但馬の養蚕【たじまのようざん】

 

但馬の養蚕【たじまのようざん】
繭
養蚕秘録
養蚕秘録3巻

養蚕の起源や歴史、種類、育飼法、桑の栽培などをたくさんの絵図を使って集大成されたもので、誰にでもわかりやすく技術を解説しています。

■上垣守国養蚕記念館
・養父市大屋町蔵垣

・TEL.079-669-0120
(養父市大屋地域局)

・午前9時~午後5時
・年末年始休館

・入館料/無料

●関連情報
養父市役所

●養蚕の歴史
但馬は古くから養蚕が盛んでした。元禄10年(1697)に桑の名産地としての但馬をつづった「農業全書」も発行され、特に江戸中期には、新しい理論や技術が導入され、養蚕業は飛躍的に発展しました。

●養蚕の技術を高め、ひろめた人々
養父市大屋町蔵垣生まれの上垣守国(もりくに)は、蚕飼いの高い技術や新しい養種を但馬各地にひろめ、質のよい繭づくりの普及に尽くしました。この実践をもとに、享和3年(1803)に発行した「養蚕秘録」全3巻は、技術書としての評価が高く、フランス語やイタリア語にも翻訳され、世界的にも普及し、日本における技術輸出第1号といわれています。
また、同じ養父市大屋町出身の正垣半兵衛も新しい蚕種を但馬各地に普及させ、明治時代には但東町赤花の橋本龍一や、養父市大屋町古屋の小倉一郎が奥深い山里で機械製糸業を起こし、養蚕製糸業の近代化と発展に大きな業績を残しました。

●その後の養蚕

但馬地方はこうした先人たちの努力によって優良な繭の生産地となり、機械製糸が地場産業として栄えました。養蚕製糸業は大正・昭和の経済恐慌の時には、但馬の農家を助けた大切な副業であり、重要な輸出産業でした。しかし、昭和20年代半ばになると、ナイロンなどの新素材・技術が開発され昔の面影は失われていきました。

但馬杜氏【たじまとうじ】

 

但馬杜氏【たじまとうじ】
升酒

長年の知識と技術
但馬杜氏が造り出す
甘露の雫。
麹づくり
麹づくり
香りや風味の成分となる麹をつくる作業。酒つくりの中で最も神経を使う重要な仕事とされています。

●関連情報
新温泉町役場

●但馬人気質が造りだす甘露の雫
但馬では、特に雪深い地方の人たちが冬季の働き場所を求め、出稼ぎとして、全国各地に酒造りに出かけました。杜氏とは酒造りの最高責任者のことです。酒造りは杜氏・蔵人(くらびと)のグループが、新米の刈り入れの終わる10月頃から翌年の春まで、約6~7カ月の間、家を離れ、酒造会社の蔵元に泊まり込んでおこなわれます。蔵によって人数は異なりますが、数人から20人程度の蔵人がチームをつくり、杜氏の指導のもとで酒造りの作業をおこないます。「一蔵一杜氏」といわれるように、杜氏の数だけ酒の種類があるといわれています。
但馬の人は、慎重で誠実、質素にも耐えて思いやりがあり、粘り強い精神力があります。長年の知識と技術の蓄積が今日の但馬杜氏を生みだしました。

●記録に残る但馬杜氏
記録に残るものでは、天保8年(1837年)大阪でおこった大塩平八郎の乱に関連して、大和郡山にいた小代庄城山(香美町小代区)出身の杜氏、藤村某が登場します。藤村はこの地方の代表格で、城主の信頼も厚かったといいます。この時代から、すでに数多くの但馬の杜氏が地方に出かけていたことがわかります。
平成4年の記録では、全国の杜氏は1,754人、但馬の杜氏は全体の1割を占め、近畿を中心に中国・四国・北陸などで活躍していました。しかし、その数も20年前と比べると4分の1、5分の1に減少し、高齢化も進んでいます。また、冬季の出稼ぎシステムも時代にそぐわなくなってきています。最近、酒造りも機械化されてきましたが、手づくりの味の魅力は依然として重宝されています。

2011/06/22  

伊藤清永【いとうきよなが】

 

伊藤清永【いとうきよなが】
伊藤清永
(1911~2001)
明治44年、兵庫県豊岡市出石町に生まれる。画家。女性美を追求した作品を多数描いた。

伊藤清永美術館
伊藤画伯の初期から晩年までの作品を展示。伊藤美術の神髄にふれることができる。
・豊岡市出石町内町98
・TEL0796-52-5456
・午前9時30分~午後5時
・水曜休館
・入館料/大人500円
/大・高校生300円
/小中学生無料

●関連情報
伊藤清永美術館 公式HP

●生い立ち
洋画家・伊藤清永は明治44年(1911)豊岡市出石町下谷で生を受けました。実家は出石の由緒ある禅寺でしたが、寺を継ぐことよりも好きな絵画の道を選ぶ方が純粋だと画家を志します。
大正12年(1923)名古屋市在曹洞宗第三中学林(後の愛知中学校)入学、その2年後に油絵を描き始めます。17歳の時に、中学時代の恩師の紹介により岡田三郎助門下生となり本郷研究所に通い、その後、父親や親族の反対を受けながらも、東京美術学校に入学しました。20歳で初めて出品した公募展で「祐天寺風景」が入選、美術学校卒業の翌年には、文部省美術展で「磯人」の大作が選奨(特選)を受賞。白日会会員となり、画家としての道を確立しました。その間は、母校・旧制愛知中学の先生たちが絵の具代にと絵を買ってもらい、絵の勉強をした7年間でした。

●女性美の表現技法を一貫して追及
終戦、復員後、兄巍典に代わりに寺の住職代理をつとめながら、女性美を礼賛する作品を描き続けました。昭和22年(1947)、第3回日展に「夫人像」出品し特選受賞、翌年も「室内」で特選を受賞。昭和37年(1962)には渡欧し、ピカソの画商であり評論家のカ一シワイラーに認められ、独自の画風を極めました。
昭和52年(1977)「曙光」で日本芸術院恩賜賞受賞、平成8年(1996)には文化勲章を受章し、歴々の栄誉に輝きました。
現在、故郷・出石には、画伯の画業を顕彰して美術館が建てられています。館内には画伯の少年期から晩年の作品に至るまで、数多くの絵画やアトリエを展示。繊細な色線を無数に重ねて描き出される豊麗優美な裸婦像など、伊藤芸術の神髄に触れることができます。

2011/06/22  

沖野忠雄【おきのただお】

 

沖野忠雄【おきのただお】

沖野忠雄
(1854~1921)
安政元年1月21日、兵庫県豊岡市大磯に生まれる。治水港湾の始祖として、数多くの土木事業に関わる。内務省技師・内務省技監・勲一等瑞宝章。


出石川防災センター
沖野忠雄の業績が一目で分かるパネルの展示や、円山川の水防や自然環境を学習することができる。
・豊岡市出石町袴峡380-1

・TEL0796-52-7100

・午前9時~午後5時
・木曜定休

●生い立ち
沖野忠雄は安政元年に豊岡藩士沖野春水の子として、豊岡市大磯に生まれました。明治3年に藩の貢進生として大学南校(東京大学)に入り、物理学修得のためフランスに留学。ここで土木建築を学び、帰京後、内務省の土木技師として、一生を治水工事・港湾の開拓に捧げました。

●治水土木に一生を捧げる…
沖野忠雄は日本の治水港湾工事の始祖といわれ、大正7年に内務省を退官するまで、河川改修工事に彼が関わらなかったものはありません。その数多くの土木事業の中で、最も心血を注いだのが、淀川の改修工事と大阪築港事業です。

当時、淀川は大水の度に氾濫を起こす暴れ川で、周辺の住民は家屋の浸水等の被害に悩まされました。そこで、洗堰を要所に設けて淀川の豊富な水量を調節、また、堤防も画一的にせず随所適切に定め、水害を防ぎました。
「大型船が出入港できる港を…」との大阪市民の要望に応えて施工されたのが、大阪築港です。大阪の安治川筋は古来より船の出入りが最も多い場所でしたが、淀川の流砂のため大型船の入港は難しく、河口に港を造ることが早急の課題でした。氏は工事には常に進歩的な工法を用い、機械化を進め、築港建設に尽力しました。今日の大阪繁栄の基礎を作ったこの功績を讃え、天保山公園には銅像が建立されています。
彼の人柄を表すエピソードとして、大阪築港建設の報奨金として、大阪市が送った数万円のお金を最後まで受け取らなかったという話が残っています。金銭や名誉には極めて無頓着で、派手なことには手を出さず、純技術家肌の人でした。土木事業の大御所となりながらも、その気取らない人柄は、数多くの人々から慕われました。

2011/06/22  

植村直己【うえむらなおみ】

 

植村直己【うえむらなおみ】

植村直己
(1941~1984)
昭和16年2月12日、兵庫県豊岡市日高町上郷に生まれる。不屈の単独冒険家。五大陸最高峰登頂、北極圏1万2千キロ犬ぞり単独冒険など数々の偉業を成し遂げる。イギリス、バーラー賞受賞、国民栄誉賞受賞。

植村直己冒険館

冒険家・植村直己が冒険に使った装備品やさまざまな記録写真やビデオ映像をあわせて展示している。
・豊岡市日高町伊府785番地

・TEL0796-45-1515

・午前9時~午後5時

・水曜定休

・入館料/大人510円
/高校生210円
/小・中学生160円

●関連情報
植村直己冒険館 公式HP
弟・植村直己

●生い立ち
植村直己は父・藤治郎、母・梅の7人兄弟の末っ子として、昭和16年(1941)2月に豊岡市日高町上郷の農家に生まれました。上郷は豊岡盆地の南に位置しています。直己は東南に山を背負い、西には円山川が悠々と流れ、川のむこうには国府平野が広がる素晴らしい自然の中で育ちました。

直己は円山川を渡った近くの府中小学校、府中中学校を卒業して、豊岡高等学校へ進学しました。勉強は特別好きでもなく、控えめで目立たない平凡な子どもでした。高校卒業と共に運輸会社の東京出張所に勤務することになりました。しかし、やはり大学へ行きたいと思い、一年遅れで明治大学農学部に入学しました。

そして、大学ではじめて山登りと出会うのです。明治大学山岳部は日本の山岳部では伝統的に有名でした。入部後は、勉強そっちのけで年間三分の一は山に入っているという熱心さでした。

●世界を駆ける冒険家

昭和39年(1964)、大学を卒業。アルバイトでためたお金を持ち、アメリカのロサンゼルスへ単身渡りました。アルバイトをしながら食いつなぎ、フランスへ渡り、スキー場で一生懸命働きながらお金をためました。

そして、直己は最初の放浪4年半の間に、ゴジュンバ・カン峰・ケニア山・キリマンジャロ・モンブラン・マッターホルン・アコンカグア登頂やアマゾン筏(いかだ)下りなど、数々の単独冒険記録を立てて帰ってきました。

昭和45年(1970)日本山岳会エベレスト偵察隊に参加、日本人としては最初にエベレストの山頂に立ちました。続いて、アラスカのマッキンリー山登頂に成功し、五大陸の最高峰をすべて制覇しました。

昭和49年(1974)、書道教師をしている野崎君子と知り合い、結婚。夢を追いかけ定職を持たない植村直己を、君子は保護者のように学習塾の収入で支えていくことになります。

その後、北極圏1万2千キロ・北極点到達・グリーンランド横断犬ぞり単独冒険などを成功させた直己は、世界中の人に冒険家として知られるようになり、イギリスからバーラー賞(勇気ある人)が授与されました。

直己は次の目標を南極大陸横断と南極大陸最高峰ビンソン・マシフ登頂におき、準備を進めていました。しかし、昭和59年(1984)2月、南極への準備行動の一つと考えられる冬のマッキンリーへ登り、登頂を成功させた後、消息を絶ちました。明治大学OBは捜索隊を編成し、3月に5200mの雪洞に植村直己の大量の遺品を発見しました。4月には国民栄誉賞を受賞しました。

数々の冒険記録をうち立てて、若くして逝った植村直己。但馬人らしく、名声を求めず控えめで努力する野花のような純朴な性格は多くの人々に感銘を与え続けました。

2011/06/22  

京極杞陽【きょうごくきよう】

 

京極杞陽【きょうごくきよう】

京極杞陽
(1908~1982)

明治41年2月20日、東京市本所亀沢町に生まれる。旧豊岡藩主14代当主。「ホトトギス」同人。高浜虚子師事。句集「くくたち」など。

京極家宗廟

豊岡市三坂町に眠っている。

●生い立ち

俳人・京極杞陽は明治41年(1908)、豊岡藩主の14代目当主として東京に生まれました。小学校から学習院中等科へとすすみましたが、大正12年(1923)、関東大地震により生家は消失し、祖母、父母、弟2人、妹2人の多くの家族を失いました。ただ1人、姉だけが東京を離れていて難を逃れました。

昭和3年(1928)、学習院高等科から東北帝国大学に入学しますが、1年で中退し、京都帝国大学へ入り、さらに昭和5年(1930)には東京帝国大学文学部に入学しました。昭和8年(1933)、秋子と結婚。翌9年3月卒業。昭和10年(1935)から11年(1936)にかけてヨーロッパに遊学しました。

ドイツのベルリンに下宿中に現地で開かれた高浜虚子の講演・句会に参加し、この時つくった句が入選に選ばれています。これが虚子との運命的な出会いでした。

昭和12年(1937)、杞陽は宮内省に勤務し、式部官という職につきました。以後、21年(1946)まで宮内省勤めは続きました。


●「ホトトギス」同人

帰国した虚子との再会をきっかけに門下となりました。この時期、ともに「ホトトギス」で活躍していたのは、星野立子、中村草田男、高野素十、中村汀女など多くの俳句仲間がいました。

昭和21年(1946)7月、京極杞陽が主宰となり豊岡で俳誌「木兎」が再刊されました。薄い冊子ながら戦後いち早く発行された俳誌のひとつです。一方では、「ホトトギス」の同人としても毎月誌上で活動を続け、虚子との吟行旅行もひんぱんでした。のちに豊岡に帰った杞陽は、俳句への情熱を黙々と燃やし続けました。

5冊の杞陽句集に収録されている句は9996句、他に各句会に残ったものを入れると数倍にものぼるといわれています。

昭和56年(1981)11月8日逝去。豊岡市三坂町京極家宗廟に眠っています。

美しく木の芽の如くつつましく

但馬路の狭霧狭霧のどこまでも

おもむろに晴れ上りたる雪山河

2011/06/22  

北條秀一【ほうじょうしゅういち】

 

北條秀一【ほうじょうしゅういち】
北條秀一
(1905~1992)
明治38年5月31日、兵庫県豊岡市竹野町竹野生まれ。国鉄顧問、参議院議員、衆議院議員を歴任。竹野小学校に「負けじ魂基金」を創設し、社会貢献に勤めた。

北條秀一先生之碑

竹野小学校にある記念碑。

●生い立ち
明治38年(1905)、豊岡市竹野町の山陰海岸国立公園竹野海水浴場に近い東町に、父熊造、母やすの男三人、女五人の第五子で、長男として生まれました。家は代々続いた宮大工で、父は腕がよく事業も規模を広げ、大きな請負仕事もしていました。

秀一の成績は抜群で小学校は級長と副級長を交互に受け持っていました。小学4年生頃から、読書に興味を持ち、立川文庫を読むようになりました。立川文庫は猿飛佐助・真田幸村など武人たちの活躍を講談調で描いた少年向け文庫本でした。この文庫本によって仁義・友情・勇気・負けじ魂などを身につけていき、小学校時代にすでにリーダーとしての頭角をあらわしていました。

やがて、「大工は弟に継がせる。お前は商売の道に進み、お金をもうけて家の建て直しをするように」と父から話があり、神戸商科学校へ進みました。神戸商業学校時代には時の折原兵庫県知事に直接交渉して、卒業期日を早めるという学校改革を実現し、級友の信望を高めました。

東京商科大学(のちの一橋大学)では、入学試験合格の時から学校当局に自治会の世話係を依頼され、以来「一橋会」総務理事となり自治活動の中心として活躍しました。

●竹僑の人
(生地の竹野から出て外地で稼がせてもらう意味であり、華僑にもじった北條の造語である)

昭和5年(1930)、南満州鉄道株式会社(満鉄)に就職。ただちに、得恵と結婚。神戸港より、大連に出航。新入社員89名の同志を結集し、満鉄青年同志会をつくり、手腕を奮ったが、満州事変が起こり、満州建国という時局の大転換機を迎えることとなりました。

昭和7年(1932)、準社員から正社員に昇格し、経済調査会へ配属されました。この組織は一企業を越えた国家機関としての知られざる実力を持っていました。この組織の委員長は十河信二で、満鉄総裁をも指示し得る権限を持っていました。十河と北條とのコンビの絆は、その後の十河の興中公司時代・戦後の国鉄総裁時代になっても固く結ばれていきました。

昭和20年(1945)、敗戦後は満鉄処理問題と満鉄社員救済に走り回り、満州・朝鮮などからの引揚者たちを救うために「引揚者団体全国連合会」を結成し、理事長として救済資金獲得のために政治交渉を開始しました。しかし、交渉が思うように進まないので参議院議員となり、強力に運動を展開した結果、救済資金給付が現実となりました。
彼の勇気・創造性・正義感は、生涯一貫して他人のために行動することによって示されました。それゆえ、多くの人たちの支持を得たのでした。引退後の昭和49年(1974)、郷里の豊岡市竹野町に帰り、郷土の歴史を掘り下げ「竹野郷外史」を出版し無料配布しました。母校の竹野小学校に「負けじ魂基金」をつくり、努力した子どもたちを表彰する「負けじ魂賞」を設定しました。

平成4年(1992)、家族に見守られながら88歳の生涯を閉じました。

2011/06/22  

和田完二【わだかんじ】

 

和田完二【わだかんじ】

和田完二
(1896~1968)
明治29年6月12日、兵庫県豊岡市竹野町松本に生まれる。

丸善石油(現コスモ石油)社長・同顧問・同相談役。丸善石油事業団を設立し社会福祉に貢献。日本馬術連盟副会長、関西乗馬団体連合会会長


記念碑

竹野小学校校門を入ってすぐにある。和田完二は小学校に体育館の新築や施設備品の寄贈などをしている。

●生い立ち
和田完二の父は豊岡藩士でしたが、廃藩置県によって浪人となり、新しい仕事として豊岡市竹野町の小学校分校長に赴任しました。完二はこの校長宿舎で明治29年6月、父良之助、母はつのニ男として生まれました。姉、兄、弟の4人兄弟で一家7人の新しい生活が始まりました。

生活はかなり苦しかったのですが、父は武士道精神を貫き、どんなに貧しくても信念を曲げない人でした。家でのしつけも祖母や父の影響で厳しく、勉強は徹底的にやらされました。豊岡中学校には合格者の中で5番の成績で入学しました。しかし、苦しい生活の中で学費を出すのは大変なことでした。豊岡の名士である岡毅家へ書生として住み込んで通学するようになりました。

中学卒業後、舞鶴の原田家に養子へ行きました。しかし、「おれも男だ。養子で一生過ごすよりも、自分で人生を切り拓くのだ」と実家へ帰ってきました。そして、南満州鉄道(満鉄)に入社しました。


●経営の神髄は人間愛

その後、丸善鉱油(丸善石油の前身)に就職。中国大陸での営業の手始めとして満鉄納入に成功。次々に販売基地を設置しました。が、日中戦争・太平洋戦争の渦に巻き込まれていきました。昭和21年(1946)12月、敗戦により無一物、着のみ着のままで同志23人といっしょに引き上げてきました。

昭和24年(1949)、製油事業の再開が検討されました。10年間の統制経済から開放され、石油各社は事業拡大の競争に入りました。しかし、石油に精通した人材は少なく、時の高橋丸善石油社長から丸善復帰を要請された完二は、同志23人とともに復帰しました。奮闘の結果、戦後の丸善石油発展の基礎を確立、請われるままに社長に就任し、23人は完二の手足となって働きました。

彼は人情に厚く、竹野町に多額の寄付をしたり、社会福祉事業には特に大きな貢献をしました。その後、丸善石油は合併によりコスモ石油に生まれ変わって現在に至っています。

趣味といえば乗馬一筋、彼にはさっそうと走る馬がよく似合っていました。

2011/06/22  

太田垣士郎【おおたがきしろう】

 

太田垣士郎【おおたがきしろう】

太田垣士郎
(1894~1964)
明治27年2月、兵庫県豊岡市城崎町に生まれる。関西電力の社長に就任、黒部ダム建設に着工。関西経済連合会会長就任、なにわ賞、藍綬褒章などを受賞。
●生い立ち

城崎温泉「ゆとうや」の近くにある屋敷で、明治27年(1894)2月1日に生まれました。父・隆準(りゅうせつ)、母・婦久(ふく)にとって、待ち望んでいた初めての男の子でした。父は東京帝国大学医科大学を卒業した後、城崎で「太田垣医院」を開業する医者でした。

小さい頃からガキ大将で、親しい仲間からは「ガキ士郎さん」と呼ばれました。明治38年(1905)、長さ6~7ミリの割りビョウをのどの奥につまらせ、とれなくなってしまいました。その後の士郎は病弱となり、なかなか学校へ行けず、休学することになりました。大変苦しい時を過ぎ、明治44年(1911)、不思議にもビョウが自然にのどから飛び出してきたのです。若い士郎の体は元気を取り戻し、豊岡中学校に復学することができました。

大正6年、京都帝国大学経済学部に入学。大正9年、27歳で卒業した士郎は、大阪の日本信託銀行へ就職。翌10年、奥田ふくと結婚。阪急電鉄へ転職しました。


●関西財界のリーダー

昭和18年(1917)、阪急・京阪が合併し、京阪神急行電鉄となり、昭和21年、取締役社長に就任しました。翌年、長男・長女が相次いで亡くなるという悲しみが士郎をおそいました。この悲しみを乗り越え、昭和26年(1951)、関西電力取締役社長に就任しましたが、このころ電力不足で停電が相次いでいました。士郎は社内の仕組みの改革に踏み切り、黒部ダムの事業に着工しました。

さまざまな苦難を乗り越え、昭和38年(1963)6月、黒部ダムの盛大な竣工式が行われました。約513億円におよぶ建築費とのべ約1万人という労働者を投入し、171人の尊い犠牲と7年の歳月をかけた世紀の大事業は完成したのです。

その後、関西経済連合会の会長を引き受け、経済界に連帯感と秩序ある成長の必要性を説き、大阪、関西、近畿、さらに日本の経済と社会の発展をめざしました。

昭和39年(1964)3月13日、再度の出血で意識不明となり、16日静かに永遠の眠りにつきました。享年71歳でした。

2011/06/22  

中江種造【なかえたねぞう】

 

中江種造【なかえたねぞう】

中江種造
(1846~1931)
弘化3年2月15日、兵庫県豊岡市京町に生まれる。鉱業家。豊岡市上水道建設費を寄付。


豊岡市寿公園にある像
毎年5月11日に水道まつりが行われる。

●生い立ち

弘化3年(1846)2月10日or15日(?)、豊岡藩の藩主京極甲斐守高行(きょうごくかいのかみたかゆき)の下級武士の子どもとして武家屋敷(豊岡市京町)に生まれました。父は河本筑右衛門元則(こうもとちくえもんもとのり)、母を松子といいました。種造は13歳になった安政5年(1858)8月、急に豊岡藩士・中江晨吉(しんきち)の養子になりました。

種造は豊岡藩内の警備に当たるかたわら、火薬や砲術の技術や数学(和算)、測量も習いました。慶応4年(1868)戊辰(ぼしん)戦争が始まると、種造は豊岡藩兵48人と共に京都に行き、桂御所(かつらごしょ)の護衛に当たりました。そして、京都滞在中に理化学および砲術家として知れ渡っていた久世治作(くぜじさく)と出会い、久世に従って化学を学びはじめました。

今度は大阪から「貨幣司出仕」(かへいししゅっし)の命令が届きました。「貨幣司」とは現在の造幣局の前身のことです。新政府の一番大切な仕事につくことになりました。そして、仕事を通じて専門的な化学の知識、金属類の分析技術を身につけました。

慶応4年(1868)、年号が明治元年と改まった年、貨幣司から鉱山司に転じた種造は、生野銀山でフランス人の鉱山技師コワニエたちと一緒に鉱山開発に当たりました。

●鉱山王への道

その後、裸一貫で東京に飛び出し、明治8年から17年まで、古河市兵衛(ふるかわいちべえ)の顧問技師として、栃木県足尾銅山や新潟県草倉銅山の経営に当たり、それらを「古河鉱業」のドル箱に仕上げていきました。明治17年(1884)、顧問役をつとめた古河家を辞して、独立自営の鉱業家として立ち上がり、岡山県の国盛鉱山を手始めに次々と鉱山を買収していきました。

種造は鉱業だけでなく、植林もすすめました。明治39年(1906)9月「中江済学会」という育英基金を創設し、500万本の植樹を行い、また人材も育てました。この奨学金のおかげで多くの大学教授や弁護士、医師などが育っています。

種造は郷里の産業育成にも力を入れていました。豊岡市の宝林銀行、日高町の兵庫県立製糸工場、豊岡市の中江煉瓦工場などの経営にも関わっていました。

大正10年(1911)豊岡市上水道建設費33万円の寄付を申し出ました。これは工事費の全額です。種造はここで、「上水道が完成して、各戸から水道料を徴収したら、その収益金の中から百万円を積み立て、これを町の奨学基金とする」という条件を付けました。結局、中江の寄付総額は38万800円におよびました。また、奨学金制度は現在も続けられています。

豊岡市街地寿公園(ロータリー)には、中江種造の像が建てられ、毎年5月11日には水道まつりが行われています。