2011/11/21  

西光寺【さいこうじ】

 

西光寺【さいこうじ】
西光寺

西光寺

・新温泉町浜坂
・兵庫県景観条例
景観形成重要建造物等

石灯籠
石灯籠

西光寺のレンガ塀
西光寺のレンガ塀

●寛政年間に寄進された石灯籠

西光寺は、浄土真宗に属する寺院で、本尊に阿弥陀如来像が安置されています。創立時期は不明ですが、近江国犬上郡夏河の里出身の小林和泉守親正が、天正年間に芦屋城にきて、その後落城により浜坂に住んだといわれています。
初代仁右衛門正氏は「和泉屋」を名乗り、熱心な本願寺門徒で、道場「寿徳庵」を建立しました。その後、1656年(明暦2)、本願寺から寺号を受領し、寺号を「西光寺」と改めました。
西光寺参道には、1789年(寛政元)~1801年(寛政13)頃に和泉屋小林助右衛門(親正の子孫)によって建てられた一対の石燈籠があり、町指定建造物に指定されています。
西光寺のレンガ塀は、1911年(明治44)に完成した山陰線桃観トンネルの朝鮮人労働者や関係者から贈られたものです。当時、西光寺では桃観トンネル完成後、工事で犠牲になった人のために追弔会をし、民族の区別なく、亡くなった人の弔いをしたそうです。

2011/11/21  

大乗寺【だいじょうじ】

 

大乗寺【だいじょうじ】


大乗寺
・香美町香住区森

・十一面観世音菩薩
・障壁画165面
以上国指定彫刻・絵画
・大乗寺客殿など2棟
県指定重要文化財
・午前9時~午後4時

・拝観料大人800円
・TEL0796-36-0602

●関連情報
大乗寺

●別名応挙寺、165の障壁画が立体曼陀羅をつくりだす

高野山真言宗 亀居山 大乗寺は聖武天皇の御代天平17年(745)、行基菩薩自ら聖観音菩薩立像を彫刻し祀ったのが始まりとされています。一時衰退しましたが、安永年間、密蔵法印が伽藍の再建につくし、弟子の密英上人が後を継ぎ伽藍を完成させました。
その際、客殿に円山応挙とその一門の手による障壁画が描かれ、そのため別名応挙寺とも呼ばれ、多くの人々が訪れています。
円山応挙(1733~1795)は、はじめ狩野派の石田幽汀に学び、その後、自然の写生に専念したり、西欧の遠近法などの手法を学び、彼独特の新しい画風としての写生画を完成しました。その写生画はあらゆる階層の人々に支持され、画壇の第一人者となり、円山派の祖として仰がれた人物です。
その昔、円山応挙は生活が苦しく絵を売りながら、何とか暮らしを支え、絵を学んでいたころ、大乗寺の住職・密蔵上人と出会いました。上人はまだ無名であった応挙の画才を見抜き、即座に学費を援助しました。応挙にとって大乗寺の密蔵・密英住職は、忘れることのできない恩人だったのです。
天明7年、当時55才になっていた応挙は、古くなって改築の時期がきていた大乗寺伽藍の話を聞きつけました。以来8年間、5回に渡って大乗寺を訪れ、子や弟子の呉春・長沢芦雪らとともにご恩返しとして、多数のふすま絵や軸物を描いたと伝えられています。
大乗寺の中心に位置する仏間の十一面観世音菩薩(国重文)を守る立体曼陀羅が、客殿13室(県指定文化財)に障壁画として165面も描かれ、すべて国の重要文化財に指定されています。
※作品の一部はデジタル再製画を展示

出石焼【いずしやき】

 

出石焼【いずしやき】
作業

出石焼

出石焼
(豊岡市出石町)

・国の伝統工芸品

●関連情報
NPO法人但馬國出石観光協会

じばさんTAJIMA

●透きとおるような白磁、出石焼の変遷

出石焼の歴史は、江戸時代半ば、天明4年(1784)に、陶器を焼いたのがはじまりとされています。その後、優良な石磁の鉱脈が発見され、染め付け磁器を製作するようになりました。

天保年間に最盛期を迎え、明治初期に衰退しましたが、明治9年(1876)、桜井勉らが旧士族の失職を救済するため、有田の陶匠・柴田善平を招いて盈進社を設立し、同社からパリや東京の博覧会に出品して一躍出石白磁の名声を高めました。

明治32年(1899)から指導に当たった友田九渓は出石焼きの品質改良に業績を残し、セントルイス万国博覧会で金賞を獲得しました。昭和に入って出石に県立窯業試験場が設立され、出石焼の品質はますます向上しました。

さらに、戦後、出石焼の作品が日展の特選に選ばれるなど作家活動が盛んになり、昭和56年(1981)には、国の伝統工芸品に指定されました。

2011/11/21  

北前船【きたまえせん】

北前船【きたまえせん】
北前船
復元された北前船
(豊岡市竹野町)
竹野町「北前館」には、復元した天神丸をはじめ、船箪笥(ふなだんす)、磁石など、北前船に関する資料を展示しています。

北前館
・豊岡市竹野町竹野
・TEL.0796-47-2020
・木曜定休/9~17時

●但馬での北前船のおこりと歴史
江戸中期から明治末期にかけて、大阪から瀬戸内海を経て、日本海から北海道まで、西廻り航路で不定期に往復した商船を上方では「北前船」と呼んでいました。港に寄っては、米や塩、油、鉄などその土地の産物を買い集め次の港で売っていました。但馬海岸の港は、それらの船にとって嵐の時の避難、風のない時の風待ちなどのための大事な寄港地となりました。
そこで、但馬の人たちも北前船をしたて、北海道や下関・大坂まで広く廻漕する廻漕(かいそう)業が盛んにおこなわれるようになりました。その船数は、弘化2年(1845)の記録によると170艘あり、中でも竹野村(竹野町)が56艘と最も多かったと記されています。また、浜坂町の市原惣兵衛が興した縫い針「みすや針」は、こうした海運により販路を確立し、生産は日本一となりました。
船主の家などに残る船箪笥(ふなだんす)や船道具、竹野町の鷹野神社をはじめ各地に、航海の安全を祈願して奉納された船絵馬など、当時の廻船の構造などを知る貴重な資料が残されています。また、北前船は商いの他にも、各地の文化や風俗なども運び寄港地の人々との交流も深めました。
しかし、明治期になると交通・運輸が発達し、とりわけ鉄道が普及したことから、和船による廻漕業は哀えていきました。

2011/11/21  

但馬牛【たじまうし】

 

但馬牛【たじまうし】
放牧
庭先

但馬牛を飼う但馬の人々は、牛を家族の一員として一つ屋根の下で共に寝起きして、雪深いきびしい風土に生き、温和で姿美しい但馬牛を大切に育ててきました。

■但馬牛博物館
・新温泉町丹土1033

・TEL.0796-92-1005

・午前9時~午後5時
・木曜定休
(休日と重なった

場合は次の平日)

・入館料/無料

●関連情報
新温泉町役場
但馬牛博物館

●但馬牛とは
農耕用の機械が導入されるまで、農家は農業の働き手のひとつとして、各家庭に1頭は牛を飼育していました。家族の住む母家に同居させ、我が子同様に愛情を注ぎ、大事に育てたと言います。起伏に富んだガタガタ道は、牛の足腰を丈夫にし、但馬特有の夏の湿気と冬の寒気がよい毛並みをつくりました。子牛は競り市で売られ、農家の大事な収入源でした。優良牛の育成を目指して、よい特性を備えている牛を選び、何世代もの近親繁殖を繰り返す間に、その優れた特質が固定され、血統(蔓牛)をつくってきました。現在も兵庫県外の優良牛との繁殖はせず、純血を守っています。

●但馬牛を創った男「前田周助」
現在の但馬牛の歴史を語る上で、なくてはならない人がいます。香美町小代区に生まれた前田周助(1797~1872)です。牛の取引と小代牛の宣伝のために、わざわざ大阪の市場まで牛を連れて出かけたという逸話が残る人物。彼の人生はまさに但馬牛とともに生きたと言えます。周助は「蔓(つる)牛」の開発に一生をかけました。「蔓」とは、他地域との交流を避けた「閉鎖育種」の方法で生み出された、発育・資質・繁殖性の優秀な牛の血統のことを言い、その系統牛を「蔓牛」と呼びます。但馬牛の優れた特質は、長年に渡り、他との交配をさけ、改良に改良を重ねて受け継がれた優良な血統から生み出されました。

「蔓牛」を創り出すことで、安定的に優秀な子牛が生産することができます。周助は系統牛になりそうな牛がいると聞けば、東へ西へと駆け回りました。そのためには私財を投げ打って、牛を買い求める毎日。そしてついに100年に一度の雌牛を手に入れました。飼料の選定から一切の手入れ、特に繁殖には多年の研究と経験の全てを注ぎました。こうして周助の生み出した牛は「周助蔓」と言われ、現在の但馬牛の代表的な蔓のひとつ「あつた蔓」の素となりました。

●伝説の但馬牛「田尻号」
昭和14年に香美町小代区に生まれた伝説の雄牛「田尻号」。全国和牛登録協会の資料によると、全国の黒毛和種繁殖雌牛の99.9%が、「田尻号」の血統に繋がることが分かりました。名だたる高級黒毛和牛の母牛の大部分が、この「田尻号」をルーツに持っています。明治に入り西洋文化の影響で肉食が盛んになると、日本の小型の牛を改良するため、体格のよい外国の牛と交配させることが進められました。但馬でも例外ではなく、外国牛との交配が行われましたが、肉質の低下を招き、優良な血統牛を失いかねない危機におちいります。

第二次世界大戦後、但馬牛の純牛種を守ろうと、新しい血統作りが始まりました。ここで注目されたのが「周助蔓」。険しい山々と深い谷あいにあり、隣村との行き来が困難な小代には、外国牛との交配を免れた但馬牛が奇跡的に生き残っていました。中でも田尻松蔵が丹精込めて育て上げた「田尻号」は、生まれて半年で美方郡の種オス牛候補として認められた名牛。特に遺伝力の強さは他の雄牛の中でも群を抜いていたと言います。

但馬の山間部では家の玄関の横に牛小屋があり、昔から家族同様に牛が育てられてきました。松蔵も「田尻号」を我が子のように可愛がり、毎日運動と手入れを欠かさなかったそうです。そのおかげでほとんど病気をすることもなく、昭和29年まで種牛として活躍しました。昭和30年には長年の功績を讃えられ、黄綬褒賞を受賞しています。


●但馬牛の特徴

1.資質が抜群によい
毛味、色味、骨味が良く皮は薄く、弾力ゆとりがあり、
品位に富み体のしまりが良い。
2.遺伝力が強い
全国の和牛改良に広く活用されている。
3.肉質、肉の歩留りがよい
肉の味がよく、骨が細く皮下脂肪が少ない。
4.長命連産で粗飼料の利用性が良い
長命連産。山野草を好み、古来より
「但馬牛は、山でつくり、草で飼う」といわれています。

2011/11/21  

志村喬【しむらたかし】

 

志村喬【しむらたかし】
志村喬
(1905-1982)
明治38年に朝来市生野町に生まれる。400本近くの映画作品に出演する。日本映画史に残る名優。

●関連情報
志村喬記念館公式HP

●大学在学中に演劇と出会う
黒澤明作品で有名な映画俳優・志村喬(本名島崎捷爾)は、明治38年(1905)に朝来市生野町で生まれました。銀山で有名な生野には、当時、鉱山開発会社の社宅が建ち並び、志村もそこで暮らしていたといいます。
生野小学校卒業後、大正6年(1917)、神戸第一中学校に入学しますが、病気のため宮崎県立延岡中学校へ転校。その後、関西大学予科に入学します。
2年生の時には家計を助けるため、働きながら学校へ通いました。俳優になるきっかけとなったのは、在学中にアマチュア劇団を立ち上げたことから。次第に熱中していき、大学を中退して、25歳の時に舞台俳優として本格的に活動を開始します。

●黒澤作品での名演技
劇団を転々としているうちに、トーキー映画に魅せられ、30歳で映画俳優へ転身。伊丹万作監督の作品で映画デビューします。
昭和18年(1943)には運命の人、黒澤明監督と出会い、東宝へ移籍。このことが彼の俳優人生の大きな転機となりました。
特に主人公を演じた『生きる』でのいぶし銀の演技は、国内外から高い評価を得ています。ラストで主人公の志村がブランコに乗りながら公園で歌う姿は、涙を誘う感動の名シーンとして有名です。その他にも『七人の侍』『隠し砦の三悪人』など、黒澤作品には欠かせない名バイプレイヤーとして活躍しました。
生涯を通じて出演した作品は400本近く。昭和24年(1949)、『野良犬』で男優演技賞を受け、まさに日本映画史上に残る名優といえます。昭和57年(1982)2月11日に、76歳の生涯を閉じました。

2011/11/20  

山路寺【さんろじ】

 

山路寺【さんろじ】

山路寺
・養父市大屋町山路

・障壁画(絵画)

県指定文化財

●片山楊谷の唯一の大作として知られる「障壁画」
山路寺「障壁画」の作者、片山楊谷は円山応挙にも師事した鳥取藩のお抱え絵師で、人物、花鳥、走獣の描画に卓越した作品を残しています。享和元年(1801)に世を去った楊谷が、その1年前に描いたとされる山路寺の障壁画は、現在知られる唯一の大作として県の文化財に指定されています。
「老松図」「猛虎図」「牡丹孔雀図」など、力強く緻密な描写から、但馬を代表する障壁画といえます。
山路寺は、永承2年(1047)に開創された寺院で、本尊は十一面観世音菩薩を祀っています。寛延3年(1750)の火災により、宝暦3年(1753)に現在の場所に再建されました。かつて9ヶ寺を末寺としていましたが、現在はそのほとんどが廃寺となっています。

2011/11/20  

日輪寺【にちりんじ】

 

日輪寺【にちりんじ】

日輪寺
・朝来市桑市

・鰐口(工芸品)

県指定文化財

●応永年間に作られた貴重な文化財「鰐口」
天平年間(729~749年)、奈良時代の四聖の一人とされている「行基」により創建されたと伝わっています。本尊は如意輪観音。行基の作といわれる像高80cmの立像は、秘仏となっています。
堂前にある応永年間(1394~1428年)に作られたとされる「鰐口」は、仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種であり、貴重な文化財です。
境内の近くには、元禄年間(1688~1704年)僧清雅の創建という末寺無心庵の跡があります。一堂が建ち、その中に立像で豪華な木彫の地蔵菩薩立像が安置されています。

2011/11/20  

法宝寺【ほっぽうじ】

 

法宝寺【ほっぽうじ】

法宝寺
・朝来市和田山町岡田

・木造薬師如来坐像(彫刻)
・石造宝篋印塔(建造物)

県指定文化財

●珍しい手法で作られた「薬師如来坐像」
天平21年(749)、行基によって創建されたといわれる法宝寺は、真言宗高野山派に属する古刹です。平安時代に制作された本尊の「薬師如来坐像」は、33年ごとに開帳される秘仏。寄木造で膝は通常1材で作られますが2材からなり、大変珍しい手法のものとされています。
南北朝時代に造立された「石造宝篋印塔」は花崗岩で作られています。笠石の下部を請花とし、基礎の反花と対応させています。
法宝寺には羽柴秀吉による但馬攻めの際、戦乱から免れるための制札が残っています。

2011/11/20  

楽音寺【がくおんじ】

 

楽音寺【がくおんじ】

楽音寺
・朝来市山東町楽音寺

・経瓦(考古資料)
・絹本著色涅槃図(絵画)
・絹本著色両界曼荼羅図
(絵画)

県指定文化財

●阿弥陀如来像が彫り込まれた珍しい「経瓦」
大同年間(806~810)に創建と伝わる古刹。兵庫県指定の重要文化財である「経瓦」「仏涅槃図」「両界曼陀羅」は広く有名です。
中でも平安時代後半によく行われた経瓦は、粘土板に仏教の経典を線刻して焼きあげたものが一般とされていますが、この瓦経は仏像の胸部に1字ずつ経典が書きこんであります。12世紀頃の楽音寺経塚から出土したもので、縦が17.8cm、横が17.5cmあります。
また、楽音寺は薬師如来、子安地蔵、福寿弁財天は多くの信仰をあつめ、寺山一帯の 「四国八十八カ所霊場」と共に、今なお参詣者の絶えることがありません。境内には享保一揆の義民松岡新右衛門や、生野義挙の志士小山六郎の供養碑、その歴史を伝えてくれます。
境内にはウツギヒメハナバチの巨大集団営巣地があり、県の天然記念物に指定されています。