2011/06/22  

北條秀一【ほうじょうしゅういち】

 

北條秀一【ほうじょうしゅういち】
北條秀一
(1905~1992)
明治38年5月31日、兵庫県豊岡市竹野町竹野生まれ。国鉄顧問、参議院議員、衆議院議員を歴任。竹野小学校に「負けじ魂基金」を創設し、社会貢献に勤めた。

北條秀一先生之碑

竹野小学校にある記念碑。

●生い立ち
明治38年(1905)、豊岡市竹野町の山陰海岸国立公園竹野海水浴場に近い東町に、父熊造、母やすの男三人、女五人の第五子で、長男として生まれました。家は代々続いた宮大工で、父は腕がよく事業も規模を広げ、大きな請負仕事もしていました。

秀一の成績は抜群で小学校は級長と副級長を交互に受け持っていました。小学4年生頃から、読書に興味を持ち、立川文庫を読むようになりました。立川文庫は猿飛佐助・真田幸村など武人たちの活躍を講談調で描いた少年向け文庫本でした。この文庫本によって仁義・友情・勇気・負けじ魂などを身につけていき、小学校時代にすでにリーダーとしての頭角をあらわしていました。

やがて、「大工は弟に継がせる。お前は商売の道に進み、お金をもうけて家の建て直しをするように」と父から話があり、神戸商科学校へ進みました。神戸商業学校時代には時の折原兵庫県知事に直接交渉して、卒業期日を早めるという学校改革を実現し、級友の信望を高めました。

東京商科大学(のちの一橋大学)では、入学試験合格の時から学校当局に自治会の世話係を依頼され、以来「一橋会」総務理事となり自治活動の中心として活躍しました。

●竹僑の人
(生地の竹野から出て外地で稼がせてもらう意味であり、華僑にもじった北條の造語である)

昭和5年(1930)、南満州鉄道株式会社(満鉄)に就職。ただちに、得恵と結婚。神戸港より、大連に出航。新入社員89名の同志を結集し、満鉄青年同志会をつくり、手腕を奮ったが、満州事変が起こり、満州建国という時局の大転換機を迎えることとなりました。

昭和7年(1932)、準社員から正社員に昇格し、経済調査会へ配属されました。この組織は一企業を越えた国家機関としての知られざる実力を持っていました。この組織の委員長は十河信二で、満鉄総裁をも指示し得る権限を持っていました。十河と北條とのコンビの絆は、その後の十河の興中公司時代・戦後の国鉄総裁時代になっても固く結ばれていきました。

昭和20年(1945)、敗戦後は満鉄処理問題と満鉄社員救済に走り回り、満州・朝鮮などからの引揚者たちを救うために「引揚者団体全国連合会」を結成し、理事長として救済資金獲得のために政治交渉を開始しました。しかし、交渉が思うように進まないので参議院議員となり、強力に運動を展開した結果、救済資金給付が現実となりました。
彼の勇気・創造性・正義感は、生涯一貫して他人のために行動することによって示されました。それゆえ、多くの人たちの支持を得たのでした。引退後の昭和49年(1974)、郷里の豊岡市竹野町に帰り、郷土の歴史を掘り下げ「竹野郷外史」を出版し無料配布しました。母校の竹野小学校に「負けじ魂基金」をつくり、努力した子どもたちを表彰する「負けじ魂賞」を設定しました。

平成4年(1992)、家族に見守られながら88歳の生涯を閉じました。

2011/06/22  

加藤文太郎【かとうぶんたろう】

 

加藤文太郎【かとうぶんたろう】

加藤文太郎
(1905~1936)
明治38年3月11日、兵庫県美方郡新温泉町(旧浜坂町)浜坂に生まれる。単独行のパイオニアとして知られる登山家。但馬・関西・日本アルプスの山のほとんどを単独登頂。

加藤文太郎記念図書館
2Fフロアーに「加藤文太郎記念資料室」があり、文太郎が使ったスキーなどの道具や手帳、写真・資料が展示されている。また、閲覧室には山に関係する貴重な資料がたくさんある。
・新温泉町浜坂
・TEL.0796-82-5251
・午前10時~午後6時
(月~金)
・午前9時~午後5時
(土・日)
・木曜定休

●関連情報
加藤文太郎記念図書館

●生い立ち
加藤文太郎は明治38年(1905)、浜坂町(現新温泉町)で父加藤岩太郎、母よねの四男として生まれました。家は浜の近くで稼業は漁師でした。外見は温和・寡黙で心優しい文太郎ですが、主体性に富み、一徹で、ひとつの事に熱中すると脇目も振らず熱中するタイプでした。
浜坂小学校高等科を卒業すると、神戸三菱内燃機製作所に製図研究生として入社しました。下宿から会社までの4キロ近くの道を、毎日歩いて通勤していたとか。
大正10年(1921)になると第三学年の副級長を任命されました。また、同時に市立神戸実業補修学校にも入り、2回も優等賞と皆勤賞を受けました。大正12年(1923)には兵庫県立工業学校別科機械科を皆勤で卒業、15年には神戸高等専修学校電気科の課程を卒業し、有能な技師としての知識と技術を磨いていきました。
文太郎は理数系に優れ、趣味もなく仕事一筋でしたが、社内に余暇を遠足で楽しむ目的の会「デテイル会」が結成されるや、たちまちリーダーとして率先、余暇は山歩き一筋に変わりました。それは遠足の域を越えて本格的な登山へ発展していきました。

●単独行の登山家
足の速い彼は次第に驚異的存在となっていきました。彼の単独行の最初は大正14年(1925)、六甲山脈全縦走をおこなった時でした。この時、家を出てから家に帰り着くまで全部歩きづめで約100キロを歩き続けました。この頃から、歩くことに本格的に興味と自信を持つようになり、県下の国道、県道歩きが始まりました。神戸から浜坂の生家に時々帰っていますが、全行程100キロ以上を何度も徒歩で帰っています。但馬の山はほとんど踏破していました。
大正14年(1925)、日本アルプスに登り、本格登山歴の出発点となりました。当時登山する人たちはどちらかというと貴族趣味で、金と時間の充分ある人たちが多かったので服装も派手でした。文太郎の服装は地味で、しかも手づくりの服でしたし、靴も地下足袋を用い、いつも一人だったので、登山家たちからは「単独行の加藤」「地下足袋の加藤」と呼ばれていました。登山では単独行はタブー視され、ポーターを連れずに登る文太郎は軽蔑的に見られ、山岳会では異色でした。
しかし、文太郎自身は、そういう視線に無頓着で黙々と登山を続けました。そして、冬山単独行を成功させ、次第に有名になり名声は上がる一方でした。
昭和10年(1935)、花子と結婚。娘の登志子も生まれ、幸せな日々でした。
昭和11年(1936)元旦、いつもは単独行の文太郎がこの時は友達といっしょに山にいました。そして、遭難。暖かくなった4月、加藤文太郎の遺体が発見されました。
加藤文太郎の生涯は新田次郎氏の名作「孤高の人」となって出版され、多くの人々に感動を与えています。

2011/06/22  

丸山修三【まるやましゅうぞう】

 

丸山修三【まるやましゅうぞう】

丸山修三
(1904~1990)
明治37年3月16日、兵庫県美方郡香美町村岡区野々上に生まれる。歌人。京都府立医大を卒業後、開業医をしながら、アララギに入会。歌集「栃の木」「白き花」「暦日」「雑木山」「雑木原」など。兵庫県ともしび賞、半どん賞受賞
●生い立ち
丸山修三は明治37年(1904)、美方郡香美町村岡区野々上に父福井国太郎、母もとの四男四女の三男として生まれました。福井家は旧家で、父国太郎は文化人として俳句をよくしていました。彼の兄福井一雄氏は「明星」の同人でしたが、修三は「アララギ」に所属し活躍しました。
大正13年(1924)、京都府立医科大学在学中に、「アララギ」に入会し、土田耕平氏に師事しました。はやくから修三の資質の高さは異彩を放っていました。土田が病むと森山汀川につき、やがて土田の病状が進行した際、斉藤茂吉の診察にも立ち会いました。
大正15年(1926)、香美町村岡区原の丸山家の養子として迎えられました。丸山家もまた、代々続いた庄屋でした。昭和5年(1930)、大学卒業と共に丸山久子と結婚、大学助手を勤めることになりました。京都に住んでいた十余年の間に修三の短歌の方向が決まったとも言えます。京都花園の修三宅を土屋文明が幾度か訪れてもいます。
昭和8年(1933)、家を守ることと、地元からの医療充実への強い要望に応えて村岡町へ帰ってきて、自宅診療を開始しました。そして、2年後には香美町村岡区福岡に開業し、生涯を僻地医療に捧げることとなりました。

●但馬と共に生きた歌人
修三は「但馬アララギ」を創刊する一方、「雪線」・「但馬歌人」・京都の「林泉」の同人であり育ての親でもありました。修三がこれらの機関誌の選者になるや投稿者は激増し、但馬はもちろん丹波・丹後一円から師事した人は数え切れません。

さまざまに断りたりし挙句には 吹雪の中に往診に出づ
この村が好きのならむとつとめ来て 都忘れの花も植えたり

昭和49年(1974)12月、但馬の歌人たちが集い、丸山修三顕彰碑を香美町村岡区の兎和野高原に建てました。

つらなりて山遠く見ゆ夕映えは ただしばらくの間なれども

と刻された歌碑は背後に瀞川・鉢伏・氷ノ山を背負い、前方に妙見山・蘇武岳の連峰を望む地に建っています。自然を愛し、但馬の山を愛した修三の魂の安らぎの地でもあります。
晩年、目も耳も不自由になりながら、平成2年(1990)7月死の直前まで淡々と歌を詠み続けました。

(絶筆) 裏山に鳩啼きゐる声を聞く 八十六歳まだ生きている

長男・丸山茂樹氏は父修三の文学的資質を受け継ぎ、さらに発展させ、あちこちの短歌会の指導に忙しい日々をおくっています。

2011/06/22  

和田完二【わだかんじ】

 

和田完二【わだかんじ】

和田完二
(1896~1968)
明治29年6月12日、兵庫県豊岡市竹野町松本に生まれる。

丸善石油(現コスモ石油)社長・同顧問・同相談役。丸善石油事業団を設立し社会福祉に貢献。日本馬術連盟副会長、関西乗馬団体連合会会長


記念碑

竹野小学校校門を入ってすぐにある。和田完二は小学校に体育館の新築や施設備品の寄贈などをしている。

●生い立ち
和田完二の父は豊岡藩士でしたが、廃藩置県によって浪人となり、新しい仕事として豊岡市竹野町の小学校分校長に赴任しました。完二はこの校長宿舎で明治29年6月、父良之助、母はつのニ男として生まれました。姉、兄、弟の4人兄弟で一家7人の新しい生活が始まりました。

生活はかなり苦しかったのですが、父は武士道精神を貫き、どんなに貧しくても信念を曲げない人でした。家でのしつけも祖母や父の影響で厳しく、勉強は徹底的にやらされました。豊岡中学校には合格者の中で5番の成績で入学しました。しかし、苦しい生活の中で学費を出すのは大変なことでした。豊岡の名士である岡毅家へ書生として住み込んで通学するようになりました。

中学卒業後、舞鶴の原田家に養子へ行きました。しかし、「おれも男だ。養子で一生過ごすよりも、自分で人生を切り拓くのだ」と実家へ帰ってきました。そして、南満州鉄道(満鉄)に入社しました。


●経営の神髄は人間愛

その後、丸善鉱油(丸善石油の前身)に就職。中国大陸での営業の手始めとして満鉄納入に成功。次々に販売基地を設置しました。が、日中戦争・太平洋戦争の渦に巻き込まれていきました。昭和21年(1946)12月、敗戦により無一物、着のみ着のままで同志23人といっしょに引き上げてきました。

昭和24年(1949)、製油事業の再開が検討されました。10年間の統制経済から開放され、石油各社は事業拡大の競争に入りました。しかし、石油に精通した人材は少なく、時の高橋丸善石油社長から丸善復帰を要請された完二は、同志23人とともに復帰しました。奮闘の結果、戦後の丸善石油発展の基礎を確立、請われるままに社長に就任し、23人は完二の手足となって働きました。

彼は人情に厚く、竹野町に多額の寄付をしたり、社会福祉事業には特に大きな貢献をしました。その後、丸善石油は合併によりコスモ石油に生まれ変わって現在に至っています。

趣味といえば乗馬一筋、彼にはさっそうと走る馬がよく似合っていました。

2011/06/22  

太田垣士郎【おおたがきしろう】

 

太田垣士郎【おおたがきしろう】

太田垣士郎
(1894~1964)
明治27年2月、兵庫県豊岡市城崎町に生まれる。関西電力の社長に就任、黒部ダム建設に着工。関西経済連合会会長就任、なにわ賞、藍綬褒章などを受賞。
●生い立ち

城崎温泉「ゆとうや」の近くにある屋敷で、明治27年(1894)2月1日に生まれました。父・隆準(りゅうせつ)、母・婦久(ふく)にとって、待ち望んでいた初めての男の子でした。父は東京帝国大学医科大学を卒業した後、城崎で「太田垣医院」を開業する医者でした。

小さい頃からガキ大将で、親しい仲間からは「ガキ士郎さん」と呼ばれました。明治38年(1905)、長さ6~7ミリの割りビョウをのどの奥につまらせ、とれなくなってしまいました。その後の士郎は病弱となり、なかなか学校へ行けず、休学することになりました。大変苦しい時を過ぎ、明治44年(1911)、不思議にもビョウが自然にのどから飛び出してきたのです。若い士郎の体は元気を取り戻し、豊岡中学校に復学することができました。

大正6年、京都帝国大学経済学部に入学。大正9年、27歳で卒業した士郎は、大阪の日本信託銀行へ就職。翌10年、奥田ふくと結婚。阪急電鉄へ転職しました。


●関西財界のリーダー

昭和18年(1917)、阪急・京阪が合併し、京阪神急行電鉄となり、昭和21年、取締役社長に就任しました。翌年、長男・長女が相次いで亡くなるという悲しみが士郎をおそいました。この悲しみを乗り越え、昭和26年(1951)、関西電力取締役社長に就任しましたが、このころ電力不足で停電が相次いでいました。士郎は社内の仕組みの改革に踏み切り、黒部ダムの事業に着工しました。

さまざまな苦難を乗り越え、昭和38年(1963)6月、黒部ダムの盛大な竣工式が行われました。約513億円におよぶ建築費とのべ約1万人という労働者を投入し、171人の尊い犠牲と7年の歳月をかけた世紀の大事業は完成したのです。

その後、関西経済連合会の会長を引き受け、経済界に連帯感と秩序ある成長の必要性を説き、大阪、関西、近畿、さらに日本の経済と社会の発展をめざしました。

昭和39年(1964)3月13日、再度の出血で意識不明となり、16日静かに永遠の眠りにつきました。享年71歳でした。

2011/06/22  

中江種造【なかえたねぞう】

 

中江種造【なかえたねぞう】

中江種造
(1846~1931)
弘化3年2月15日、兵庫県豊岡市京町に生まれる。鉱業家。豊岡市上水道建設費を寄付。


豊岡市寿公園にある像
毎年5月11日に水道まつりが行われる。

●生い立ち

弘化3年(1846)2月10日or15日(?)、豊岡藩の藩主京極甲斐守高行(きょうごくかいのかみたかゆき)の下級武士の子どもとして武家屋敷(豊岡市京町)に生まれました。父は河本筑右衛門元則(こうもとちくえもんもとのり)、母を松子といいました。種造は13歳になった安政5年(1858)8月、急に豊岡藩士・中江晨吉(しんきち)の養子になりました。

種造は豊岡藩内の警備に当たるかたわら、火薬や砲術の技術や数学(和算)、測量も習いました。慶応4年(1868)戊辰(ぼしん)戦争が始まると、種造は豊岡藩兵48人と共に京都に行き、桂御所(かつらごしょ)の護衛に当たりました。そして、京都滞在中に理化学および砲術家として知れ渡っていた久世治作(くぜじさく)と出会い、久世に従って化学を学びはじめました。

今度は大阪から「貨幣司出仕」(かへいししゅっし)の命令が届きました。「貨幣司」とは現在の造幣局の前身のことです。新政府の一番大切な仕事につくことになりました。そして、仕事を通じて専門的な化学の知識、金属類の分析技術を身につけました。

慶応4年(1868)、年号が明治元年と改まった年、貨幣司から鉱山司に転じた種造は、生野銀山でフランス人の鉱山技師コワニエたちと一緒に鉱山開発に当たりました。

●鉱山王への道

その後、裸一貫で東京に飛び出し、明治8年から17年まで、古河市兵衛(ふるかわいちべえ)の顧問技師として、栃木県足尾銅山や新潟県草倉銅山の経営に当たり、それらを「古河鉱業」のドル箱に仕上げていきました。明治17年(1884)、顧問役をつとめた古河家を辞して、独立自営の鉱業家として立ち上がり、岡山県の国盛鉱山を手始めに次々と鉱山を買収していきました。

種造は鉱業だけでなく、植林もすすめました。明治39年(1906)9月「中江済学会」という育英基金を創設し、500万本の植樹を行い、また人材も育てました。この奨学金のおかげで多くの大学教授や弁護士、医師などが育っています。

種造は郷里の産業育成にも力を入れていました。豊岡市の宝林銀行、日高町の兵庫県立製糸工場、豊岡市の中江煉瓦工場などの経営にも関わっていました。

大正10年(1911)豊岡市上水道建設費33万円の寄付を申し出ました。これは工事費の全額です。種造はここで、「上水道が完成して、各戸から水道料を徴収したら、その収益金の中から百万円を積み立て、これを町の奨学基金とする」という条件を付けました。結局、中江の寄付総額は38万800円におよびました。また、奨学金制度は現在も続けられています。

豊岡市街地寿公園(ロータリー)には、中江種造の像が建てられ、毎年5月11日には水道まつりが行われています。

2011/06/22  

柴田勝太郎【しばたかつたろう】

 

柴田勝太郎【しばたかつたろう】

柴田勝太郎
(1889~1975)
兵庫県朝来市山東町大月に生まれる。尿素肥料の開発者。
●農業の近代化に貢献
柴田勝太郎は朝来市山東町大月に生まれました。大正4年(1915)、東北大学理学部科学科を卒業し、アンモニアやメタノールの合成研究において画期的な成果をあげ、企業化に成功しました。

特に昭和12年(1937)から10年間にわたる尿素の研究成果は、尿素肥料として農業の近代化に大きく貢献し、その製造法は世界的に認められ、称賛されました。

2011/06/22  

赤木正雄【あかぎまさお】

 

赤木正雄【あかぎまさお】

赤木正雄
(1887~1972)

明治20年3月24日、兵庫県豊岡市引野に生まれる。治水事業に尽くし、砂防の神様と呼ばれた。

農学博士・内務省技師・参議院議員・建設政務次官・豊岡市名誉市民・文化勲章受章


円山川塩津公園の像

像のようにいつもリュックサックに登山靴姿でどこへでも出かけ仕事をしていたという。

●生い立ち

日本治水砂防の神様・赤木正雄は明治20年(1887)3月24日、豊岡市引野に生まれました。父甚太夫、母たみの四女二男の末っ子で、地方の豪農であった赤木家は甚太夫で11代目に当たります。

正雄の生まれたこの一帯は円山川の右岸にあり、過去に幾度も氾濫を繰り返し被災しました。洪水の恐ろしさは小さな頃から心に刻み込まれたに違いありません。

豊岡中学を卒業後、単身上京した正雄は、早稲田大学生の兄に迎えられ一緒に同居し勉強することとなりました。明治41年(1908)念願の第一高等学校に入学。明治43年(1911)9月我が国は大水害を受けました。その時、新渡戸稲造第一高等学校長は始業式で「治水事業は華々しい仕事ではないが、諸君のうち一人でも治水に身を捧げて、水害をなくすことに志を立てる者はいないか」とお話をされました。

これを聞いた正雄は、「よし、治水事業に自分の身を投げ出そう。そして、その上の砂防を研究しよう」と決心しました。

●治水砂防の神様

東京帝国大学農学部林学科砂防に学び、林学出身者ではじめて内務省に就職しました。鬼怒川、信濃川、木津川、瀬田川、富士川、神通川、天竜川、六甲山など全国の砂防工事を指導しました。

在職すること28年、内務省技術陣のほとんどが土木出身者という中で一人、林学出身の赤木は困難を克服しようと努力しました。そして、数々の実績を積み、日本に「赤木砂防」を普及させました。また、渓流河川(上流)の改修を一般河川改修の分野から取り外して砂防工事の分野に入れ、ついに土木局内から砂防課を創設するという治水機構の根本的改正を実現させました。

円山川直轄工事・一級河川編入・山陰海岸国立公園編入をはじめ、但馬小中河川改修に果たした功績は大きいものがあります。

※砂防とは

山地・海岸・河岸などで土砂の破壊・流出・移動などを植林・護岸・水制・ダムなどにより防止すること。

2011/06/22  

藤原東川【ふじわらとうせん】

 

藤原東川【ふじわらとうせん】

藤原東川
(1887~1966)
明治20年1月、兵庫県朝来市和田山町に生まれる。歌人。農民の喜びや悲しみを歌う「田園歌人」「農民歌人」といわれた。「郷愁」「にいはり」「乳木」「山帰来」の歌集を残している。
●生い立ち
明治20年(1887)1月18日、朝来市和田山町宮に、父・久蔵、母・さとの長男として生まれ、与八郎と名付けられました。素直で明るく、成績もよかったので、学校や村の人たちからの信頼もあつく、みんなから大切にされていました。小学校高等科を主席の成績で卒業し、本人も学校も進学を希望したのですが、跡取りとして百姓をしなければならず、進学はかないませんでした。

農業にあけくれる生活の中で、これではだめだと村を出る決心をし、明治37年(1904)、17歳の時、突然神戸へ出ていきました。しかし、学歴もなく特別な技術も持たない彼は、その日その日によって仕事を転々とする日雇い人夫しか働き口がなく、ついに絶望の果て、郷里に帰ることになりました。

故郷に帰った彼は、農業のかたわら漢詩を学び、新聞・雑誌の文芸欄に投稿し続け、作品がしばしば入選し、認められるようになりました。

●農民の喜びや悲しみを歌に

明治43年(1910)、いよいよ文筆活動で世に立とうと考え、家族の反対を押し切って東京に出ました。当時24歳でした。ところが、生活費に困り、学費が続かず、途中で退学。翌44年(1911)、東京での生活を断念、再び故郷へ帰らざるを得なくなりました。

帰郷後の彼は、ますます勉強に励み、大正4年(1915)29歳の時、中路よしと結婚。翌年、若山牧水主宰の歌誌『創作』の詩友となり、本格的な歌人としてのスタートを切りました。

東川の但馬歌壇における功績は、但馬の歌人を結集して一つの大きなエネルギーを作り出したことです。これまで、但馬の歌壇は結社ごとに独立して、他の結社との交渉はほとんどありませんでした。東川の作った『雪線』はそれぞれの独立性を尊重しながら、短歌を作るという共通の目標を結集した原点です。『雪線』は昭和58年(1983)400号を突破し、会員も300名を越えました。『雪線』は平成元年(1989)1月号より『但丹歌人』と改め、現在に及んでいます。東川が但馬歌壇の父といわれ、今も多くの人から敬愛され、圧倒的な地位を占めている理由がここにあります。また、但馬史研究会の創設に力を尽くしたことも忘れてはなりません。

春いまだ野は 冬枯れのままながら 柳畑のいろのあかるさ

野良ぐるま ひきてかえるに道遠く いつしか月の光をぞ踏む

春によし 夏はまたよし 秋はなほ今日あたためて飲む冬の酒

張り替えて 吉き日をぞ待つわが家の障子 さやけき今朝は雪晴れ

昭和41年(1966)3月19日、多くの人々に惜しまれながら、生涯を閉じました。享年79歳でした。

2011/06/22  

前田純孝【まえだじゅんこう】(翠渓すいけい)

 

前田純孝【まえだじゅんこう】(翠渓すいけい)

前田純孝(翠渓)
(1880~1911)
明治13年4月3日、兵庫県美方郡新温泉町(旧浜坂町)諸寄に生まれる。東の啄木(たくぼく)、西の純孝(じゅんこう)と並び称された明治末期の我が国の若き詩人。

歌碑

ふるさとの浜坂町諸寄の海にのぞみ建てられている歌碑

●生い立ち
東の啄木(たくぼく)、西の純孝(じゅんこう)と並び称された明治末期の我が国の若き詩人。前田純孝は明治13年(1880)4月3日、浜坂町諸寄(現新温泉町)の旧家に父純正、母うたの長男として生まれました。

父はかつて池田草庵(いけだそうあん)の青谿書院(せいけいしょいん)の門下生で、村一番の教養人でしたが、生活力がなく前田家はどんどん落ちぶれていきました。また、うたを正妻に迎えても愛人との関係を断つことができず、妻の親族から離婚を突きつけられ、母は村岡町の実家へ帰って行きました。純孝3歳の時でした。離婚すると、すぐに愛人が正妻として入り、継母と異母兄弟との生活が始まりました。継母とうまくいかず、悲しみ多い幼児期を過ごしました。

純孝は7歳にして家族と別れ、鳥取師範付属小学校に入学。卒業する15歳まで一度も帰省せず勉学一途に励みました。彼の孤独な感覚は次第に文学へと転化されていきました。

●薄幸の歌人

文学的才能は御影師範学校・東京高等師範学校在学中から発揮され、雑誌「明星」(みょうじょう)の投稿によって、個人的感情的表現は彼の生い立ちと相まって一段と磨かれていきました。

秋雨は親はなくとも育ちたる 我と知りつつ降るとし思ふ

牛の背に我を乗せずや草刈女 春来峠はあう人もなし

君を思う我をはた思う君我の 二人の中のいとし児ぞこれ

大阪島之内高等女学校教頭として赴任、妻信子を得てしばしの幸福感に浸りましたが、長くは続きませんでした。純孝は過労から倒れたのです。肺結核でした。時を同じくして妻も産後の肥立ちが悪化、夫婦枕を並べての療養生活が始まりました。妻子に迷惑をかけないように純孝は療養場所を故郷に移しました。

死の直前まで数々の学校唱歌や歌集を創作し、前田純孝は明石に残した妻子を思いながら31歳の生涯を閉じました。

干からびし我が血を吸いていきてある 虱はさらにあわれなるもの

(絶筆)

風吹かば松の枝なる枝なれば 明石を思ふ妹と子思ふ

純孝の二千数首の珠玉の歌集は純孝研究者たちの力で世の中に蘇ってきました。