝来市役所

●別名「虎臥城」勇壮な石積み全国屈指の山城
竹田城は、嘉吉年間(1441~43年)、但馬の守護大名、山名宗全が出石城の出城として播磨・丹波から但馬への侵略路へ位置するこの地に13ヵ年を費やして築いたと伝えられています。当時は、土塁をもとに作られた城と考えられ、山名氏の武将、太田垣氏が5代にわたって城主となり治めました。しかし、天正5年(1577)、秀吉の2度の但馬征伐で竹田城は落城、山名氏とともに太田垣氏は没落します。

その後、秀吉の弟秀長の属将的な地位にあった桑山修理太夫重晴、続いて播磨龍野城主赤松政秀の子、赤松広秀が城主となります。広秀は朝来郡2万2000石を領有し、文禄年間から慶長の初期(1600年頃)に、現在のような豪壮な石垣積みの城郭を築きます。竹田城の最後の城主、赤松広秀は、関ヶ原の役で西軍に属し敗北。その後、徳川方として鳥取城攻めに加わり戦功をあげますが、城下に大火を放ったとの罪を押しつけられ自刃。竹田城は廃城となりました。
竹田城の石垣の積み方は、織田信長の安土城と同じ技術で、自然石を石の声を聞きながら積むと言われる近江穴太衆の手による穴太流石積み技法が用いられています。
その姿は、虎が臥せているようにも見えることから、別名「虎臥城」とも呼ばれています。
山の地形を巧みに活用し防御に対する配慮の綿密さなどから考えると、よほど堪能な人の手による構築といえます。規模は南北400m、東西100m。完存する遺構としては、全国屈指のもので、国史跡に指定されています。

2011/06/22  

赤淵神社【あかぶちじんじゃ】

 

赤淵神社【あかぶちじんじゃ】

赤淵神社
・朝来市和田山町枚田
・本殿
国指定建造物
●室町初期の蟇股、懸魚、妻窓など建築様式を残す

枚田内高山の麓、507年に創建されたと伝えられる式内社。現在の本殿は、室町時代初期に建てられ、国の重要文化財に指定されています。三間社流造、こけら葺、桁行4.8m、梁間3.1m、正面と両側面に高欄付縁をめぐらせています。身舎部は内陣と外陣に分かれ、正面には格子をはめ、中央には階段を設けています。再三改修のあとはありますが、蟇股(かえるまた)、懸魚(げぎょ)、妻窓などに当時の建築様式を残しています。
また、勅使門は元禄7年(1694)に八木城主・八木勘十郎宗織が大願主となって再建し、寛政9年(1797)修理したと伝えられています。四脚門様式で材質は欅(けやき)が使用されています。

本殿に付随して指定された棟札には次のように記されています。
1 修造干時元和八年卯月吉日(1622)
2 正保五年卯月吉日(1648)
3 寛文乙巳五年三月十六日(1665)
4 奉修覆 元禄七年甲戌暦九月吉祥日(1694)
5 奉修覆 元文五庚申天四月十六日(1740)
6 奉修覆 宝暦十庚辰天五月吉日(1760)
7 奉修覆 天明五乙巳六月十五日(1785)

さらに、平成3年度には文化庁の補助により、「平成の大修理」といわれる本殿と履屋を改修しています。

2011/06/22  

但馬五社【たじまごしゃ】

 

但馬五社【たじまごしゃ】
但馬を南北にわたる絹巻神社・出石神社・小田井神社・養父神社・粟鹿神社、この5つの神社を総称して「但馬五社」といいます。各神社間は約12km、お正月にはこの五社をめぐると大変御利益があるとされ、露店も並び、多くの参拝者で賑わいます。


絹巻神社
・豊岡市気比
●絹巻神社(きぬまきじんじゃ)
亜熱帯の鎮守の森に海の神様を祀る

天衣織女(あめのいおりめ)命・海部直命を祀り、全国でも珍しいおしりをあげた狛犬があります。以前は前方にありましたが、港大橋架設のため現在の位置に移動しました。
周囲は暖地性原生林で面積1万2千平方メートル余りに、シイ、クスノキ、サカキ、ダブ、ヤマザクラ、ツバキなど温帯、亜熱帯の樹木が生い茂り、県の天然記念物に指定されています。

 



小田井神社
・豊岡市小田井
●小田井神社(おだいじんじゃ)
国作大己貴命を祀る

延喜式神名帳(905)に記されいる式内神社で、国作大己貴(くにつくりおおなむち)命を祭神に祀っています。弘安年中(1278~87)の但馬大田文には、小田井社々領31町3反あまり神供田25町1反あまりとあり、当時は神仏習合で社家(四社)、社僧(4ヶ寺・金剛、妙楽、正法、三坂)が祭事をとり行っていたとされています。
しかし、天正3年(1575)、戦で森に火を放たれ焼失、ご神霊はみこしで一日市に火難を避けられたと伝えられています。同じ天正年中、羽柴秀吉が中国征伐に陣営を置き、多くの神領・神供田を没収、社家社僧は離散してしまいました。貞享年間中(1684~87)に社殿を再興し、鳥居を建て、元文年中(1736~1740)に神殿を改造しました。
昭和になってから、円山川河川工事で移転や境内の改築が行われ、現在に至っています。

 



出石神社
・豊岡市出石町宮内
●出石神社(いずしじんじゃ)
但馬開発の祖神、天日槍命を祀る

但馬一の宮といわれ、祭神は但馬開発の祖神、天日槍(あめのひぼこ)命と八種の宝が祀られています。天日槍は朝鮮半島から日本に渡来した人々が信仰した神様だと考えられています。出石神社由来記には天日槍が、その当時入江湖であった但馬地方を瀬戸の岩戸を切り開いて耕地にしたと記されています。
「祭具の鉾・首部」を所蔵し、天日槍命は太陽光の化身とも、祭具としての鉾の擬人化ともいわれています。また、龍が鉾に巻きついている姿は歌舞伎の柱まき(柱に手と足をかけみえをきること)の原型ではという説もあります。

出石神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の一宮縁起には谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀って、天日槍命を祀ったと伝えていますが、諸書によると奈良朝時代すでに山陰地方の有数の大社であったことがうかがわれます。

境内の門の脇に鳥居の一部が置いてありますが、これは出石川改修の際、川から出土したもので、平安時代のものだといいます。出土した付近は今でも「鳥居」という地名で、かつては一の鳥居、二の鳥居があったとされ、二の鳥居の一部ではないかといわれています。
現在の社殿は大正3年に再建され、本殿は三間社流れ造りで南に面しています。拝殿は舞殿形式で入母屋造り平入りで蔀戸をつり、正面に身舎の屋根と独立した平唐破風出桁の向拝は他に類のない珍しい建物です。

 



養父神社
・養父市養父市場
●養父神社(やぶじんじゃ)
農業・養蚕・牛馬の神、倉稲魂命など五柱を祀る

延喜式の式内大社で、天平9年(737)但馬税正帳にも出石神、粟鹿神と共に名を連ねる古い宮です。鎌倉時代には多くの社田を持ち、三重の塔、堂、坊をもった神宮寺のあったことも知られています。現在の社務所は江戸時代の別当寺、普賢寺です。
祭神は農業・養蚕・牛馬の神、倉稲魂(うがのみたま)命をはじめ大己貴命、少彦名命、谿羽道主命、船帆尼命の五柱を祀っています。春の大祭、八十八夜祭など年間多くの祭りがあり、春の桜、秋の紅葉など信仰、名所としてにぎわいます。また、但馬の3大祭りに数えられる「お走りまつり」が伝えられ、4月15日から16日にかけて、御輿が町内を横断し、約18km離れた斎神社へお参りを行います。特に15日の大屋川渡りは圧巻です。

 



粟鹿神社
・朝来市山東町粟鹿
●粟鹿神社(あわがじんじゃ)
約600年前に国家平癒を祈願、勅使門を建立

但馬国一の宮、延喜式に定める明神大社で、阿米弥佐利命が主祀神で、その他、諸々の神々が祀られています。創建は古く崇神天皇の頃と伝えられています。神徳高き神社として朝廷の尊崇が厚く、約600年前には国家の大難に際して4度の勅使が派遣され、そのご加護として勅使門が建てられたとされています。 当地方における数少ない遺構の一つとして貴重です。 本柱間の両開きの唐戸は、透かし彫りの欄間をつけ、羽目板には鳳凰が刻まれ、 頭貫には唐草模様が見られます。
また、御本殿裏の御塚には、日子坐王命が葬られ御陵として崇められています。境内の末社も由緒があり、1,540坪に及ぶ神域の社叢林は深厳な景観を形成し、町指定天然記念物です。

2011/06/22  

青倉神社大祭【あおくらじんじゃたいさい】

 

青倉神社大祭【あおくらじんじゃたいさい】
青倉神社大祭
青倉神社大祭
(朝来市)
・朝来市川上青倉神社

4月25日・10月25日

 

青倉神社大祭
・朝来市/川上青倉神社/4月25日・10月25日

「目の神様」として霊験あらたかな神社として知られる青倉神社。その由来は、この地を訪れた役の行者の目にウドの葉の小さなトゲが刺さり、岩のすきまから流れ出る水で洗い、眼の痛みをとったとされています。行者は山を下り、村人達にその岩間の水のことを「神水」と名付け、神水のそばにそそりたつ大岩を「ご神体」と定めたことから、近隣の村人が道を着けたり祠を建てるなどして、青倉神社が出来ました。事実、この水はホウ酸を良く含み、科学的にも目に良く効くことが分かっています。
4月25日・10月25日に行われる大祭当日は、山上にそびえる青倉神社で祈祷が行われます。ふもとの善隆寺ではもちまきが行われ、また、露店も出てたくさんの人出で賑わいます。

但馬の養蚕【たじまのようざん】

 

但馬の養蚕【たじまのようざん】
繭
養蚕秘録
養蚕秘録3巻

養蚕の起源や歴史、種類、育飼法、桑の栽培などをたくさんの絵図を使って集大成されたもので、誰にでもわかりやすく技術を解説しています。

■上垣守国養蚕記念館
・養父市大屋町蔵垣

・TEL.079-669-0120
(養父市大屋地域局)

・午前9時~午後5時
・年末年始休館

・入館料/無料

●関連情報
養父市役所

●養蚕の歴史
但馬は古くから養蚕が盛んでした。元禄10年(1697)に桑の名産地としての但馬をつづった「農業全書」も発行され、特に江戸中期には、新しい理論や技術が導入され、養蚕業は飛躍的に発展しました。

●養蚕の技術を高め、ひろめた人々
養父市大屋町蔵垣生まれの上垣守国(もりくに)は、蚕飼いの高い技術や新しい養種を但馬各地にひろめ、質のよい繭づくりの普及に尽くしました。この実践をもとに、享和3年(1803)に発行した「養蚕秘録」全3巻は、技術書としての評価が高く、フランス語やイタリア語にも翻訳され、世界的にも普及し、日本における技術輸出第1号といわれています。
また、同じ養父市大屋町出身の正垣半兵衛も新しい蚕種を但馬各地に普及させ、明治時代には但東町赤花の橋本龍一や、養父市大屋町古屋の小倉一郎が奥深い山里で機械製糸業を起こし、養蚕製糸業の近代化と発展に大きな業績を残しました。

●その後の養蚕

但馬地方はこうした先人たちの努力によって優良な繭の生産地となり、機械製糸が地場産業として栄えました。養蚕製糸業は大正・昭和の経済恐慌の時には、但馬の農家を助けた大切な副業であり、重要な輸出産業でした。しかし、昭和20年代半ばになると、ナイロンなどの新素材・技術が開発され昔の面影は失われていきました。

但馬杜氏【たじまとうじ】

 

但馬杜氏【たじまとうじ】
升酒

長年の知識と技術
但馬杜氏が造り出す
甘露の雫。
麹づくり
麹づくり
香りや風味の成分となる麹をつくる作業。酒つくりの中で最も神経を使う重要な仕事とされています。

●関連情報
新温泉町役場

●但馬人気質が造りだす甘露の雫
但馬では、特に雪深い地方の人たちが冬季の働き場所を求め、出稼ぎとして、全国各地に酒造りに出かけました。杜氏とは酒造りの最高責任者のことです。酒造りは杜氏・蔵人(くらびと)のグループが、新米の刈り入れの終わる10月頃から翌年の春まで、約6~7カ月の間、家を離れ、酒造会社の蔵元に泊まり込んでおこなわれます。蔵によって人数は異なりますが、数人から20人程度の蔵人がチームをつくり、杜氏の指導のもとで酒造りの作業をおこないます。「一蔵一杜氏」といわれるように、杜氏の数だけ酒の種類があるといわれています。
但馬の人は、慎重で誠実、質素にも耐えて思いやりがあり、粘り強い精神力があります。長年の知識と技術の蓄積が今日の但馬杜氏を生みだしました。

●記録に残る但馬杜氏
記録に残るものでは、天保8年(1837年)大阪でおこった大塩平八郎の乱に関連して、大和郡山にいた小代庄城山(香美町小代区)出身の杜氏、藤村某が登場します。藤村はこの地方の代表格で、城主の信頼も厚かったといいます。この時代から、すでに数多くの但馬の杜氏が地方に出かけていたことがわかります。
平成4年の記録では、全国の杜氏は1,754人、但馬の杜氏は全体の1割を占め、近畿を中心に中国・四国・北陸などで活躍していました。しかし、その数も20年前と比べると4分の1、5分の1に減少し、高齢化も進んでいます。また、冬季の出稼ぎシステムも時代にそぐわなくなってきています。最近、酒造りも機械化されてきましたが、手づくりの味の魅力は依然として重宝されています。

2011/06/22  

安積理一郎【あづみりいちろう】

 

安積理一郎【あづみりいちろう】
安積理一郎
(1826-1872)
文政9年に朝来市和田山町に生まれる。幕末の儒学者・池田草庵の門弟。故郷・和田山で私塾を開き、地元の若者を育てた。
●但馬聖人・池田草庵の愛弟子
文政9年(1826)、朝来市和田山町に生まれた安積理一郎は、幕末の儒学者・池田草庵の門弟の1人です。
草庵が養父市八鹿町宿南に開いた私塾「青谿書院」で、師の教えを受けました。幕末期、政局が混乱する京都で朝廷と幕府の動向をいち早く草庵に伝えたと言われています。
草庵の教えは自分が模範を示して門弟を教育する率先垂範の教育。理一郎も草庵の背中を見て、教えを自分のものにしていきました。
塾内の門弟はトイレで用を足すときにも本を読んでいたという伝説が残っています。青谿書院からは理一郎を始め、政財界で活躍した北垣国道、原六郎など、明治の時代を担った優秀な人材を輩出しています。
晩年は、故郷・和田山で私塾を開き、地元の若者へ草庵から学んだ知識を伝授。のち後輩の育成に情熱を注ぎ、明治5年(1872)、46歳でこの世を去りました。

2011/06/22  

心諒尼【しんりょうに】

 

心諒尼【しんりょうに】
心諒尼
(1765-1843)
島流しとなった祖父を捜し訪ね、看病する。祖父の死後も菩提を弔った。その孝行の話は地元で語り継がれている。


心諒尼墓標


法宝寺のクスノキ

●祖父を弔う孝行者
朝来市和田山町東河地区で語り継がれている、心諒尼。その心温まる物語は江戸時代にさかのぼります。
元文3年(1738)、生野代官支配下で百姓一揆が起こり、死罪6人を含む23人の犠牲者が出ました。その中に、首謀者のひとりで当時35歳であった野村の小山弥兵衛は、ほかの8人と一緒に今の長崎県壱岐島へ流罪となります。
弥兵衛は心諒尼の実の祖父。時は移り、祖父の健在を知った心諒尼は、祖父に会いたい一心で桐葉寺(朝来市山東町)に入り、金鐘尼として修行すること十数年。師の許しを得て、祖父を訪ねて壱岐島に渡り、祖父の介護をしました。
そして、3年後に、80歳で祖父が亡くなると 遺骨を携えて帰郷。まもなく、円明寺(朝来市和田山町宮)の門に入り、法名を心諒と改め、水月庵を再興しました。
その後は、祖父の菩提を弔いつつ、4人の弟子を育成し、村の女性たちに生け花や茶道などを教え、平和な日々を過ごしました。天保14年(1843)、至誠一貫の生涯を79歳にして閉じたと伝えられています。
現在でも東河地区には、心諒尼の墓標、祖父の小山弥兵衛の墓が残されています。また、法宝寺(朝来市和田山町)にあるクスノキは心諒尼ゆかりの木。弥兵衛が自分もこのとおり健在であることを国の者に知らせたいと願い、心諒尼にクスの苗を3本持たせました。法宝寺のクスノキはその内の1本だとされています。

2011/06/22  

浅田貞次郎【あさだていじろう】

 

浅田貞次郎【あさだていじろう】
浅田貞次郎
(1855-1942)
安政2年に兵庫県神崎郡神崎町で生まれる。生野銀山払い下げに際し、御下賜金が生野町民に下賜されるよう尽力した。
●生野銀山の地役人へ養子に入る
旧生野町の発展に多大な貢献をした浅田貞次郎は、安政2年(1855)に福本藩士(兵庫県神崎郡神崎町)の四男として生を受けました。17歳の時に、生野銀山の地役人・浅田家の養子となります。地役人とは、代々、生野代官所に仕えた役人のことです。以後、浅田貞次郎はこの銀山のために東奔西走します。

●御下賜金が下賜されるよう奔走
生野の人々の信頼を集めた貞次郎は、銀山廻り11町村の戸長に就任。その後、兵庫県議会議員を経て衆議院議員となり、国政に従事しました。
明治29年(1896)、当時宮内省所轄の官営であった生野銀山が、民間へ払い下げられることになります。貞次郎は町民の永年にわたる協力を政府に訴えるため、町民の代表として上京。宮内大臣や関係役人と交渉を重ね、生野町に当時としては莫大な金額の六萬九千円が下賜されることに貢献しました。町は御下賜金を元に町政の振興を図り、但馬でもいち早く近代化した町となりました。
その後も、貞次郎は生野町の発展に力を注ぎます。交通の近代化なくしては、産業の発展はないと考え、明治29年(1896)に姫路~生野間に播但鉄道を開設。官営の山陰線も開通していない当時としては、画期的な事業でした。
さらに、道路の路面補修、教育発展のために育英金や助成金を私財を投じて捻出するなど、町の振興に多大な貢献を果たしました。その功績を讃え、紺綬褒章・緑綬褒章を授与されました。