大友 工【おおともたくみ】
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●軟式野球からプロ野球へ ●巨人軍の投手としてMVPを獲得 |
2024/12/26 先人たち
大友 工【おおともたくみ】
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●軟式野球からプロ野球へ ●巨人軍の投手としてMVPを獲得 |
2015/03/06 先人たち
東井義雄【とういよしお】
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●生い立ち 東井義雄は豊岡市但東町佐々木の浄土宗本願寺派「東光寺」の長男として、明治45年(1912)4月に京都で生を受けました。父は義澄、母は初枝といい、義雄3歳の時、豊岡市但東町へ帰ってきました。母は義雄が小学一年生になった5月に病死。新しい母が来てもなつけませんでした。生活も楽ではなく、そのために山も田畑も手放して貧乏生活を余儀なくされました。 食事は毎日「チョボイチご飯」でした。小さな鍋でお供えのご飯を炊くのですが、その時に出るとぎ汁に大根をみじん切りにしたのをどっさり入れ、パラパラと米を加えて炊くと大根ばかりの間にご飯がチョボットあるご飯もどきができます。これが「チョボイチご飯」です。 5年生になった時、父が親類の借金の保証人になっていたので、家財道具を差し押さえられ、食器棚まで封印されてしまいました。進学したかったのですが、この経済状態のため断念し、通信教育で中学校の勉強をしながら小学校を卒業後、奨学金をもらいながら姫路師範学校に入学しました。 ●村を育てる教育を実践した情熱の教育者 昭和7年(1932)、師範学校を卒業し、豊岡小学校へ着任しました。その頃、昭和の大恐慌の余波が厳しく、日本中が不景気のどん底で、欠食児童が全国いたる所で問題になっていました。義雄は「雑草のごとくに」という文集を作って、どんな環境からでも、どういう状態になっても立ち上がれる子どもを育てようとしました。 そんな中、父義澄が亡くなりました。義雄28歳の時でした。 終戦後、価値観が一変し、教育制度が大きく変わりました。反省と暗中模索の中、昭和32年(1957)に東井義雄の「村を育てる学力」というタイトルで出版された実践記録は全国的に大きな反響を呼びました。 生活からかけ離れた学問などあり得ません。生活の中から課題を発見し、教師・地域と課題を共有し、問題を解決していく過程の中から育つ子どもの生きた学力が確立することを発見し、実践しました。そこから連帯が生まれ、共感が育ち、親を見捨てず、家を見捨てず、村をも見捨てない学力が育つのです。 終始、但馬から出ることはなく、教師として村の教育に一生を捧げました。平成3年(1991)4月18日、不慮の災難のために急逝され、時に79歳でした。 |
2011/06/22 先人たち
沢庵和尚【たくあんおしょう】
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●生い立ち たくあん漬けの考案者とも重用者とも言われる沢庵和尚は、天正元年(1573)豊岡市出石町に生まれました。父は出石城主・山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣・秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)です。 沢庵和尚は10歳で出家、14歳にして出石藩主菩提寺・宗鏡寺(すきょうじ)に入りました。彼が20歳の時、藩主・前野長泰の招きで京都の大徳寺から薫甫宗忠(とうほそうちゅう)が住職に任じました。宗忠は大徳寺住持の春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子で、この時以来、沢庵と大徳寺との関係が生まれました。 22歳の時、宗忠が大徳寺の住持となるのに従って上京し、大徳三弦院で春屋宗園に仕えました。沢庵は29歳の時、勅令によって大徳寺の住持に出世しましたが、立身出世を求めない彼は3日間で野僧に徹すべしとして退山してしまいました。 31歳の時、堺の南宗寺陽春院の一凍紹滴(いっとうじょうてき)に師事し、沢庵の称号を受けました。やがて住持を兼ねるようになります。 沢庵は研ぎ澄まされた感覚から漢文に通じ、但馬にも多くの歌を残しています。 めぐりきて 入佐の山の月も日も はるやむかしに 我身ひとつは ●紫衣(しえ)事件 寛永4年(1627)、紫衣事件が起こりました。大徳寺・妙心寺の住持は天皇の詔(みことのり)で決まっていましたが、今後は幕府が許可を与え天皇の権威をそぎ、命令に服さない者の紫衣の着用を禁止したのです。 沢庵は投淵軒から怒って上京し、大徳寺反対派をまとめて反対運動の先頭に立ち、幕府に対する抗弁書(こうべんしょ)は沢庵自らが書いたといいます。幕府は中心人物である沢庵を羽州(山形県)上ノ山に流罪にしました。 3年後、将軍秀忠の死による大赦(たいしゃ)があり、許され江戸に帰ってきました。三代将軍家光は柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)の言葉を聞き入れ、品川に4万坪の土地を与え、万松山東海寺を建ててその開山に沢庵を迎えました。 これを受け入れた時から、野僧に徹すべしの生き方を捨てました。そして、自分を権力者にこびる「つなぎ猿」と自分を自分で軽蔑しあざ笑う晩年でした。 ●沢庵の遺言 正保2年(1645)12月、沢庵は万松山東海寺で没しました。時に73歳でした。死ぬ前に残す言葉を弟子が求めると自分で筆を取り、「夢」の一字を書いて筆を投げ捨てるようにして息を引き取ったといいます。 「自分の葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」 と遺言を残しました。 |
2011/06/22 先人たち
近藤朔風【こんどうさくふう】
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●「菩提樹」「野ばら」「ローレライ」などを訳詞 近藤朔風は、気象測候所の創始者として有名な桜井勉(豊岡市出石町出身)の五男として生まれました。12才の時に近藤家に養子に入り、東京外国語学校、東京美術学校、東京音楽学校で学び、芸術・音楽の見識を高めます。卒業後、『名曲新集』『西欧名曲集』などを発刊し、訳詞家としてその才能を発揮しました。「菩提樹」「野ばら」「ローレライ」「シューベルトの子守歌」などの訳詞は、名訳として絶賛されています。また、日本初のオペラの公演に携わり、日本の近代音楽の発展に貢献しました。 『野ばら』 二、手折りて行かん 野中のばら 三、童は折りぬ 野中のばら (ゲーテ作詞・ウェルナー作曲・近藤朔風訳詞)
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2011/06/22 先人たち
伊藤清永【いとうきよなが】
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●生い立ち 洋画家・伊藤清永は明治44年(1911)豊岡市出石町下谷で生を受けました。実家は出石の由緒ある禅寺でしたが、寺を継ぐことよりも好きな絵画の道を選ぶ方が純粋だと画家を志します。 大正12年(1923)名古屋市在曹洞宗第三中学林(後の愛知中学校)入学、その2年後に油絵を描き始めます。17歳の時に、中学時代の恩師の紹介により岡田三郎助門下生となり本郷研究所に通い、その後、父親や親族の反対を受けながらも、東京美術学校に入学しました。20歳で初めて出品した公募展で「祐天寺風景」が入選、美術学校卒業の翌年には、文部省美術展で「磯人」の大作が選奨(特選)を受賞。白日会会員となり、画家としての道を確立しました。その間は、母校・旧制愛知中学の先生たちが絵の具代にと絵を買ってもらい、絵の勉強をした7年間でした。 ●女性美の表現技法を一貫して追及 |
2011/06/22 先人たち
沖野忠雄【おきのただお】
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●生い立ち 沖野忠雄は安政元年に豊岡藩士沖野春水の子として、豊岡市大磯に生まれました。明治3年に藩の貢進生として大学南校(東京大学)に入り、物理学修得のためフランスに留学。ここで土木建築を学び、帰京後、内務省の土木技師として、一生を治水工事・港湾の開拓に捧げました。 ●治水土木に一生を捧げる… 当時、淀川は大水の度に氾濫を起こす暴れ川で、周辺の住民は家屋の浸水等の被害に悩まされました。そこで、洗堰を要所に設けて淀川の豊富な水量を調節、また、堤防も画一的にせず随所適切に定め、水害を防ぎました。 |
2011/06/22 先人たち
植村直己【うえむらなおみ】
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●生い立ち 植村直己は父・藤治郎、母・梅の7人兄弟の末っ子として、昭和16年(1941)2月に豊岡市日高町上郷の農家に生まれました。上郷は豊岡盆地の南に位置しています。直己は東南に山を背負い、西には円山川が悠々と流れ、川のむこうには国府平野が広がる素晴らしい自然の中で育ちました。 直己は円山川を渡った近くの府中小学校、府中中学校を卒業して、豊岡高等学校へ進学しました。勉強は特別好きでもなく、控えめで目立たない平凡な子どもでした。高校卒業と共に運輸会社の東京出張所に勤務することになりました。しかし、やはり大学へ行きたいと思い、一年遅れで明治大学農学部に入学しました。 そして、大学ではじめて山登りと出会うのです。明治大学山岳部は日本の山岳部では伝統的に有名でした。入部後は、勉強そっちのけで年間三分の一は山に入っているという熱心さでした。 ●世界を駆ける冒険家 昭和39年(1964)、大学を卒業。アルバイトでためたお金を持ち、アメリカのロサンゼルスへ単身渡りました。アルバイトをしながら食いつなぎ、フランスへ渡り、スキー場で一生懸命働きながらお金をためました。 そして、直己は最初の放浪4年半の間に、ゴジュンバ・カン峰・ケニア山・キリマンジャロ・モンブラン・マッターホルン・アコンカグア登頂やアマゾン筏(いかだ)下りなど、数々の単独冒険記録を立てて帰ってきました。 昭和45年(1970)日本山岳会エベレスト偵察隊に参加、日本人としては最初にエベレストの山頂に立ちました。続いて、アラスカのマッキンリー山登頂に成功し、五大陸の最高峰をすべて制覇しました。 昭和49年(1974)、書道教師をしている野崎君子と知り合い、結婚。夢を追いかけ定職を持たない植村直己を、君子は保護者のように学習塾の収入で支えていくことになります。 その後、北極圏1万2千キロ・北極点到達・グリーンランド横断犬ぞり単独冒険などを成功させた直己は、世界中の人に冒険家として知られるようになり、イギリスからバーラー賞(勇気ある人)が授与されました。 直己は次の目標を南極大陸横断と南極大陸最高峰ビンソン・マシフ登頂におき、準備を進めていました。しかし、昭和59年(1984)2月、南極への準備行動の一つと考えられる冬のマッキンリーへ登り、登頂を成功させた後、消息を絶ちました。明治大学OBは捜索隊を編成し、3月に5200mの雪洞に植村直己の大量の遺品を発見しました。4月には国民栄誉賞を受賞しました。 数々の冒険記録をうち立てて、若くして逝った植村直己。但馬人らしく、名声を求めず控えめで努力する野花のような純朴な性格は多くの人々に感銘を与え続けました。 |
2011/06/22 先人たち
京極杞陽【きょうごくきよう】
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●生い立ち
俳人・京極杞陽は明治41年(1908)、豊岡藩主の14代目当主として東京に生まれました。小学校から学習院中等科へとすすみましたが、大正12年(1923)、関東大地震により生家は消失し、祖母、父母、弟2人、妹2人の多くの家族を失いました。ただ1人、姉だけが東京を離れていて難を逃れました。 昭和3年(1928)、学習院高等科から東北帝国大学に入学しますが、1年で中退し、京都帝国大学へ入り、さらに昭和5年(1930)には東京帝国大学文学部に入学しました。昭和8年(1933)、秋子と結婚。翌9年3月卒業。昭和10年(1935)から11年(1936)にかけてヨーロッパに遊学しました。 ドイツのベルリンに下宿中に現地で開かれた高浜虚子の講演・句会に参加し、この時つくった句が入選に選ばれています。これが虚子との運命的な出会いでした。 昭和12年(1937)、杞陽は宮内省に勤務し、式部官という職につきました。以後、21年(1946)まで宮内省勤めは続きました。
帰国した虚子との再会をきっかけに門下となりました。この時期、ともに「ホトトギス」で活躍していたのは、星野立子、中村草田男、高野素十、中村汀女など多くの俳句仲間がいました。 昭和21年(1946)7月、京極杞陽が主宰となり豊岡で俳誌「木兎」が再刊されました。薄い冊子ながら戦後いち早く発行された俳誌のひとつです。一方では、「ホトトギス」の同人としても毎月誌上で活動を続け、虚子との吟行旅行もひんぱんでした。のちに豊岡に帰った杞陽は、俳句への情熱を黙々と燃やし続けました。 5冊の杞陽句集に収録されている句は9996句、他に各句会に残ったものを入れると数倍にものぼるといわれています。 昭和56年(1981)11月8日逝去。豊岡市三坂町京極家宗廟に眠っています。 美しく木の芽の如くつつましく 但馬路の狭霧狭霧のどこまでも おもむろに晴れ上りたる雪山河 |
2011/06/22 先人たち
北條秀一【ほうじょうしゅういち】
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●生い立ち 明治38年(1905)、豊岡市竹野町の山陰海岸国立公園竹野海水浴場に近い東町に、父熊造、母やすの男三人、女五人の第五子で、長男として生まれました。家は代々続いた宮大工で、父は腕がよく事業も規模を広げ、大きな請負仕事もしていました。 秀一の成績は抜群で小学校は級長と副級長を交互に受け持っていました。小学4年生頃から、読書に興味を持ち、立川文庫を読むようになりました。立川文庫は猿飛佐助・真田幸村など武人たちの活躍を講談調で描いた少年向け文庫本でした。この文庫本によって仁義・友情・勇気・負けじ魂などを身につけていき、小学校時代にすでにリーダーとしての頭角をあらわしていました。 やがて、「大工は弟に継がせる。お前は商売の道に進み、お金をもうけて家の建て直しをするように」と父から話があり、神戸商科学校へ進みました。神戸商業学校時代には時の折原兵庫県知事に直接交渉して、卒業期日を早めるという学校改革を実現し、級友の信望を高めました。 東京商科大学(のちの一橋大学)では、入学試験合格の時から学校当局に自治会の世話係を依頼され、以来「一橋会」総務理事となり自治活動の中心として活躍しました。 ●竹僑の人 昭和5年(1930)、南満州鉄道株式会社(満鉄)に就職。ただちに、得恵と結婚。神戸港より、大連に出航。新入社員89名の同志を結集し、満鉄青年同志会をつくり、手腕を奮ったが、満州事変が起こり、満州建国という時局の大転換機を迎えることとなりました。 昭和7年(1932)、準社員から正社員に昇格し、経済調査会へ配属されました。この組織は一企業を越えた国家機関としての知られざる実力を持っていました。この組織の委員長は十河信二で、満鉄総裁をも指示し得る権限を持っていました。十河と北條とのコンビの絆は、その後の十河の興中公司時代・戦後の国鉄総裁時代になっても固く結ばれていきました。 昭和20年(1945)、敗戦後は満鉄処理問題と満鉄社員救済に走り回り、満州・朝鮮などからの引揚者たちを救うために「引揚者団体全国連合会」を結成し、理事長として救済資金獲得のために政治交渉を開始しました。しかし、交渉が思うように進まないので参議院議員となり、強力に運動を展開した結果、救済資金給付が現実となりました。 平成4年(1992)、家族に見守られながら88歳の生涯を閉じました。 |
2011/06/22 先人たち
和田完二【わだかんじ】
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●生い立ち 和田完二の父は豊岡藩士でしたが、廃藩置県によって浪人となり、新しい仕事として豊岡市竹野町の小学校分校長に赴任しました。完二はこの校長宿舎で明治29年6月、父良之助、母はつのニ男として生まれました。姉、兄、弟の4人兄弟で一家7人の新しい生活が始まりました。 生活はかなり苦しかったのですが、父は武士道精神を貫き、どんなに貧しくても信念を曲げない人でした。家でのしつけも祖母や父の影響で厳しく、勉強は徹底的にやらされました。豊岡中学校には合格者の中で5番の成績で入学しました。しかし、苦しい生活の中で学費を出すのは大変なことでした。豊岡の名士である岡毅家へ書生として住み込んで通学するようになりました。 中学卒業後、舞鶴の原田家に養子へ行きました。しかし、「おれも男だ。養子で一生過ごすよりも、自分で人生を切り拓くのだ」と実家へ帰ってきました。そして、南満州鉄道(満鉄)に入社しました。
その後、丸善鉱油(丸善石油の前身)に就職。中国大陸での営業の手始めとして満鉄納入に成功。次々に販売基地を設置しました。が、日中戦争・太平洋戦争の渦に巻き込まれていきました。昭和21年(1946)12月、敗戦により無一物、着のみ着のままで同志23人といっしょに引き上げてきました。 昭和24年(1949)、製油事業の再開が検討されました。10年間の統制経済から開放され、石油各社は事業拡大の競争に入りました。しかし、石油に精通した人材は少なく、時の高橋丸善石油社長から丸善復帰を要請された完二は、同志23人とともに復帰しました。奮闘の結果、戦後の丸善石油発展の基礎を確立、請われるままに社長に就任し、23人は完二の手足となって働きました。 彼は人情に厚く、竹野町に多額の寄付をしたり、社会福祉事業には特に大きな貢献をしました。その後、丸善石油は合併によりコスモ石油に生まれ変わって現在に至っています。 趣味といえば乗馬一筋、彼にはさっそうと走る馬がよく似合っていました。 |