2011/06/22  

中江種造【なかえたねぞう】

 

中江種造【なかえたねぞう】

中江種造
(1846~1931)
弘化3年2月15日、兵庫県豊岡市京町に生まれる。鉱業家。豊岡市上水道建設費を寄付。


豊岡市寿公園にある像
毎年5月11日に水道まつりが行われる。

●生い立ち

弘化3年(1846)2月10日or15日(?)、豊岡藩の藩主京極甲斐守高行(きょうごくかいのかみたかゆき)の下級武士の子どもとして武家屋敷(豊岡市京町)に生まれました。父は河本筑右衛門元則(こうもとちくえもんもとのり)、母を松子といいました。種造は13歳になった安政5年(1858)8月、急に豊岡藩士・中江晨吉(しんきち)の養子になりました。

種造は豊岡藩内の警備に当たるかたわら、火薬や砲術の技術や数学(和算)、測量も習いました。慶応4年(1868)戊辰(ぼしん)戦争が始まると、種造は豊岡藩兵48人と共に京都に行き、桂御所(かつらごしょ)の護衛に当たりました。そして、京都滞在中に理化学および砲術家として知れ渡っていた久世治作(くぜじさく)と出会い、久世に従って化学を学びはじめました。

今度は大阪から「貨幣司出仕」(かへいししゅっし)の命令が届きました。「貨幣司」とは現在の造幣局の前身のことです。新政府の一番大切な仕事につくことになりました。そして、仕事を通じて専門的な化学の知識、金属類の分析技術を身につけました。

慶応4年(1868)、年号が明治元年と改まった年、貨幣司から鉱山司に転じた種造は、生野銀山でフランス人の鉱山技師コワニエたちと一緒に鉱山開発に当たりました。

●鉱山王への道

その後、裸一貫で東京に飛び出し、明治8年から17年まで、古河市兵衛(ふるかわいちべえ)の顧問技師として、栃木県足尾銅山や新潟県草倉銅山の経営に当たり、それらを「古河鉱業」のドル箱に仕上げていきました。明治17年(1884)、顧問役をつとめた古河家を辞して、独立自営の鉱業家として立ち上がり、岡山県の国盛鉱山を手始めに次々と鉱山を買収していきました。

種造は鉱業だけでなく、植林もすすめました。明治39年(1906)9月「中江済学会」という育英基金を創設し、500万本の植樹を行い、また人材も育てました。この奨学金のおかげで多くの大学教授や弁護士、医師などが育っています。

種造は郷里の産業育成にも力を入れていました。豊岡市の宝林銀行、日高町の兵庫県立製糸工場、豊岡市の中江煉瓦工場などの経営にも関わっていました。

大正10年(1911)豊岡市上水道建設費33万円の寄付を申し出ました。これは工事費の全額です。種造はここで、「上水道が完成して、各戸から水道料を徴収したら、その収益金の中から百万円を積み立て、これを町の奨学基金とする」という条件を付けました。結局、中江の寄付総額は38万800円におよびました。また、奨学金制度は現在も続けられています。

豊岡市街地寿公園(ロータリー)には、中江種造の像が建てられ、毎年5月11日には水道まつりが行われています。

2011/06/22  

赤木正雄【あかぎまさお】

 

赤木正雄【あかぎまさお】

赤木正雄
(1887~1972)

明治20年3月24日、兵庫県豊岡市引野に生まれる。治水事業に尽くし、砂防の神様と呼ばれた。

農学博士・内務省技師・参議院議員・建設政務次官・豊岡市名誉市民・文化勲章受章


円山川塩津公園の像

像のようにいつもリュックサックに登山靴姿でどこへでも出かけ仕事をしていたという。

●生い立ち

日本治水砂防の神様・赤木正雄は明治20年(1887)3月24日、豊岡市引野に生まれました。父甚太夫、母たみの四女二男の末っ子で、地方の豪農であった赤木家は甚太夫で11代目に当たります。

正雄の生まれたこの一帯は円山川の右岸にあり、過去に幾度も氾濫を繰り返し被災しました。洪水の恐ろしさは小さな頃から心に刻み込まれたに違いありません。

豊岡中学を卒業後、単身上京した正雄は、早稲田大学生の兄に迎えられ一緒に同居し勉強することとなりました。明治41年(1908)念願の第一高等学校に入学。明治43年(1911)9月我が国は大水害を受けました。その時、新渡戸稲造第一高等学校長は始業式で「治水事業は華々しい仕事ではないが、諸君のうち一人でも治水に身を捧げて、水害をなくすことに志を立てる者はいないか」とお話をされました。

これを聞いた正雄は、「よし、治水事業に自分の身を投げ出そう。そして、その上の砂防を研究しよう」と決心しました。

●治水砂防の神様

東京帝国大学農学部林学科砂防に学び、林学出身者ではじめて内務省に就職しました。鬼怒川、信濃川、木津川、瀬田川、富士川、神通川、天竜川、六甲山など全国の砂防工事を指導しました。

在職すること28年、内務省技術陣のほとんどが土木出身者という中で一人、林学出身の赤木は困難を克服しようと努力しました。そして、数々の実績を積み、日本に「赤木砂防」を普及させました。また、渓流河川(上流)の改修を一般河川改修の分野から取り外して砂防工事の分野に入れ、ついに土木局内から砂防課を創設するという治水機構の根本的改正を実現させました。

円山川直轄工事・一級河川編入・山陰海岸国立公園編入をはじめ、但馬小中河川改修に果たした功績は大きいものがあります。

※砂防とは

山地・海岸・河岸などで土砂の破壊・流出・移動などを植林・護岸・水制・ダムなどにより防止すること。

2011/06/22  

斎藤隆夫【さいとうたかお】

 

斎藤隆夫【さいとうたかお】

斎藤隆夫
(1870~1949)
明治3年、兵庫県豊岡市出石町中村に生まれる。大正から昭和初期にかけて政界で活躍。「憲政の神様」と呼ばれた。

弁護士・衆議院議員当選13回・民主党最高顧問・国務大臣

斎藤隆夫記念館
「静思堂」

斎藤隆夫記念館「静思堂」は生地・豊岡市出石町中村に斎藤隆夫の威徳を偲ぶため建てられた。「静思」とは大局から日本を見つめ、我を見つめることを忘れなかった斎藤隆夫の思想につながる「大観静思」からとられたという。建物のスタイルは非常にユニークで、兵庫県緑の建築賞に選ばれている。施設は研究会、講演会、茶会、コンサートまであらゆる文化活動に利用されている。
・豊岡市出石町中村

・TEL.0796-52-5643

●関連情報
NPO法人但馬國出石観光協会

●生い立ち  斎藤隆夫の生地・豊岡市出石町中村は、出石川の支流、奥山川が地区の東を流れる高台にある旧室埴村字中村で出石藩のお膝元です。彼は斎藤八郎右衛門の次男として明治3年(1870)8月18日、父が45歳、母が41歳の時生まれました。1人の兄と4人の姉の末っ子でした。
8歳になり福住小学校に入学しましたが、まだ卒業しない12歳の頃、「なんとしても勉強したい」という一念から、京都の学校で学ぶことになりました。ところが、彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきました。その後、農作業を手伝っていましたが、家出同然に京都へ行って帰ってくるなど、苦悩の日々を過ごしています。
明治22年(1889)1月、わずかな旅費を懐に東京に向けて徒歩で出発しました。当時、東京へ行くことは想像もできないくらい大事件であった時代です。汽車や船を使わず、東京まで歩き通しました。
同郷の大先輩、桜井勉が当時内務省の地理局長になっていましたので、書生としておいてもらうことになりました。
明治24年(1891)の夏、桜井勉が故郷の出石に隠居することとなり、斎藤隆夫は念願の早稲田専門学校(今の早稲田大学)の行政科に入学しました。明治27年(1894)7月、首席優等で卒業しました。
卒業した翌年の明治28年(1895)、弁護士試験を受け合格。明治31年(1898)より神田小川町に弁護士を開業。明治34年(1901)、アメリカ留学を決めサンフランシスコへ上陸。エール大学法律大学院で公法、政治学を勉強すました。渡米2年目の明治36年、肺を病み入院、合計3回の手術を受けたが完治せず、勉学を断念し帰国しました。
帰国後は鎌倉で静養し、合計7回の手術を受け完治。健康が回復した明治38年(1905)、弁護士を再開し、明治43年(1910)に結婚。
明治45年(1912)、第11回総選挙がおこなわれることになりました。この時、南但馬の国会議員は養父郡糸井の佐藤文平が出ていましたが引退することになり、後継者について原六郎と語り、原と旧知の間柄であった斎藤隆夫に白羽の矢をたてました。
そして、初挑戦ながら当選を果たしました。当選順位は定員11人中最下位でした。政界へのスタートを切ったのです。

●政治家としての軌道
 斎藤隆夫は初当選以来、連続3回当選しましたが、4回目に落選してしまいました。しかし、このことは但馬の土地に何の関係も実績もない人物が金権選挙をする実態を見た但馬の青年層たちを政治に目覚めさせるという大きな効果がありました。その後、彼らは純粋に応援するようになり、斎藤隆夫の政治的基盤を確立する契機となりました。
大正15年(1926)、彼は憲政会総務となり活躍します。昭和12年(1937)7月、支那事変がおこり、国家総動員法が公布、国を挙げて戦時体制へとすべてが動いていました。そのような時代の中、昭和15年(1940)2月、斎藤隆夫は「支那事変を中心とした質問演説」の中で「聖戦などといってもそれは空虚な偽善である」と決めつけました。この演説は「聖戦を冒涜するものだ」と陸軍の反感をかい、懲罰委員会にかけられるという大事件に発展し、離党。
除名処分後、昭和17年(1942)総選挙がおこなわれ、斎藤隆夫は最高得点で当選を果たしました。昭和20年(1945)終戦をむかえ、日本が大きく変わりました。マッカーサーの指令で解散した衆議院の選挙が昭和22年(1947)4月におこなわれ、彼は最高得点で当選。入閣要請があり、一度は断ったが同志の強いすすめから入閣しています。
国会議員13回、国務大臣2回就任。昭和27年(1952)10月、斎藤隆夫は80歳の生涯をとじました。

●演説
 斎藤隆夫の演説には定評がありました。彼の国会における名演説は3つあるといわれています。その1つめは大正14年(1925)の普通選挙法に対する賛成演説であり、その2つめは昭和11年(1936)の粛軍演説であり、その3つめは昭和15年(1940)の支那事変処理に関する質問演説です。彼の演説は原稿を持ってしたことがありません。原稿は演説の数日前に脱稿し、庭を散歩しながら完全に暗記してから演説したといいます。
支那事変処理に関する質問演説で懲罰委員会にかけられたとき、彼は懲罰をかけられる理由が見つからないと逆にその理由を問いただしました。委員会では彼の勝利で終わりました。その時、アメリカでは雑誌などで賞賛し、斎藤を「日本のマーク・アントニー」と呼びました。マーク・アントニーとは暗殺されたシーザーの屍の上で弔辞を読んだローマ切っての雄弁家のことです。

2011/06/22  

一瀬粂吉【いちのせくめきち】

 

一瀬粂吉【いちのせくめきち】

一瀬粂吉
(1870~1943)
兵庫県豊岡市出石町下谷に生まれる。文部省に勤務の後、三十四銀行副頭取、三和銀行取締役となった。弘道小学校その他に一瀬賞学資金を寄贈。

出石高校の赤門に記念碑がある

●生い立ち
出石藩仙石氏の磯野員武の次男として豊岡市出石町下谷に生まれ、藩学弘道館に学びました。のちに豊岡藩士・久保田譲氏(当時文部大臣)の心を込めた願いを聞き入れ、豊岡藩一瀬家の家名を継ぎました。

東京高等商業学校卒業後、文部省に勤務しました。文部次官・小山謙三氏の大阪三十四銀行頭取就任に従い、彼も三十四銀行へ転職。台北支店長・本営業部長を経て、三十四銀行副頭取になりました。

三十四銀行が鴻池銀行・山口銀行と合併して三和銀行を結成するに至り、その取締役になりました。

●学校教育への貢献
特に学校教育に関心を持ち、各地に学校図書館・楠公銅像を寄付し、豊岡市出石町の弘道小学校やその他に一瀬賞学資金を寄贈しました。また、下谷の生家跡に弘道小学校校長住宅を建築しました。

晩年には大阪財界・政界の有力者とはかり「誠の会」を結成して、誠の精神の強調普及に尽くしました。著書も多く、社会教育の振興に貢献しました。

昭和18年(1943)1月19日、73歳で亡くなりました。

2011/06/22  

古島一雄【こじまかずお】

 

古島一雄【こじまかずお】

古島一雄
(1865~1952)

兵庫県豊岡市に生まれる。「日本」に新聞記者として入社。戦後、政界の指南番と称された。

衆議院議員当選6回・政務次官・貴族院議員

●戦後の政界の指南番

豊岡市に生まれた古島一雄は、浜尾新の世話になり、杉浦重剛(すぎうらじゅうこう)のもとに通って教えを受けました。むこう意気が強く筋を通すところが重剛に気に入られ、彼の推薦で『日本』に新聞記者として入社しました。

のちに政界に転じて代議士に、また貴族院議員にも選ばれました。戦後には総理大臣の進退にも関わり、政界の指南番と称されました。

2011/06/22  

河本重次郎【こうもとじゅうじろう】

 

河本重次郎【こうもとじゅうじろう】

河本重次郎

(1859~1938)

兵庫県豊岡市生まれ。日本近代眼科の父と呼ばれる。

●日本近代眼科の父

河本重治郎は豊岡に生まれ、藩校稽古堂で池田草庵に学びました。13歳の時に豊岡出身の猪子止か之助(いのこしかのすけ)、和田垣謙三(わだがきけんぞう)と共に郷土の先輩の吉村寅太郎に連れられ上京しました。

横浜在住の叔父・中江種造方からドイツ語の学校へ通い、のち東京大学医学部へと進みました。同級生に北里柴三郎がいました。ここを首席で卒業した重治郎は、同学部外科学教室の助手となり、明治18年(1885)に留学を命じられて渡欧しました。明治22年(1889)に帰国すると東京大学眼科学教室主任教授に任じられ、以後33年間その職にあって、日本の眼科を先進国の水準に近づけ、さらに発展させて、日本近代眼科の父と称せられる人となりました。

 

2011/06/22  

浜尾 新【はまおあらた】

 

浜尾 新【はまおあらた】

浜尾 新
(1849~1925)

嘉永2年4月20日、兵庫県豊岡市京町に生まれる。東京美術大学(現芸大)を創立し、東京大学総長として東京大学のために尽くした。

元老院議官・貴族院議員・文部大臣・枢密院議長・東宮大夫

東京大学構内に建つ銅像

●生い立ち
東京大学の発展に一生を捧げた浜尾新は、嘉永2年(1849)4月20日、豊岡市京町に豊岡藩江戸詰めの下級武士・浜尾嘉兵治の子として生まれました。5歳の時、父を失いました。

14歳の時、藩主夫人が豊岡に帰ることになり、浜尾は母親ゆうと同行し、豊岡で生活することになりました。幼くして藩に出仕して、父と同じく記録係の仕事をしました。
藩邸の東側には武術の稽古場と藩校稽古堂があり、文武両道に励みました。また藩邸の北側一帯は武家屋敷で豊岡藩の頭脳集団の住居でもありました。家老の船木克己、京都大学医学部名誉教授の猪子止か之助(いのこしかのすけ)、東京大学法学部教授の和田垣謙三、東京大学医学部眼科の権威・河本重次郎、文部大臣の久保田譲、政界のご意見番・古島一雄など明治・大正に活躍する秀才たちがたくさんいました。彼らとの交遊は浜尾の人間の幅を広げていく要因となりました。
但馬聖人・池田草庵は稽古堂に出張して講義し、藩の子弟たちに多くの感銘を与えたました。浜尾の知的人格形成は草庵によって形成されたといってもよいでしょう。

●東京大学と共に生きる

豊岡藩では人材育成のために藩費遊学制度をつくって廃藩まで、のべ11人の優秀な人材を江戸へ送り、勉強させました。浜尾は20歳の時選ばれて、慶應義塾・大学南校(東大)に学び、主としてフランス語を専攻しました。その後、東京大学舎監として学生たちの世話係をつとめる一方、アメリカ留学も果たしました。
明治10年(1877)、出石町出身の加藤弘之は開成学校(のちの東京大学)の綜理(総長)を命じられ、浜尾は副綜理として、加藤とコンビを組んで東大の運営と改革に献身しました。その後、文部省学務局長もつとめ、教育改革の一環として美術教育振興のため、上野に美術学校(のちの芸大)を創立させました。

明治26年(1893)加藤弘之は東京大学総長を辞任し、後任に浜尾を推薦、浜尾45歳にして東京帝国大学総長に就任しました。その後、しばらく文部大臣をつとめたあと、再び東京帝国大学総長をつとめました。

但馬の加藤弘之・浜尾新のコンビは東京大学育ての親といえます。東京大学構内には浜尾の銅像が設置されており、浜尾が植えた銀杏並木は東京大学100年の歴史を物語っています。

2011/06/22  

桜井 勉【さくらいつとむ】

 

桜井 勉【さくらいつとむ】

桜井 勉
(1843~1931)
天保14年9月13日、兵庫県豊岡市出石町伊木に生まれる。出石藩弘道館長。徳島・山梨・台湾新竹県知事。「校補但馬考」を著す。

●関連情報
NPO法人但馬國出石観光協会

●生い立ち

桜井家は代々出石藩の儒官の家でした。父・石門には長男・熊一(勉)、次男・熊二、三男・熊三の3人の子供がおり、次男は木村家に、三男は近藤家に養子にいきました。
桜井勉は8歳で弘道館に入学し文武を学び、堀田省軒(ほったしょうけん)にも入門しました。元治元年(1864)江戸に行き、芳野金陵(よしのきんりょう)について学びました。慶応3年(1867)、今度は三重県に行き、漢学者・土井こう牙(が)の門をくぐりました。

●明治の新国家設立に尽くす

明治元年(1868)3月藩主のすすめで貢士(こうし)となり、新政府への与論を答申しました。出石藩の藩政改革に励み、日本で最初の公園といわれる「楽々園」を明治2年に完成させました。明治5年(1872)、横浜税関勤務を命じられ、その後、地租改正や気象測候所の創設、現在の兵庫県が誕生したのも桜井勉の進言によるといわれています。

徳島県知事、衆議院議員、山梨県知事、台湾新竹知事を歴任、明治34年(1901)には内務省神社局長に就任、翌年5月に退官。晩年は出石の自邸・有子山園で悠々自適の生活を送りました。
出石に引退後は「校補但馬考」を著すことに精力的に取り組み、大正11年(1922)に完成しました。但馬の郷土史研究の基礎となる一大著述です。豊岡市出石町に数多くの記念碑を残し、出石神社に武具、刀剣を寄進、弘道小学校に書や古文書数百冊を寄贈しています。

昭和6年(1931)10月12日、88歳で亡くなりました。

2011/06/22  

堀田瑞松【ほったずいしょう】

 

堀田瑞松【ほったずいしょう】

堀田瑞松
(1837~1916)

兵庫県豊岡市城南町に生まれる。彫刻家、発明家、専売特許第1号獲得。

●専売特許第1号

堀田瑞松は豊岡市城南町の刀の鞘(さや)の塗師(ぬりし)の家に生まれました。22歳で京都に出て、鉄筆一刀彫(てっぴついっとうぼり)の名手となり、紫檀(したん)の置物台を孝明天皇に彫刻献上し、名前に「瑞」の一字を賜りました。
やがて、東京に移りさび止め塗料を発明し、明治18年(1885)「堀田錆止(さびどめ)塗料及び其塗法(そのとほう)」で我が国の専売特許第1号を獲得しました。

2011/06/22  

加藤弘之【かとうひろゆき】

 

加藤弘之【かとうひろゆき】

加藤弘之

(1836~1916)
天保7年6月23日、兵庫県豊岡市出石町谷山に生まれる。東京大学初代総長をはじめ、官界学界の多数の官職を歴任。

文部大丞・元老員議官・貴族員議員・宮中顧問官・学士院院長・枢密顧問官



生家

現在も豊岡市出石町に残る生家。

●関連情報
NPO法人但馬國出石観光協会

●生い立ち
加藤弘之は天保7年(1836)6月23日、豊岡市出石町谷山に、出石藩用人・加藤正照の長男として生まれました。10歳になった加藤は藩校弘道館に通って朱子学を中心とした儒学を学びましたが、兵学師範の子としては兵学も学ぶ必要があり、練兵・武術の手ほどきも受けました。

17歳の時、父に従って江戸に行き、甲州兵学・儒学・洋学を学んだ加藤は、次第に洋学に魅せられ哲学・倫理学・法学などを勉強していきました。

江戸で貧しさと戦いながら勉学に励んでいた頃、郷土の父が亡くなりました。母は早く死亡し兄弟もすでに亡くなっていたので、加藤は天涯孤独の身となりました。

●明治維新の担い手

桜田門外の変の起こった万延元年(1861)、幕府より蕃書調所(東大の前身)教授手伝に採用されました。蕃書調所は幕府が各藩の指導者を養成するためにつくった学校です。加藤は幕府の御用学者としての権威主義的色彩を強く持つようになります。福沢諭吉の私塾(慶應義塾)経営の方向とは好対照でした。

加藤はドイツ学を究め、明治天皇教育のため「国法汎論」を講義し、憲法・三権分立・市町村自治のだいたいの意味をたたき込んだといわれます。また、ヨーロッパから輸入された「天賦人権論」(すべての人間は生まれながらにして自由・平等の生活をする権利を有するとする思想)を信じ尊びました。明治維新により四民平等(江戸時代につくられた身分制度である士・農・工・商が廃止された)がうたわれているのに、被差別部落民はいぜん差別されている現実を嘆き、恥ずかしいと主張。文部大丞権判事であった加藤は「被差別部落民を平民とする」という解放令の議案を公議所(議会)に提出可決し、明治4年8月解放令の大政官布告となったのです。

加藤は明治10年(1877)開成学校(のちの東京大学)綜理を命じられ、のち、明治23年(1890)再び、初代東京帝国大学総長になり、貴族院議員にも選ばれました。明治21年(1888)には文学博士、38年(1905)には法学博士を授けられました。26年(1893)には東大総長を辞任し、宮中顧問官を任じられ、33年(1900)華族となり男爵を授けられました。39年(1906)には枢密顧問官になりました。

その後、役職としては教育調査会総裁、高等教育会議議長、文学博士会会長、哲学会会長、国家学会評議員長、ドイツ学協会学校長、学士院院長など、その経歴は多彩で華やかなものでありました。また、憲法・政治・道徳・法律・哲学に関する膨大な著書を残しています。

官界学界の多数の官職を歴任し、明治の総帥(そうすい)として頂点を極め、大きな功績を残し、大正5年(1916)81歳の生涯を全うしました。