2011/06/22  

温泉寺【おんせんじ】

 

温泉寺【おんせんじ】

温泉寺

・豊岡市城崎町湯島

・本堂
・十一面観音立

・千手観音立像

・釈迦十六善神像

・石造宝篋印塔
以上、国指定
建造物・彫刻・絵画

・四天王立像

・木造金剛力士像
以上、県指定彫刻


城崎町美術館
温泉寺の隣にあり温泉寺所蔵の古文化財を展示
・午前9時~午後5時

・観覧料/100円
・TEL0796-32-2851

●関連情報
城崎温泉観光協会

●城崎温泉を開いた道智上人創建、数々の文化財も収蔵
末代山温泉寺は高野山真言宗の別格本山で、豊岡市城崎町大師山中腹に位置しています。温泉寺縁起によれば、城崎温泉を開いた道智上人により創建されました。天平10年(738)、時の帝聖武天皇から末代山温泉寺の勅号を賜りました。

開山道智上人より中興清禅法印までの約600年間は不詳ですが、鎌倉時代元久2年(1205)、時の院主玄高法印が幕府の祈願僧として感状を賜っていることをみても、寺の隆盛の一端がうかがわれます。
至徳年中清禅法印により西国三十三所観音霊場にならい、但馬西国三十三所が開かれ、温泉寺をもって三十三番の札所と定められました。このころ温泉寺は隆盛を極め、一山六坊の制がしかれました。その後、一時衰退しましたが、正徳年中に祐趣法印により伽藍の再興がなされ、今に至っています。
国指定重要文化財に指定されている温泉寺本堂は、桁行五間、梁五間、一重、入母屋造りで、建立年代は至徳4年(1387)とされています。和様、天笠様、唐様の折衷様式で有名です。中でも天笠様の色彩が濃厚です。昭和43年~45年の解体修理によりすべて創建当初の様式に復元されました。
また、数多くの貴重な文化財が残されています。本殿の他にも国指定重要文化財に指定されているのは、十一面観音立像、千手観音立像、釈迦十六善神像、石造宝篋印塔があります。県指定文化財は2、市指定文化財は9あります。

2011/06/22  

蓮華寺【れんげじ】

 

蓮華寺【れんげじ】

蓮華寺
・豊岡市竹野町轟

・賽の河原
市指定文化財

●但馬高野と称された名刹
 豊岡市竹野町轟にある高野山真言宗・蓮華寺は、寺伝によると慶雲4年(707)、行基の開創といわれています。本尊は十一面観音立像で、西国31番札所にもなっています。

お寺の名前は、八方を山に囲まれ、蓮の花に形が似ているところから名付けられました。かつては但馬高野と呼ばれ、但馬の信仰文化の中心としてその隆盛を極めたといいます。
江戸時代にはたびたび火災に見舞われそのほとんどを焼失しましたが、スギやヒノキの大木におおわれた広い境内には、商売繁盛・学業成就の弁財天などたくさん石像を集めた賽の河原があります。弘化4年(1847)の造立で、当時の様子を偲ばせる貴重な遺構として、町の文化財に指定されています。

また、8月14日のお盆の施餓鬼供養には、読経の後に県の無形文化財である「古代太鼓踊」が踊られます。この「古代太鼓踊」は但馬5地域に伝わる「ざんざか・ざんざこ踊り」と同じ系統ですが、ざんざか・ざんざこ踊りが神社に奉納されるのに対し、「古代太鼓踊」は蓮華寺の仏事として行われるという非常に珍しい特徴をもっています。
秋には境内一面が美しい紅葉に包まれる蓮華寺本堂。10月の最終日曜日に開催される「もみじ祭り」では、古代太鼓踊り奉納、各種ゲーム・バザーなどが催され、たくさんの人で賑わいをみせます。

2011/06/22  

隆国寺【りゅうこくじ】

 

隆国寺【りゅうこくじ】


隆国寺

・豊岡市日高町荒川

・36面の襖絵
県指定文化財
・石垣
町指定文化財

●関西花の寺第6番札所、通称「ボタン寺」
 通称「ボタン寺」として親しまれている隆国寺には、4月下旬~5月上旬頃、約70種類1000株のボタンが華やかに咲き誇ります。天保年間、飢饉で苦しむ人々を寺の米蔵を開いて救ったことから、感謝した人々が「富貴の花」といわれるボタンを寺に植栽したということです。
関西花の寺第6番札所として、初夏にはたくさんの人が満開のボタンを見に訪れます。
隆国寺は山名の四天王と呼ばれた楽々前(ささのくま)城主・垣屋隆国の菩提寺として、天正15年(1587)阿瀬金山に建立され、 江戸期に入り現在の地に移りました。 現在は県指定文化財に指定されており、36面の襖絵を始め、様々な文化財が残っています。
本堂にある孔雀の図などの見事な襖絵は、円山派と対峙した岸連山一門が描いたものです。また、寛政4年(1792)に再建された山門は三丹(但馬、丹後、丹波)随一と称されています。楼上には釈尊、文殊、普賢の釈迦三尊と十六羅漢が祀られており、訪れる人の邪気を払うと共に、寺全体を守護しているそうです。
境内正面及び両側に配する石垣も町を代表する貴重な文化財です。創建当時に作られたもので、神鍋溶岩の蒸し石を巧みに組み合わせ、重厚な構えを呈しています。特に、山門を経て本堂を望む景観と見事な構成をなし、その石組みは優れた技術と感覚を示しています。苔むした石垣に鮮やかなボタンの花がいっそう映え、訪れる人を魅了しています。

2011/06/22  

進美寺【しんめいじ】

 

進美寺【しんめいじ】


進美寺
・豊岡市日高町赤崎

・進美寺鰐口

・進美寺文書

県指定重要文化財

●源平合戦を慰める但馬300基の五輪宝塔造立供養
豊岡市日高町赤崎にある進美寺山は富士山型の秀麗な姿で、この山自体が信仰の対象として崇められてきました。その中腹にあるのが天台宗の進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。

願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文です。
源平合戦の直前まで、但馬は平家一門による知行国で、当時の世情の激変がしのばれます。

2011/06/22  

円通寺【えんつうじ】

 

円通寺【えんつうじ】

円通寺
・豊岡市竹野町

・絹本淡彩月庵宗光像
県指定絵画

●名僧月庵和尚が創建、別名あじさい寺

別名あじさい寺と呼ばれ、臨済宗南禅寺派、中本山で、最高の儀式の執行権、宗義統制権や寺号、本尊、院号などの授与権を含む教学上の特権、その他宗政上の特権を有した大本山に次ぐ格式のある寺院です。元中6年(1389)時の但馬守護、山名時義・時熈(ときひろ)父子が、高僧月庵和尚をして円通寺を創建しました。 しかし、その直後、同年5月4日に山名時義は没してしまいました。時義の墓所が今も円通寺にあります。
月庵は嘉暦元年(1326)美濃国に生まれ、朝廷より正続大師禅師と追諡(ついし)された禅僧です。但馬国に住んだのは貞治6年(1367)のことで、生野町大明寺、山東町大同寺も創建しました。

寛永21年(1644)9月には、沢庵和尚が寺を訪れ、多くの詩を残しています。また後年、大石蔵之助の妻大石りくなど多くの著名人が来寺しています。享保5年(1720)に焼失など幾多の変遷はありましたが、現在なお600年の伝統は守り続けられています。
県指定重要文化財の絹本淡彩月庵宗光像は、曲ろくに座す月庵の肖像が斜左から描かれています。永徳3年(1383)月庵58歳の時のもので、図上に自書の文字が記されています。

2011/06/22  

極楽寺【ごくらくじ】

 

極楽寺【ごくらくじ】

極楽寺
・豊岡市城崎町湯島

・山門
市指定文化財

・予約すれば法話、座禅が可能
TEL0796-32-2326

●沢庵禅師が再興した禅寺
 室町時代初期の応永年間(1394~1428)、出石・宗鏡寺の創始者、金山明昶(めいちょう)禅師が開きましたが、その後荒廃し、江戸時代に沢庵禅師によって再興されました。
「来ん春を深雪の底にひきよせて、冬ひとしおの出湯なりけり」温泉好きだった沢庵は、城崎で詠んだ歌を多く残しています。湯治に訪れる度に宿として使っていた極楽寺を臨済宗の寺として再興したのです。
その後、慶安5年(1652)、豊岡藩主杉原伯耆守(ほうきのかみ)の帰依を受け、領地などを寄進されて今日の寺容が築かれました。本堂は明治45年(1912)に焼失し、現在の本堂は大正10年(1921)に復元されたものです。
元禄年間(1688~1703)に建てられた山門は現存しており、豊岡市城崎町の文化財に指定されています。

境内には白砂で「心」の文字が描かれた「清閑庭」があります。白と黒のコントラストをもつ枯山水の石庭で、裏山から湧出する清泉「独鈷水」が庭内をうるおしています。
独鈷とは仏様が手にしている仏具のこと。昔、城崎温泉の開祖といわれる道智上人が、温泉湧出を願い千日間曼陀羅行を続けている時、手にもった独鈷で岩壁に穴をあけると、水が沸き出してきたと言われています。以来、一度も枯れたことのない城崎の名水の一つです。近くには線刻の薬師如来が祀られ、眼病平癒に霊験あらたかと言われています。

また、熱病封じの「青面金剛大童子」や一芸を成就させる「弁財天」、童男童女の守護仏「一星地蔵尊」なども祀られており、今日も多くの人の信仰を集めています。
裏山は四国山と称する霊山で、山頂には文化年間に建てられた「大師堂」というお堂があり、山道には88体の石仏が祀られています。この浄域に囲まれた禅寺は、温泉街に隣接しながらも閑静で、静寂な時が流れています。

2011/06/22  

久々比神社【くくひじんじゃ】

 

久々比神社【くくひじんじゃ】

久々比神社
・豊岡市下宮
・本殿
国指定建造物
●室町時代の雄々しい本殿

三間社流造の建物である本殿は国の重要文化財に指定されています。中嶋神社・酒垂神社の優しさと比較すると、やや雄々しさが目につきます。
その建て方は流造(ながれづくり)といって、屋根を側面から見ると後方は短く、前方の軒先が長く流れ下がっているのが特徴です。神を祀る部屋を間(ま)といい、奉祀する神の数によって間数がちがってきます。酒垂神社は一間、中嶋神社は二間、久々比神社は三間で、同じ流造といっても、その規模は異なります。
建造年代も、中嶋神社が正長元年(1428)、酒垂神社が文安元年(1444)と接近し、久々比神社もそのころのものと考えられています。
修理の時期も、中嶋神社は元禄十三年(1700)、酒垂神社は宝永六年(1709)、久々比神社は正徳元年(1711)と、わずか10年間に集中し、さらに酒垂神社と久々比神社は同じ棟梁によって修理がおこなわれています。

2011/06/22  

日出神社【ひのでじんじゃ】

 

日出神社【ひのでじんじゃ】

日出神社
・豊岡市但東町畑山

・本殿
国指定建造物

●たばさみ・蟇股の施しがある室町時代の本殿
創立年月日は不詳ですが、延喜式の制小社に列し、享保11年拝殿を建立し、寶永元年社殿を修復、明治3年社殿を現在地に移したと記録が残っています。本殿は室町時代の建築といわれており、国の重要文化財に指定されています。本殿は三間社流れ造りで、たばさみ・蟇股(かえるまた)などに特色があります。

また境内には、後醍醐天皇の第六皇子恒良親王が幽閉されたという旧跡もあります。

2011/06/22  

桑原神社【くわばらじんじゃ】

 

桑原神社【くわばらじんじゃ】

桑原神社
・豊岡市竹野町桑野本

・行道面
国指定彫刻

●鎌倉時代の祭礼舞楽に用いられた行道面を収蔵
豊岡市竹野町桑野本、桑原神社には古い9つの行道面があります。

建久2年(1191)8月15日に鷹野神社の祭礼舞楽に用いられた面と伝えられています。もと菩薩面10面、僧形面2面がありましたが、菩薩面3面は桑原神社に納められ、洪水のために流出してしまったと伝えられています。現在の菩薩面は、3つの様式に類型に分けることができます。第1の様式(1号面)は、繊細優美な純然たる藤原様式の面で、制作の年代も藤原末期と考えられています。第2の様式のもの(2号・3号面)は、頭髪に飾り金具をつけ、彫法は繊細。写実的で生気ある典型的な鎌倉初期の作品と考えられます。第3の様式のもの(4~7号面)は、頭髪に飾り金具をつけないで、顔の輪郭、眉、鼻、唇など表現は大まかですが、鎌倉時代の特色を示しています。

また、僧形面2面も喜びをユーモラスに生き生きと表現した鎌倉期の作品です。
他に宝冠の残欠け5片、木製の光背2枚、金銅製の光背透かし彫り断片3片、鉄製の鈴および鐃1器ずつがあり、これらもすべて神事に関係あったものと考えられ、鎌倉期の制作と考えられています。

2011/06/22  

中嶋神社【なかしまじんじゃ】

 

中嶋神社【なかしまじんじゃ】

中嶋神社
・豊岡市三宅
・本殿
国指定建造物
●お菓子の神様、田道間守命をまつる
菓祖、田道間守命(たじまもりのみこと)がまつられている中嶋神社。田道間守は天日槍の子孫、三宅連(みやけのむらじ)らの祖先で、垂仁天皇の命を受けて、はるかな地に、命を長らえることのできる実、その時節でなくてもいつでもある香り高い果物(橘)を探し求める旅に出ました。荒海を渡りようやく命がけで橘の実を手に入れることができ、日本へ帰ってきましたが、天皇は崩御の後で、悲しみ嘆いた田道間守は、天皇の陵(墓)に、橘を捧げたまま息絶えてしまいました。
忠節を尽くした田道間守の墓は、垂仁天皇陵の堀の中に浮かぶ小さな島にひっそりと祀られています。また、田道間守が持ち帰った時じくの香の木の実は、わが国のお菓子のはじまりとされ、田道間守の故郷、中嶋神社に祀られています。

本殿は国指定重要文化財で、建造年代は1428年、屋根を側面から見ると後方は短く、前方の軒先が流れ下っている二間流造(ながれづくり)で、室町時代の典型的な神社建築を伝えています。